新年明けましておめでとうございます。昨年は複雑な様相を呈しているシリアの内戦がますますひどくなり、一昨年に引き続いて難民がヨーロッパ各地へ押し寄せました。その影響で、ヨーロッパ各国では難民排斥を訴える右翼政党が躍進しました。EUを離れる決断をしたイギリスもそうですが、EUの中核ともいうべきドイツやフランスまでもがその波をかぶっています。私たちの国は地理的に離れていることもあり、おそらく多くの日本人は難民を気の毒には思いつつも、対岸の火事的に眺めているのが実情だと思います。
私は一言でいうとヨーロッパの歴史を築き上げてきたキリスト教が問われている事態だと考えています。キリスト教には「よきサマリヤ人」の伝統があり、困っている人を助けるのはキリスト者の義務であり、神さまに対する責任であるという自覚があります。日本は戦後70年以上平和が続いているので、私たちは確かに自分が戦火に巻き込まれて国外に逃れなければならないという状況を実感しにくいことは確かです。しかし、シリアの内戦は難民たちの責任ではないでしょう。激しい内戦が起これば、そこに居住していた人々は命からがら逃れるしか術はありません。おびただしい難民の群れがトルコやギリシャに溢れたとき、ドイツのメルケル首相は「百万人を受け入れる」と宣言し、一昨年以来ドイツはそれを実践してきました。
はるか遠くのカナダやアメリカも相当数の受け入れを行ってきましたが、日本政府はまったく関係ないかのようにそっぽを向いてきたのです。それどころか、国内には在日朝鮮人・韓国人を標的にしたヘイトスピーチが大手を振って活動する始末です。難民申請は日本ではほとんど認められません。年間数人という何とも情けない状態です。ドイツは第二次大戦のホロコーストの責任を負おうとしているのだという指摘もありますが、受け入れ表明の土台にはキリスト教の信仰思想があると思います。迫害や戦争を逃れようとする人たちは保護される権利があることを人権の視点から明らかにしたのです。これまで、フランスやベルギー、トルコ、米国など世界各地で起きたテロにより、「文明のタブー」が侵されたことは事実でしょう。しかしそれでもなおドイツは、右翼の伸張にもかかわらず保護されるべき人をかくまうという理念を堅持し続けています。これはすごいことではないでしょうか。キリスト教の理念に根ざして、文化や宗教の間に恐怖と憎しみが拡散することを拒否しています。日本の政治家に足りないのはこうした深い思想性だと思うのです。新年を迎えるにあたり、私はこんなことを考えていました。
そこで、人間同士が憎しみ合い殺し合う現実と命への尊厳の関係を聖書はどう扱っているのだろうと考えてみました。そこで浮かんできたのが、昨年祈り会で学んだ創世記の一つの記事です。それがきょうのテキストです。ヨセフ物語の中の小さな逸話です。新しい年は血の流れない平和な年であってもらいたいと願いつつ、なぜ人間はいつもこう殺し合うのか、このヨセフに関わる小さな逸話を通して少しでも考えてみたいと思いました。祈り会では族長物語もかなり駆け足で読み進みましたので、きょうは少し腰を落ち着けて読んでみようと思います。ヨセフがエジプトに売られる話です。ヨセフはヤコブの息子ですが、ヤコブの12名の子どもがやがてイスラエル人の先祖となるのはご承知の通りです。
ヨセフにとっては曽祖父にあたるアブラハムも父親ヤコブも様々な人生経験をしていますが、ヨセフはきょうのテキストの物語に始まって50章まで、それこそ波乱万丈の生涯を送ります。一つ一つの物語が小説のように面白いのですが、気をつけなければいけないのはそれぞれが何を主題としているのかをしっかり掴むことです。37章は17歳の青年ヨセフが兄弟との間に色々なトラブルを起こすことから始まります。兄たちが10人いますが、それはいわゆる腹違いの兄たちです。そもそもヨセフの母親ラケルは姉妹のレアと一緒にヤコブの妻となるという複雑な家庭環境にいますし、父ヤコブはレアとラケルの召使である女奴隷たちにも子どもを生ませています。ヨセフは女奴隷たちが生んだ兄たちと遊んでいたように2節に書いてありますが、これは伯母レアの子ども6人には多少遠慮があったせいではないでしょうか。遊んでいた4人は奴隷の子どもですから、兄ではあるけれども単なる兄ではないといった微妙な気持ちがヨセフにはあったのではないかと思います。
おまけに父親は自分を誰よりも可愛がってくれることが分かっていましたから、兄たちに生意気な口をきいたのです。その最たるものが5節以下にあるヨセフが見た二つの夢です。最初の夢は、兄たちの麦束が中央の自分の麦束におじぎをしたというものです。兄たちはヨセフに言いました。『お前がわれわれの王になるというのか。お前がわれわれを支配するというのか』。……次に見た夢は、太陽と月と星とが自分を囲んで拝んだというものです。太陽と月は父と母を、11の星は兄弟たちを表話しており、要するに父・母・兄弟たちが皆ヨセフを拝むようになるというものです。きょうのテキストにはこうした前段階のストーリーがあります。つまり兄たちは、ヨセフが弟のくせに生意気だと頭に来ていた上に、父親ヤコブはどの兄弟よりもヨセフを愛して、ヨセフには高級な裾の長い晴れ着などを作ってやったというような家庭環境が事細かに描かれているのです。きょうのテキストは、ヨセフが父親の命令で遠方まで羊を飼いに行っている兄たちを訪ねたという場面です。
18-20節には兄たちの頂点に達した怒りや嫉妬が言葉として出ています。……『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げこもう』。簡単明瞭な一言です。「夢見るお方」というのはヨセフを嘲笑するあだ名です。おまけにヤコブが作ってやった裾の長い晴れ着を着てきたのですから、兄たちの憎しみは爆発してしまいました。誰も見ていないこの場で、ひと思いに殺してしまおう、殺してしまえばあいつの夢なんか消えてなくなる、野獣にやられたことにしておけば何もばれない、と考えたのです。ところが、ここで長兄のルベンがヨセフの命を助けようとします。21節、『命まで取るのはよそう……血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない』。22節には、『ルベンはヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである』とあります。ルベンの気弱さが伝わってきます。
それでも長兄の言葉ですから、弟たちも一応従って、ヨセフは結局穴に投げ込まれます。穴というのは枯れ井戸でしょう。もしこの場面で兄たちがヨセフを殺してしまっていたら、カインとアベルのようにまた兄弟殺しが起こるところでした。兄たちはそれから食事を始めるのですが、ふと目を上げるとイシュマエル人の隊商がやって来るのが見えた、とあります。そこで今度はユダがこう言います。26節、『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』。殺された者の血が叫び出す、というアベルの地の中からの声を思わせます。二人の兄の助け方が違っているのは、資料の違いかもしれません。結論はミディアン人商人が通りかかってヨセフを穴から引き上げ、イシュマエル人に売ってしまうということなのですが、その後の顛末を見ると、ルベンはあとで自分が引き上げて助けてやろうと思っていたようです。しかし既にヨセフは売られた後でした。
とにかくここに描かれているのは、ルベンあるいはユダの心に神さまが働きかけて、危ういところでヨセフの命を助けたということです。その意味は、おそらくあくまでもイスラエル人に約束の地を与えるというアブラハム以来の神さまの約束が、こういう形で成就しているということなのでしょう。人間のどんな企てがあろうと、神の力の前には無力であることを聖書はいろいろな記事で記していますが、ここでも思いがけない経緯で、危うくヨセフの命は助かります。やがて自分を殺そうとした兄弟たちをエジプトの宰相となったヨセフが助けることになるのは後の話です。さて、この物語には人間のとても醜いエゴとエゴの相克が描かれていると思います。父のヤコブはかつて兄をだまして長子権を手に入れた人物ですし、兄たちも弟が野獣に殺されたと父親をだまします。けれども兄たちはやがて飢饉でエジプトへ行った後、父に対して実はヨセフは生きていると言わざるを得ない時を迎えるのです。
世の中には良いこと悪いこと、いろんなことがありますが、その良いこと悪いことの結末が、この地上では片付かないことがしばしばです。たとえば、私たちが罰せられるような悪いことを人に対してしたのに、罰せられずにこの世を終わることもありますし、その逆の場合もあります。世間の人はそういう時、神も仏もあるものか、などと言います。でも私たちキリスト者はそう言ってはならないでしょう。やがて必ず終末が来て、それがはっきりされる時が来ると信じるのが、キリスト者の考え方だからです。ヨーロッパの悲惨な出来事を聞いたり、日本の悲しむべき現実を見ると、どこにも希望がないように思えてしまうのですが、そうではないということをこの古い兄弟間に起こった物語は教えてくれているような気がします。新しい年に血が流される出来事が少しでも減るように、私たちキリスト者には祈り行動することが求められているように思います。祈りましょう。