申命記の冒頭には(1,5)、イスラエルの民が荒野の旅を経てようやく「約束の地」カナンの入口に辿り着いたことが書かれています。 聖書の付録の地図の2,3で場所を確認できます。 さて、モーセはそこで荒野の旅を振り返り、あのシナイの契約の精神をもう一度説き聞かせて、イスラエルの人々に唯一の主ヤーウェへの忠誠を勧めて死んでいきます。 申命記の内容を一言で言えばそういうことになります。 ですから申命記はモーセの告別説教だとも言われます。 しかし同時に申命記は、全体としては契約文書の形を取っていて、シナイ契約をモアブの地で再確認する文書でもあります。 要するに申命記は教えの形をとった契約の書でもあります。 5-28章までが聖書学で 「原申命記」 と呼ばれる契約の部分で、私たちが読んでいる申命記の原型にあたる部分だと考えられています。
では一体きょうのテキストは全体のどの部分なのかということですが、29章以下最後までがモアブでの契約の締めくくり部分で、その一部です。 30章ではこの契約に背いて滅びを招かないことが述べられています。 申命記はトーラー(律法)、いわゆるモーセ五書の最後に置かれていますが、これはモーセ五書を締めくくると同時に、次から続くヨシュア記、士師記、サムエル記といった歴史書への橋渡しの役割をしています。 それは新約聖書でヨハネ福音書が福音書の最後に置かれて福音書全体の締めくくりの役割を務め、主イエスの時代から次の使徒言行録の教会の時代へとつないでいることに似ています。 申命記はモーセの時代から次のカナン定住時代へと時をつなぐのです。
というところで、テキストの全体から見た位置確認はここまでにしておき、本文に入っていきましょう。 まず11節にいきなり 『わたしが今日あなたに命じるこの戒め』 という表現が出てきます。 この命じられている戒めとは、他の類似の箇所を参考にしますと、6章や11章などに見られるように、唯一の神ヤーウェをひたすら愛するという申命記の根本命令を指していることが分かります。 イエスさまが「善きサマリア人」の箇所(ルカ10,25)で、律法学者に「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか?」と質問されて、『律法には何と書いてあるか』 と、反対にその律法学者からその言葉を引き出させたことを思い出します。 その根本命令を、モーセが 『今日あなたに命じる』 というのです。 「今日」ですから、言うなれば 「現在の生きた語りかけ」 です。
この根本命令は、『難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない』 と言っています。 「難しすぎるものでもなく」とありますが、この「難しい」という言葉は、知恵文学に特有な表現です。 知恵文学というのは、古代オリエント世界における国際的な文学活動によってできた特定グループの文学ですが、旧約聖書では、箴言・ヨブ記・コヘレトの言葉・詩編の一部などがこのジャンルに入ります。 旧約外典の「ベン・シラの知恵」とか「ソロモンの知恵」などもそうです。 そうした知恵文学に属する書物にこの「難しい」あるいは「不思議な」と訳される言葉が使われています。 つまり、知恵というのは誰にでも開放されているものではなく、知者とか賢者とか一部の専門家のものであって、言うなればインテリの独占物だ、という考え方がこの「難しい」という表現には含まれているわけです。 申命記のきょうのテキストは、そうした考え方にNOを言っているのです。 唯一神ヤーウェをひたすら愛せという根本命令は、万人に開放されているのだと主張しています。
もう一つ 『遠く及ばぬものでもない』 と言う表現もあります。 これは続く12節と13節で具体的な比喩として示されます。 ちょっと読んでみます。 12節、『それは天にあるものではなから、“だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが”と言うには及ばない』。 この言葉は知恵文学の考え方と比較するように、書かれています。
例えば知恵文学の一つ箴言の30章3,4節にはこういう表現があります。 『知恵を教えられたこともなく、聖なる方を知ることもできない。天に昇り、また降った者は誰か……』。 こうした表現を見ると、コントラストはよりハッキリします。 そして13節、『海のかなたにあるものでもないから“だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが”と言うには及ばない』。 これも同様です。 遠く海外へ渡って、新知識を仕入れて来ることは現在でも一部の人の特権でしょう。 このように、知恵が天の上や海の彼方に隠されていて、人が容易には近づけないのに対して、申命記の根本命令は遠いものではない、一般の人にとっても秘密の知恵なのではない、それは万人に開かれた真理だ、と申命記は主張するのです。
14節にはきょうの説教題にあるように、『御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる』 とあります。 知恵文学の考え方とは違って、申命記は、『御言葉はあなたのごく近くにある』 と言っています。 一般の人が近づけない秘密の知恵ではない、と主張します。 さらには、その言葉が 『あなたの口と心にある』 と念を押すのです。 そういえば、6章5節の根本命令は続く6章6節で、『これらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に坐っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい』 と言っています。 これは日常生活の中で常時意識しなさい、という指摘でしょう。 一部の専門家だけでなく、誰もが心に留めて自分の口で話すことができるという意味です。
とにかく申命記にとっては、信仰の時は現在であり、「今日」なのです。 そういう形で、信仰の言葉がいつも現在の語りかけとして「ごく近くにある」のです。 さて先ほどロマ書10,5-13を新約の言葉として一緒に読みました。 パウロが彼独自の形で申命記30章11-14節を引用しているからです。 パウロはモーセの言葉をイエス・キリストの信仰へとつなげました。 ロマ書10章5節でモーセの言葉の中に、律法による義のあることをレビ記を引用しながら、信仰による義も教えられているとして、続く6,7節で申命記のきょうの箇所を引用しているのです。 この解釈はパウロ独自のものでしょう。 彼はモーセの言葉のうちに、律法の義と信仰による義を区別しています。
パウロの立場はあくまでも信仰義認ですから、その立場から申命記に批判的な解釈を加えたと見ることも可能です。 彼は申命記30章12節について、「天に昇る」というのは「キリストを引き降ろすため」だと言います。 変な言い方だなと思いますが、その意味は、キリストこそが知恵なので、知恵であるキリストを天上に探し求める必要はないということではないかと思います。 そして申命記30章13節については、『海のかなた』ではなく、『底なしの淵』と言い換えます。 知恵であるキリストを陰府にまで下って探し求める必要はないよ、ということなのでしょう。 いずれにせよ、それはパウロ個人の独自解釈ですから、私たちとしては参考にさせてもらうということでよいと思います。
申命記では、基本的に律法は実行可能なものとしていると思いますが、パウロはそうは理解していないので、その点両者は根本的に異なります。 しかしパウロがロマ書10章8節から本論に入って、申命記の 『御言葉はあなたのごく近くにある』 を引用して、「言葉が近くにある」というのは、『わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです』 と説明しているのは傾聴に値します。 信仰の言葉は、常に生きた語りかけとして、誰もが聞くことができる言葉だからです。 パウロは例によってしつこく信仰の義を論じて、ついには宣教の言葉に辿り着いたということでしょう。 私たちはキリストの復活後、キリストの言葉を遠くに探しに行く必要はありません。 キリストの言葉は秘密の言葉ではなく、誰にでも近づける信仰の言葉です。 私たちは神さまからの生きた語りかけとして、宣教の言葉を誰でも聞くことができます。 文字通り、『御言葉はごく近くにある』 のです。
信仰の言葉が口にあり、心にあるというのは、パウロの10章9節の表現に従えば、『口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる』 ことです。 「イエスが主である」という告白は、初代教会の最も古い信仰告白です。 「神がイエスを死者の中から復活させられた」というのは、信仰者の証言です。 復活の証人として、使徒たちがそれは真実だと証言する告白です。 それを初代教会の証人たちは、自己存在を賭けて証明しました。 少々分かりにくい理論であり、つなげ方ではありますが、私たちはパウロが申命記とイエスさまの接点を示してくれたことに感謝してよいと思います。
パウロは申命記から説き起こして、イエスが主であるという告白は、信仰による義を示す信仰の言葉であることを示してくれました。 イエスさまは、人が不真実である罪のままそれを受け入れて、その立場を自分で引き受けてくださいました。 私たちがイエスさまを主と呼ぶのは、これを義として自分のものとされるという意味で主なのです。 御言葉は不真実な人間に対して示された神さまの真実です。 私たちは誰でもイエス・キリストと出会い、彼が人間の不真実を受け入れ、人を癒す神さまの真実の愛のうちに招いてくださることを体験できます。 どうぞ、一人でも多くの方が、この体験をされるうよう願っています。 主の名を呼び求める者は誰でも救われます。 祈ります。