2017.2.12

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「今日、救いがこの家を訪れた」

秋葉正二

創世記17,5-6ルカによる福音書19,1-10

 有名な「徴税人ザアカイ」の話です。 皆さんもうご存知だと思いますが、一応物語の背景についていくつかの点を確認しておきます。 まず物語の舞台エリコという町です。 ヨルダン川方面からの交通の要所で、税関所がありました。 そこで働く徴税人は、ローマ帝国から関税徴収を請け負う委託業者です。 徴税する際、住民から不当なマージンを稼ぐのが普通だったと言われています。 ですから彼らは一種の詐欺師や泥棒と見なされていて、法廷で証人に立つ資格さえ与えられていませんでした。 お金を稼げる分、人々から軽蔑されなければなりませんでした。 ましてやザアカイは徴税人の頭であったと2節にありますから、嫌われ方は徴税人の中でも人一倍だったことでしょう。 徴税人になるとき、彼は人々から軽蔑され屈辱を受けたとしても、金持ちになる方を選んだのだと思います。

 ですから初めのうちは裕福に暮らせれば人に嫌われてもいい、と考えていたのでしょう。 しかし、年月が経てば、現実に他人から嫌われ続けることは、想像していたよりもはるかにきついことであったと思うのです。 信頼できる人が身近にいなければ、人は平安には暮らせません。 忌憚なく語り合える相手がいなければ、心穏やかではありません。

 「金の世の中」と言われる通り、この世はお金さえ充分にあれば何でもコントロールできそうですが、実際はお金をもってしても贅沢はできるかもしれませんが、継続的に安心立命を実現することはできないようです。 ザアカイが評判の高いイエスという人が町を通られるというので、どんな人か見てみようとしたのは、お金によっては心が満たされていなかったからだと思うのです。 人の心の内部は誰にも見えませんし、ザアカイを心配してくれる人は一人もいなかったのでしょう。 イエスさまの噂は彼の耳にも入っていたはずです。 この町を通られると聞いて、彼はいてもたってもいられなくなったのです。 もしかしたら、イエスという人は私に何か大切なことを教えてくれるかもしれない …… 。

 3、4節を読みますと、ザアカイの行動には、どこか子どもが宝物を追い求めるように、ある種の必死さが伝わってきます。 群衆が通りかかるイエスさまを見ようと沿道に押しかけていれば、背の低いザアカイは当然イエスさまを見ることはできなかったでしょう。 人々から嫌われていますから、親切に前へどうぞと譲ってくれる人もいません。 そこで彼がとった行動は、何と先回りしていちじく桑の木に登ったというのです。 どこか天真爛漫で、期待をかけた人をこの目で見るまでは何でもしてやろうという、子どもじみた行動性を感じます。

 こうした周囲のことなど一切構わず、一直線の行動が取れたというのは、本来彼には子どもみたいな純真な心があったからではないでしょうか。 少なくともこうした行動をとっているときのザアカイには、儲けること一辺倒のがめつい奴の印象はまったくありません。 徴税人の頭にまでなってしまったけれども、私には本来のザアカイは心優しい人間であったような気がします。 物語全体の流れからすれば、人々から嫌われていたお金の亡者が、イエスさまに出会うことによりその人となりが変えられた、という生まれ変わりストーリーがあると思いますが、どうも私はそういう風に人間が180度ガラッと変わるようなことではないと思えるのです。 ザアカイには誰も気づかないような小さなものだけれども、本来備わっていた柔軟な心があり、それをイエスさまは驚くような導き方で引き出された、そういうことではないかと思うのです。

 私たちは誰でも簡単に人を分類して見てしまうような傾向があります。 収入も高く、社会的に一目置かれるような立場の人を見れば、この人はこれまで相当な努力を積み重ねて今の地位を築いてきたのだろうな、立派な人に違いない、と単純に思います。 一方で、フリーターのまま正規の職にもつけない人を見れば、この人はだらしない人に違いない、と決めつけたりするのです。 私たちには最初から社会的な地位にランク付けをして、その人を値踏みするようなところがあります。 それはイエス時代の人たちも基本的に同じだったはずです。 実はそうした人間の在りように、イエスさまはザアカイとの出会いを通して、根本的な問いを当時の人々に、またこの物語を読んでいる私たちに突きつけておられるのではないでしょうか。

 イエスさまは木の上のザアカイを見て、『ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』 とすぐに声をかけられました。 ギリシャ語の原文では「泊まらねばならない、泊まることが必要だ」という表現になっています。  この一言は、神の子イエスの、うまく生きることができていないザアカイという人物を今救うという決意の一言であると思います。 それはザアカイという一人の人物の救いに限定されない力ある一言でした。

 主イエス・キリストの働きの目的は人間を救うことです。 私たちは皆、ザアカイを軽蔑した人たちも含めて、本当はザアカイと同じように救われなくてはならない存在であることを主イエスははっきりお示しになられた……それがこのザアカイが救われた出来事です。 ですから私たちは決してこの物語を他人事として読んではならないと思うのです。 この私の中にザアカイがいる……他人を押しのけて、少しでも金を稼いで楽をしたい、そのためならばうまく利ざやを稼いでもいいではないか……そういうことを他人に隠して目論んでいる自分を、神さまの前に私たちは認めなくてはならないと思います。

 でもイエスさまはそんなザアカイを愛されたのです。 ザアカイの中にある小さいけれども温かい人間的な部分を取り出されて生かされたのです。 『ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。 この一言には、人を愛してくださる神の力が注がれています。 ザアカイはイエスさまのこの言葉を聞いて、自分という存在がイエスさまにつながっていることを全身全霊をもって感じ取りました。

 この主イエスとザアカイの劇的な出会いに気づいた人はその場にはいなかったようです。 人々はイエスさまを見てつぶやきました。 新約聖書で「つぶやく」というのはある種の「不平を述べる」ことを意味します。 『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』……これは人間のある面を表す悲しい言葉だと思います。 神と人との愛に基づくつながりが分からない人間の言葉です。 私たちは普段こうした言葉を、気がつかないままに、口にしているはずです。

 でもこうした現実もすべて神さまはご存知です。 承知の上で、人間を救おうとされています。 少なくともザアカイは神と人との絆に気がつきました。 それは理屈ではなかったでしょう。 ザアカイはイエスさまの中に神さまの愛を感じたのです。 彼はそれを口から出てくるままに言葉にしました。 『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。 なんで全財産でなくて半分なんだ、とか言う人もいるようですが、そんなことに拘泥する必要はまったくありません。 これはザアカイの信仰告白なのです。 イエスさまに出会ったことが、自分のこれからの生涯が神の導きの中に置かれたことなのだということを、彼は感じ取ったのです。 その結果口から出てきた言葉が、「財産の半分を貧しい人々に施します」という言葉でした。

 この信仰告白に、私たちは人間の言葉を挟んではいけないと思います。 素直にそのまま受けとめるべきです。 イエスさまがザアカイにかけられたお言葉に、私たちは人間が生きる希望を見出すことができます。 私たちにもイエスさまから、『急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい』 と声がかけられています。 その声を皆さん、聞こえるでしょうか? その声を聞くためには信仰の力が必要です。 神さまの前に素直に自分を差し出して、一切を委ねるとき、神さまは私たちにその力を与えてくださいます。 お祈りしましょう。


 
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