I
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
クリスマスはキリスト教徒にとっても、キリスト教徒でない人々にとっても、愛と平和の祭です。私たちは子どもたちが守られ、病気の人たちが慰められ、恵まれない人々に暖かい支援が差しのべられるよう願い、知恵を合わせて行動します。今日の聖書箇所の冒頭に、「愛する者たちよ、私たちは互いに愛し合おう」とある通りです。
II
しかし私たちの世界には愛と平和だけでなく、はっきりとした憎悪と破壊もあります。まるで二つの現実があるかのようです。それだけではありません。私の属する人々に対する愛情が、そうでない人々に対する憎しみに直結していること、私たちの平和を守ろうとして外側の人々の暮らしを壊すという場合もあります。
法律を重んじる社会にあっても、自分に都合のよいようにルールを決めて、他人より有利な立場に立とうとする人たちがいます。あるいは自分の主張の正しさを確信するあまり、考え方の違う人々を攻撃して、排除することもあります。国の違い、民族の違い、宗教の違い、貧富の違い、政治信条の違い、男女の違いなどによって社会の中でいろんなグループが分かれて争い、互いを思いやることはすっかり忘れて、悪口を言い合います。
近年、ヨーロッパの大都市では残虐なテロ事件が続いています。人権の尊重と多文化の共生を目指してきたヨーロッパ社会の理想をあざ笑い、人々が互いに信頼しないよう仕向けるのがその狙いです。社会の中で不満をもつ人々を犯罪者に仕立て上げ、単なる犯罪行為をあたかも聖なる行動であるかのごとく宣伝したり、小さな国々の火種を放置してきたため混乱に陥った地域から逃げてきた人々を、大きな国の人たちがゴミのように邪魔者扱いしたり、あるいは痛ましい暴力の犠牲者の死を嘆くことに代えて、自分の発言力を高めるためにそうした事件を利用する政治家もいます。
まったくもう、クリスマスなのに……。とくにシリヤを中心とした中東のイスラム諸国、政治状況が不安定なアフリカの国々では、平和ではなく攻撃と破壊が大手を振っています。大量の難民が流れ込む国々では、愛情ではなく無関心と憎しみが拡がっています。
私たちの愛する力、平和を生み出す力には大きな限界が突きつけられているのです。
III
「愛は神から来る」と聖書は言います。「愛する者は神を知っている」が、「愛さない者は神を知らない」と。もしそれが本当なら私たちが人を愛するとき、その力は私たち自身でなく、神から来ていることになります。
普通、私たちは愛すると同時に憎み、尊敬すると同時に軽蔑します。つまり二つの別々のことができるのです。しかし聖書は私たちが愛するとき、その愛は神に由来すると教えます。反対に私たちが憎むときは、その憎しみは神以外のどこかから来るのです。「人の愛」は憎しみと並んで存在できる一方で、「神の愛」はただ愛とだけ共存できるのでしょう。
どうしてそう言えるのでしょうか? この世における神の代弁者であるイエス・キリストを見れば、そのことが分かります。「神の愛は、次のことのうちに私たちの間で表わされた。すなわち神がその独り子なる息子を世に遣わしたことのうちに」。
キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えました(マタイ5,44-45)。そして、この教えを自ら実践しました。神の意思に「十字架の死に至るまで」従順であったキリストを、神もまた「この上なく高く引き上げ、あらゆる名に優る名を恵み与えた」と聖書に歌われています(フィリピ2,8-9)。
そのように生き、天に挙げられたキリストとの出会いが、無関心や憎しみや破壊から自由な愛を経験すること、また「愛する者は皆、神から生まれた」という驚くべき洞察を生み出しました。そのようなキリストとの出会いが、「神は愛だ」という真理の発見につながりました。従来は神は信じる者に愛を、しかし信じない者には憎しみと裁きを与えると考えられてきたにもかかわらず。キリストのできごとを通して、神がどのような意味で真に神であり、人間とは違うことが明らかになったのです。
IV
最後に、キリストのできごとは「私たちの罪についてのあがないとして」生じたとあります。「彼を通して、私たちが生きるようにと」。――「私たちが生きる」とは、無限なる神の愛の助けにより赦されてもう一度生きなおす、つまり有限な人間の愛をそのままに超越するということではないでしょうか。 マイケル・ラプスレーさんという、1949年生まれのオーストラリア聖公会の司祭がおられます。1973年、当時の南アフリカ共和国に派遣され、大学のチャプレンとして黒人と白人の学生たちのために働きました。そして、反アパルトヘイト闘争に参加したのです。そのため南アを追われ、ソエトやジンバブエに移住します。1990年にネルソン・マンデラ氏が獄中から解放された数か月後、南ア政府組織からジンバブエに郵送された手紙爆弾で、ラプスレーさんは両手と片目を失います。それでも1992年に南アに戻ることができ、それ以降は「記憶の癒しredeeming the past」研究所を立ち上げて、世界中でワークショップを現在に至るまで展開しておられます。
彼は言います。
暴力、貧困、抑圧が未だ存在するすべての地域において、身体的、心的、また霊的な傷を負った人々にとって、南アフリカの経験が示唆するところは大きい。……私のたどった物語から勇気を得る人々が存在する。……私の外面的な傷は、目には見えなくとも同じように傷を負った人々との絆を生み出す。……痛みは人と人を繋ぐのだ。……私が痛みを知る人物であるからこそ信頼できると告げられることはしばしばである。しかしながら、最後の一番大切な事柄は、私たちが自分の痛みを、命を生み出す力へと変容させられるかどうかにかかっている。……私たち〈記憶の癒し〉が行うワークは、その出発点を提供する。(M. ラプスレー『記憶の癒し――アパルトヘイトとの戦いから世界へ』、西原廉太[監修]、聖公会出版、2014年、xii-xiii頁)
「私たちが生きるように」と聖書が言うのは、こうした惨い過去を乗り越え、和解を通してもう一度愛し合えるようになること、痛みの経験を「命を生み出す力へと変容させる」ことを含みます。小さな子どもたちも、そのための力と務めを神から授かっていると私は信じています。ちょうど今夜、キリストが小さな赤ん坊の姿で、私たちのもとに到来されるのと同じように。
皆さま、お一人おひとりにメリークリスマス!