2016.11.06

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「神を待ち望む姿勢」

秋葉正二

詩編130,5-8ペトロの手紙一4,7-11

 「ペトロの手紙」は紀元90年代、ドミティアヌス帝の時代に入ってから、使徒ペトロの名前を使って書かれた書物と見なされています。きょうのテキストの冒頭には、この手紙の結びに向けて、万物の終わりが近いことが述べられています。万物の終わりというのは、もちろん終末論ですが、当時の教会にとってそれは観念論ではなく、迫りつつあると自覚していた現実でした。実際に体験しつつある試練でした。教会に属する人々が次々に殺されていくという切迫した事態の中で書かれた書簡であることを、私たちは最初によく理解した上で読む必要があります。

 現代の日本のように戦後70年も平和が続いていると、そこに生きている私たちが苦難とか迫害とかを緊張した状況として受けとめるのはなかなか難しいでしょう。ですから私たちは私たちなりに、現代的な万物の終わりをイメージすればよいのではないかと思います。たとえば、地球温暖化のような世界規模の環境破壊とか、第三次世界大戦の核戦争による人類の絶滅とか……そのようなことです。そうすれば少しは、紀元90年代の教会がローマ帝国の圧政によって苦難や迫害が相次いだ緊張下に置かれた状態に近づくことができるかもしれません。

 危機的な状況が切迫してくると、人間は不安に陥り、錯乱したりして熱狂的・狂信的言動に駆られることは、しばしば歴史が示してきたことです。そこでこの書簡の著者はまず『思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい』とアドバイスしています。「思慮深くふるまい」と訳されている言葉を調べますと、「理性的である・しらふである・分別がある・心を確かに持つ」などの意味がありました。要するに冷静さを失わないで、傲慢になるなということでしょう。

 マルコ福音書の「ゲラサの悪霊」(マルコ5,1-20)の記事にも同じ言葉が使われています。レギオンと名乗る悪霊が豚の群れに入り込み、雪崩を打って崖を駆け下りて湖の中で次々に溺れ死んだというあの記事です。あの時、悪霊に憑かれた人は、イエスさまがなさったその行動の後、『正気に戻って座っていた』と書かれているのですが、その『正気に戻って』と訳された言葉が同じ言葉です。そして、「身を慎んで」という言葉は文字通り「身を慎んで、節度を保つ」という意味です。希望を知らされている者は、狼狽せず冷静な頭と心を持たなければいけないというわけです。

 こうしたアドバイスが、万物の終わりを信仰的に知らされている教会に寄せられています。また『万物の終わりが迫っています』という言い方には、現在完了という時制から、「もうすでに来ている」という意味が込められています。「万物の終わりの時」は旧約の預言者たちが待ち望んだ「時」ですが、教会の人たちにとっては主イエス・キリストが来てくださったことにより、まさに満ちた時でした。教会の人たちは、あのイエスさまが十字架を担い、復活されて『世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』(マタイ28,20)と約束してくださったことを思い浮かべていたことでしょう。

 ですから、「時の中心」がすでにイエスさまの十字架と復活の出来事にあることは、書簡の著者もそれを受け取った教会の人たちも自覚していたはずです。『よく祈りなさい』は直前の二つの勧めを合わせると「よく祈れるようになる」ということだと思います。先ほども申し上げたように、人間は危機的な状況に追いやられると、ジッとしてはいられなくなり、飛び出して大声で叫ぶというようなことをやらかします。それは神さまに「どうぞ今こそ奇跡を起こして助けてください」と叫んでいる必死の行動なのかもしれませんが、この書簡の著者によれば、そういう時こそ、冷静になるべきだということなのです。

 いろいろ考えてみますと、イエスさまもそのアドバイスにぴったりの振る舞いをされているなと思いました。たとえば、四つの福音書に「五千人に食べ物を与える」記事がありますが、あのシーンでイエスさまは、弟子たちが右往左往する中で、まず「人々を座らせなさい」と命じておられます。きょうのテキストに関連づけた言い方をするならば、「万物の終わりが近づいた。人々を座らせなさい」となるのではないでしょうか。ですから信仰者は危機的状況が近づいていると感じている時こそ、「思慮深く、身を慎んで」というアドバイスに耳を傾けるべきです。そして「よく祈る」のです。祈りへ向けて平静であれ、ということです。

 祈りと平静さは相互に呼応し合う関係でしょう。祈りは確かにキリスト者に平静を与えてくれます。平静というのは何もしないことではありません。集中して、今神さまが何と言われているかよく聞く……その場をそっくり神さまに明け渡して神さまがなされるままに委ねてみる……そういう場の設定でしょう。私たちキリスト者は神さまに導かれて、イエスさまのお言葉を耳にしながら座るのです。そして再び立ち上がるとき、時至ってなすべきことは何でしょうか? それが8節にある『心を込めて愛し合いなさい』ということです。「愛は多くの罪を覆う」とか「不平を言わずにもてなし合え」という表現にも深い意味が込められているように思います。

 信仰者として本当に大切なことについて、この書簡は語っているように思えます。作家の五木寛之さんの講演を以前聴いたことがありますが、彼は大陸からの引揚者です。敗戦時の朝鮮半島で人々は日本へ帰るために困難な状況下、貨物列車を待ったそうです。ところが貨物列車が到着するや否やそれまでの様子が一変し、人々は雪崩を打って列車に乗り込んだそうです。もちろん全員が乗れるわけではないので残される人が出てきてしまうのですが、狂乱した人々は汽車に乗っている老人や病人や子供を引きずり下ろし、蹴り落として乗り込んだのです。またある時は、ソ連軍の検問を通るために女性たちが差し出されたとも語っておられました。その有り様がずっと戦後を生きる中で自分の脳裏から消え去ったことはない、と語られていました。彼が浄土真宗の信仰に引き寄せられていった背景にはそうした事情があったことがよく分かりました。

 不安や争いが支配する修羅場でキリスト者がなすべきことこそ「平静な心で祈り、愛し合うことだ」とこの書簡の著者は言っているように思えます。9節の『不平を言わずにもてなし合いなさい』も心に残る言葉です。「もてなす」という言葉には、「客のもてなしが良い」という意味があります。当時、ローマ帝国内には多くの旅人が存在しました。個人的事情による旅はもちろんのこと、職業上の必要から、またキリスト教の巡回説教者もいたでしょう。しかし当時は悪徳業者も多く、安心できる宿は少なかったようです。そうした環境の中で旅人をもてなすことは美徳だったのです。

 しかしこれは口で言うほど簡単なことではなかったはずです。旅人をもてなすのは大変な奉仕です。この奉仕には単なる善意ではなく、愛が必要でした。キリスト者にとって愛はイエスさまからの命令ですから、キリスト者がイエスさまから慰められ、励まされているゆえに、キリスト者は旅人をもてなすべきなのです。だからパウロもロマ書で『聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい』と書いています(ローマ12,13)。このもてなしの精神がホスピタリティーという言葉を生み出しました。10節では賜物(カリスマ)のことに触れています。『あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから……』。賜物(カリスマ)が私たちキリスト者には誰でも与えられていると著者は言います。

 パウロもこの問題についてコリント前書の12章以下で論じていますが、著者は『神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい』と言います。「善い」というのは「健全な・見事な・立派な」という意味の言葉です。「善い管理者」はすべてのものが自分のものではないことを知っている、と著者は言っています。あくまで神さまから預かったもの、それを神さまのみ心に沿って使うことが自分の責任だとわきまえている人が「善い管理者」だと言うのです。賜物は土の中に隠しておいてはいけません。賜物を私有化してはならないのです。賜物は他者のために使うときに生かされるということでしょう。その賜物を生かして仕え合う、そこに教会という共同体の素敵な関係が生まれます。

 最後の11節を見てみましょう。『語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい』。「語る者」というのは、説教者ということでしょうか。「神の言葉を」とあるように、語る内容は神さまの言葉です。牧師としてはとても重た過ぎて、受けとめられないほどの表現です。しかし神さまに仕えることをおろそかにしなければ、神さまは語る者を用いてくださるという意味でもあると思いました。説教者が語るとき、神さまは力ある業をなしてくださいます。神の言葉とは、具体的に言えば、主イエス・キリストご自身のことです。神さまが人となってその愛を示してくださいました。それゆえに、語る者が聴衆の立場に置かれ、自分を愛し慰めてくれる方のみ言葉を語るということが説教として成立するのでしょう。

 奉仕についても言われています。奉仕は自分の力でするものではありません。一切が神さまから来る力なのだということが語られています。ですから奉仕においても、最終的には奉仕者が褒められるのではなく、神さまが崇められます。そしてまとめの言葉があります。『それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです』。教会という群れに属する者が行うすべてのことは、神が崇められるためです。決して人間の知恵や能力や富や地位が崇められるためではありません。神さまから与えられた賜物は、すべて神さまを崇めるために用いられる、とこの書簡の著者は結論しています。『栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン』。キリスト者のすべての務めは、神さまを讃美することを目指して行われます。

 最初に「万物の終わり」という言い方が出てきました。それは言うなれば、私たちのこの世の命の終わりをも含めた言い方です。平静な心で祈り愛し合う、これしか「終末」に対応する道はありません。私たちは自分が死ぬとき、信仰を通してみるものは愛と赦ししかないということでもあるでしょう。考えてみれば、イエスさまが弟子たちと別れるとき、最後に語られた言葉がやっぱりそうでした。『わたしは新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』。ヨハネ福音書の13章で、イエスさまは弟子たちの足を洗いながらそう言われました。祈ります。


 
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