使徒パウロの仕事は福音の伝道者です。 その行動力は驚くべきもので、単独で、時には仲間と多くの都市を巡り歩きました。 聖書の巻末に「パウロの宣教旅行1,2,3」と「ローマへの旅」と題して数枚の地図が載っています。 地中海圏は当時の世界ですから、文字通り世界を股にかけて伝道旅行をしたのだなと、今更ながら尊敬の念を込めて感心せざるを得ません。 しかもただ巡り歩くのではなく、手紙を書くために執筆し、労働者として仕事にも励むといった面も備えています。
きょうのテキストでは1節で自分を 『キリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです』 と書いています。 管理者という言葉にちょっと違和感を覚えました。 「神さまの秘められた計画の管理者」とは一体何を言っているのでしょうか。 管理者オイコノモスがエコノミーの語源であることはご存知だと思います。 ギリシャ語では家政・家令を意味する言葉です。 これを管理者と訳しているわけです。 家政・家令ですから、要するに財産など家の中にあるものをどう割り振るのか、という配分・案配をするのがその仕事の内容です。 文語訳は忠実に家司(イエツカサ)と訳しました。 英訳は多くがスチュワードです。 スチュワードといえば、給仕さんとかボーイさんをイメージします。 パウロは、神さまの秘められた計画が自分に委ねられている、という自覚があるのです。
ところで、同じ1節の中には「仕える者」という言葉もありました。 こちらは当時地中海を航海したローマ軍のガレー船の漕ぎ手を意味する言葉です。 ガレー船は多数の櫂によって推進しますが、漕ぎ手を三段に配した三段式ガレーの最下段の漕ぎ手を意味する言葉が「仕える者」の原語だそうです。 映画「ベンハー」で主人公が奴隷として鞭打たれながらガレー船を漕いでいた様子を思い出してください。
こうした言葉を用いたということは、当時すでに船頭がイエスさまで、使徒はその漕ぎ手という教会の指導者構想があったということでしょう。 パウロは管理者オイコノモスという表現で、神さまから委ねられている計画に対して、自分の全行動における身体や感情の動きをどう配分していったら最も有効に用いられるのか、ということを考えていたのだと思うのです。 なぜこうした配分を考えなければならなかったかと言うと、1章や3章に出てきていますが、パウロ派であるとかアポロ派、ケファ派というように分派が生まれていて、このまま行けば自分がセクトの長に祭り上げられる可能性があったからでした。
使徒には厳しい自己抑制が求められていたのです。 だからこそ彼は3節以下で「裁き」について触れています。 2節で、管理者に要求されるのはイエスさまに忠実であることだと述べた上で、イエスさまから命じられているのだからコリント教会から裁かれたり、人間の法廷で裁かれることは気にしない、と3節で言い切りました。 自分で自分を裁くことをしないのは、裁き主がイエスさまだからと承知しているからです。 『人間の法廷で』 と訳されている部分は、原文では「人間の裁きの日に」と表現されていますから、これはすぐ前の3章13節に 『おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです』 とある「かの日」、すなわち主の裁きの日に比較対照されていると思われます。
パウロの意識には、信仰者はこの世の裁きの他に自らの信仰による裁きを持っているので、生き方は一層厳しいものになるのだ、という自覚があるのです。 けれども裁く側の問題があります。 もし神さまを排除して、それこそ「人間の裁きの日」に裁いてしまえば、将来に禍根を残すことにもなりかねません。 パウロが指摘するような意味で自己抑制をしなければ、宗教の名によって勝手な裁きをしかねません。 そうだからこそ、信仰の指導者には「仕える者」あるいは「管理者」としてしっかり自覚を持って、早まって独りよがりの判断や言動をして失敗することのないようにしなければならないわけです。
パウロは管理者として、コリント教会から、あるいは人間の法廷から裁かれることを拒否し、さらには自分で自分を裁くこともしない、と自由な立場にいることを宣言しています。 これは使徒として立てられている自覚であり、自信でもあるのでしょう。 もちろんこの自由の根底にあるのは、4節にある 『わたしを裁くのは主なのです』 という自分の仕事に対して持っているある種の誇りであることは言うまでもありません。
それにしても、コリント人は裁きがよほど好きだったのでしょう。 というのも私たち日本人は、どちらかと言えば裁くことはあまり好まないような気がするのです。 裁くことの結末は白黒をはっきりさせることですが、どうも裁くにしても白黒はどこかぼかしたまま決着させるという傾向がないでしょうか。 講談に「大岡政談」という名判官大岡忠相の裁判に仮託した物語がありますが、あの話の決着の仕方などは、裁判官個人の機知に富んだ知恵話で、白黒の決着という論理ではないような気がします。
明治に西欧の裁判制度が入ってきて、今では私たちの生活もその仕組みの上に乗っているわけですが、何か問題が起こっても、どちらかと言えば公に訴訟事件としては取り扱いたくないといった空気が一般の人たちの間にはあるように思えてなりません。 ですから弁護士さんなどもまだまだ多くの人にとっては身近な存在ではないと思います。 こうした状況と比較すれば、明らかにコリント人は裁判好きと言ってよいでしょう。
アメリカと日本を比べてみても、あちらはすぐ訴訟手続きを始めます。 日本ではすぐ弁護士に駆けつけるという人は多数派ではありません。 パウロはユダヤ人なのです。 当時でも人口60万人以上の大商業都市コリントで長く生活してきた人ではありません。 ローマの支配圏という広さで見れば、ユダヤの田舎から出てきた人物と言えます。 パウロは、裁きを好むコリント人の傾向を逆手に取ったのではないかな、と思いました。 相手の言い分を逆手に取るといった対応がここにはあるのではないでしょうか。 まあ、これは私の感想ですが。
きょうのテキストでは、5節でパウロは裁きについて強い注意を促しています。 それが 『主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません』 という言葉です。 この部分にきて初めて、「イエスさまが来られるまで」と再臨について触れています。 人間が裁くのは目に見えることだけが対象ですが、イエスさまはそうではありません。 パウロは、『主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます』 と言っています。 だからこれは、先走ってイエスさまの裁きを無視してはならない、という強い戒めの言葉です。
ところで、私たち人間同士が裁き合うことの愚かさをイエスさまは譬えで語られています。 マタイ福音書の7章1-6節にそれがあります。 ルカの6章にも並行記事があります。 マタイの方をちょっと読んでみましょう。 3節にこうあります。 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか……』。 有名なイエスさまの一言です。 人間というものは自分の目の中の丸太には気づかないまま、他人の目の中のおが屑のような小さなものは取り除こうとする傾向があるよ、というイエスさまの指摘です。 まず自分の目の中の丸太を取り除かないと、他人を裁くことによって自分が裁かれることになるよ、という忠告です。 イエスさまがそう言われた背景には、当然律法が意識されていたはずです。
イエスさまは言うなれば裁くことを禁じられたわけですが、そこには律法の根源を打つという意図があったように思います。 律法の働きというのは、文字通り正しく裁くことにあったからです。 人が裁きをしないということは、裁きが神さまの権限に属しているということと、裁きが持ち込まれること自体に既に人間関係の破綻が現れているということに関連しているのです。 パウロは終末における神さまの裁きをも念頭に置いていたのではないでしょうか。 神さまのそうした裁きをも視野に入れて、初めて正常な人間関係が神さまの守りの中に置かれる、という彼の確信です。 ですから、パウロは、ここでも「主に任せなさい」と言うのです。
彼がこうしたことを述べたのは、おそらくイエスさま再臨についての切迫感をもっていたからでしょう。 人間は裁く際に行為だけに目を奪われがちですが、神さまはその人間の中身、意図をご覧になります。 裁く際の視点がまったく異なると言わなければなりません。 ですからパウロがこのテキストで言及している宗教的な裁きは、自ずからこの世の裁きとは異なります。 私たちも自分の身に照らして、それこそ終末の裁きを時には意識してみることが必要でしょう。 多くのキリスト者は、イエスさまの時代から二千年も経過してしまったことを受けて、切迫した裁きなどというのは発想さえしていないと思いますが、せっかく使徒の言っていることに触れているのですから、私たちも切迫した終末を意識する意味は十分にあると思います。 きょうは第3アドヴェントですが、二千年間イエスさまの誕生を意識し、記念し続けているのですから、終末も少し意識してみましょう。 祈ります。