2017.3.19

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「わたしに従いなさい」

秋葉正二

列王記上19,19-20ルカによる福音書9,57-62

 テキストはマタイ福音書8章に並行記事があります。 マタイの方が簡略で、ルカの61,62節に当たる部分がありません。 そこで聖書学では、マタイの記事がQと呼ばれる資料に基づく伝承部分で、ルカの61,62節はルカが編集で加筆した部分であろうと見ています。 そうだとしたら、なぜルカは拡張部分を加筆したのかを考えて行けばいいでしょう。

 物語の筋は簡単です。 マタイではイエスさまの前に2人の弟子志願者が現れていますが、ルカでは3人です。 つまり3人目の志願者をルカは追加したことになります。 ということで物語を読んでいきますと、まず57節一人目の志願者が登場します。 彼はイエスさまが行く所なら、『どこへでも従って参ります』 と言っていますから、自分から 「従っていきます」 と志願したわけです。 その言い方は少し感情的、熱狂的な匂いがします。 これに対し、イエスさまは直接弟子にするとかしないとかは答えられず、面白い格言を語られました。 曰く、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある……』。 一番目の志願者はこの言葉の意味が分かったでしょうか? イエスさまは狐や鳥でさえ自分の巣を持っているが、自分には枕する所もない、言わば旅人みたいな者だと言われているわけです。  端的に言えば、志願に取り合わず体良く申し出を断った、と理解してよいでしょうか。  続く59節、2番目の志願者です。 この人には最初にイエスさまの方から 『わたしに従いなさい』 と声をかけておられますから、1番目の人ほど積極的な志願者ではないのかもしれません。

 それでもイエスさまに声をかけられると、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』 と応じていますから、一応志願者であることは分かります。 この人に対するイエスさまのお言葉は結構きついものです。 『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』。 ちょっと意味が分かりにくい表現です。 「死んでいる者たち」はいわゆる死者ではないでしょう。 言うなれば霊的に死んでいる人たちです。 神から頂いた本当の生命を理解していない人たち、そういう人たちは死者のために悲しむかもしれないけれども、キリストに従う者は、彼の中にある生命に関する良い知らせを告げ知らせるべきだ、というのです。

 私たちはここで、イエス・キリストが死の力を滅ぼすために死のうとしている事実を思い起こすべきです。 イエスさまは決して、家族に対する誠実な要求を拒否したわけではないでしょう。 ユダヤ教の世界では、「父を葬る」ことは十戒の戒めに基づく善であり、他のすべての宗教規定に優先することでした。 しかし、安息日とか清めとかの儀式律法を批判したイエスさまにとっては、ここで [本当の生命に関する良い知らせを告げ知らせる] 務めこそが、ユダヤの道徳的儀式律法すべてに優先する非常に差し迫ったことであることを、教えられたのです。 イエスの弟子たる者にとっては、神の国の宣教が何ものにも優先されるべきことをはっきり示されたのです。考えてみれば、ローマの出征軍人だって、こうした場合、国家のために「父を葬る」ことは断念しなければならなかったのです。 それを思えば、主イエスの兵卒たる弟子は、「神の国」のためには、すぐに出陣しなければならない、ということでしょう。

 父母に別れを言いに行くと言えば、私たちはすぐに旧約のエリヤがエリシャを弟子にした時のことを思い出します。 牛を使って畑を耕しているエリシャにエリヤが出会った時の物語です。 列王記上19章にその記事はありますが、その時エリヤはエリシャに父母に別れを言いに行くことを許しました。 イエスさまはエリヤとエリシャのことを思い出していたでしょうか。 シチュエイションが違うので簡単に比較するわけにはいきませんが、何か話の筋に共通なものを感じます。

 さて、61節には3番目の志願者が登場します。 この人は1番目の志願者と同じように、『主よ、あなたに従います』 と言っています。 「主よ」と呼びかけている点が第1の志願者と違うところです。 ですからそれなりの覚悟をもってイエスさまに志願したのでしょう。 ところが、この人も2番目の人と同じように、『まず家族にいとまごいに行かせてください』 と申し出ていますから、「主よ」と呼びかけているわりには、その覚悟が強固なものではなかったことが暗示されています。 そして、この3番目の志願者に対して主イエスが言われたことがまたちょっと変わっています。 『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』。

 ここでも牛を使って畑を耕していたエリシャの記事が思い出されます。 「鋤」と言っても、もう都会の若い人には分からないかも知れません。 鍬の先を櫛状にしたものを考えればよいのですが、この場合は、牛や馬に引かせて土壌を耕す道具でしょう。 鋤を使うときは、しっかり前を見て、畝が直線になっているかどうかに注意しながらうまく操作しないと畝は曲がってしまいます。 鋤の使い方一つで、畑の畝作りという耕作作業は台無しになる危険性があります。

 イエスさまの時代、最も厳しかった労働はやっぱり私は農耕だったと思います。 地味で目立たず、その上天候に気を配って、一日もおろそかにできないわけですから、農耕が一番きつかったと思うのです。 現代人の多くは草むしり一つをとってもすぐに音をあげる始末ですが、人間が汗水流して農作業をしなくなったというのは、社会的に見て、人間世界を大きく変えてしまったのではないでしょうか。 イエスさまも本来労働者の一人であり、旅先では多くの労働者を見ておられたはずですから、「鋤に手をかけて」というような表現が出てきたのだと思います。ここでは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」という行為が、イエス・キリストに従うと言いながら、他のことに後ろ髪を引かれることに重ねられています。 そうした行為は、『神の国にふさわしくない』と指摘されています。

 もう昔のことですが、私が牧師になろうとした時、一つ考えたことがありました。 それは、伝道者への道を進まなければ、おそらく聖書を読まなくなるだろうという怖れです。 それどころか信仰からも離れてしまうかもしれないと思いました。 自分の意思が弱いことを自覚していましたから、そう感じたのです。 ですからその頃、このイエスさまの一言は私にとって大きな意味をもっていました。 一度決心したのだから、後ろを振り返るともう戻れなくなる、と思わざるを得ませんでした。3人の志願者どころか、自分のこととしてイエスさまの一言は迫ってきたことを思い出します。

 人生には後ろを顧みることが必要な場合もあるでしょう。 しかし大事なことに一度踏み出したら、後ろを振り返ることは取り返しがつかなくなることを肝に命じておいた方がよさそうです。 イエス・キリストに従うということは、主ご自身が指摘されているように、自分の十字架を負いながらイエスさまを見失わないように歩むことです。 大抵の場合、その道のりは厳しく映ります。 しかし隠れて見えなくても、その道に一歩を踏み出した時、私たちは「神の国」の祝福に与って歩み始めているのです。 人生の他のことがたとえうまくいったとしても、神さまからの祝福を失ってしまったら、私たちの人生は空しいものになっていきます。 イエスさまの、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』 というお言葉は、人間に対するお叱りの言葉でもあると思いますが、それよりは、神さまから離れてしまいそうな人に対する、イエスさまの慈愛溢れた戒めの一言だと思うのです。

 時々私たちは自分の信仰生活が情けなく思えることがありますが、たとえそうであっても、神さまから離れてはなりません。 もう古くなり取り外してしまったのですが、我が家の応接間に長いこと、二人の弟子とエマオへ向かわれる復活のイエスさまを描いた複製画が架けてありました。 その絵を見るたびにいつも思ったのですが、私たちの人生はどこかに不安を抱えていて、これから先何が起こるか分からない心細い思いを抱きながら、とぼとぼ歩む人生だなと感じたのです。 でもふと気がつくと、隣りにイエスさまが一緒に歩んでいてくださっている……それがキリスト者の人生ではないでしょうか。

 私たちにはこの世の心配事がたくさんありますが、神さまの恵みというのは、ちょうど夜露みたいに、私たちが気がつくとしっとり濡れているのです。 イエスさまのお言葉一つ一つが、私たちの人生をちゃんと気にかけてくださっている愛情から出ています。 日々の生活が順風満帆でも、うまく行かなくても、すべての人生は神さまのみ手の中です。 今一度、覚悟をもって、鋤に手をかけながら後ろを振り返るようなことをせず、まっすぐな畝を作れるように、しっかり前を見て、全生涯を神さまに委ねて生きてまいりましょう。 お祈りします。


 
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