2016.8.28

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「寄留者と共に喜び祝え」

秋葉正二

申命記26,1-11ルカによる福音書10,25-37

 以前にもちょっと触れたことがあると思いますが、数年前の夏休みにもう故人になられた加藤周一さんの代表的著作の一つである『日本文学史序説』をじっくり読みました。 筑摩文庫版上下巻で、総ページ数は1000頁を超えます。 結構忍耐を要しましたが、宗教に関する著作を論じる部分の興味しろさは抜群で、なぜ日本でキリスト教人口が1パーセントの壁を越えることができないのか、といった問題について一つの解答を示された気がしました。

 その少し前に辻邦生さんの「西行花伝」を読んだところでしたので、平安時代のリーダーである貴族たちが聖徳太子以来の仏教、あるいは空海や最澄のもたらした仏教を信仰という視点で深められなかった理由や、仏教の言わば宗教改革でもある鎌倉時代に起こった日蓮宗や禅宗やそれ浄土宗などが、どうして個人の信仰という面で決定的な役割をそれ以後果たさなかったのか、とりわけ哲学的な思索性を持った道元の教えや阿弥陀信仰を生み出した専修念仏の浄土宗が、人々の個人的な魂に定着して、なぜ社会の在り方を変えたりする方向に向かわなかったのか、といった問題について、加藤さんは驚くべき学識の深さを裏づけにして、分析して見せてくれました。 中でも、近代までの日本の宗教に決定的に欠けているのは、哲学的思索に裏打ちされたという意味での個人の神認識であるという指摘がありました。 この問題は、日本人と絶対者である神との距離の問題です。

 私たちキリスト者にとって神は、イエス・キリストの父なる神として日常生活の身近な存在ですが、本質的に日本の宗教史にそうした神はいないのだ、という分析が出てきます。 私たちにとって、神は主なる神さまとして聖書を読むことや祈ることを通して対話をしてくださる存在ですが、そういう存在の神は本質的に日本には育たなかったのだ、という意味のことが指摘されています。 その意味でキリスト教にとっての神さまは、一方的に語りかけるお方ではないし、いろいろな苦しみを抱える人間にとって話を聞いてくださるお方です。

 きょうのテキスト26章5節以下は、旧約の碩学ゲルハルト・フォン・ラートが「歴史的小クレドー」つまり信仰告白なのだと名付けて以来、旧約理解の中心となってきた箇所です。 内容は土地の収穫物の初物をささげる農民の感謝の言葉ですが、ただ単に人間の主観的信念が述べられているわけではありません。 出エジプトという抑圧からの解放を中心に据えた歴史の出来事を述べているのです。 土地の収穫物をささげるにあたっては先ず、土地の授与という神さまの働きに感謝がささげられています。 加藤周一的言い方をすれば、旧約でも農民の意識は徹底的に此岸的であって、ストレートに天上の神と生きた関係を結んでいるといったものではありません。

 この此岸的という表現を加藤さんは何度も使っています。 彼岸に対する此岸です。 このことに関しては、ヴァルター・ツィンマリという学者が、この小クレドーを取り上げて、旧約聖書は著しく「この世的」であると指摘しています。 「この世的」は「此岸的」と言い換えてもよいと思います。 余りに「この世的」なので、その性格がキリスト教信仰の領域で、いつも信仰に対して疑念を引き起こしてきたのだ、というわけです。 さらに、その信仰的疑念を引き起こす力は、今の時代までずっと続いてきているのだ、とも言っています。 大胆な比較をすれば、パウロの言う律法と福音の関係にも喩えられるかもしれません。 とにかく旧約の持つ此岸的、この世的性格が大いに問題にされています。

 私たちは今日、この旧約の持つ此岸性の問題を、古代イスラエルの出エジプトの出来事のキッカケに照らし合わせて考えてみたいと思います。 6,7節にはこうあります。 『エジプト人はこの私たちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げをご覧になり……』とあります。 旧約の神は、苦しみ叫ぶ民の声を聞かれていて、それに応えるように主エジプトを行われたという信仰上の告白です。 これは出エジプト記に何度も出てきますので、私たちにもよく分かります。

 フォン・ラートは、この「苦悩-叫び-救い」という構成を、個人的な感謝の歌の構造と比較して、旧約においては、神は苦しむ民の叫びに耳を傾けるお方だと信じられているとし、それ故にこそ、そこから信仰告白が生まれる、と指摘しています。 苦しみ叫ぶことなしに出エジプトの解放の働きは起こりませんでした。 民の苦しみに神が答えるという関係は、単なる神からの一方通行ではありません。 しかもその苦しみは、単なる個人的・内面的なものではなく、現実の生活の中で出会う苦しみです。 そしてそうした苦しみはエジプトで奴隷にされた民だけでなく、現代人にもあることに気づきます。 私たちの国でも、人間としての自由や尊厳を奪われて苦しむ人は後を絶ちません。 私は多くの「在日」の友人たちから、「在日」の人たちがこの国でどんな仕打ちを受けて生きてこなければならなかったかを証言として聞いてきました。 それにしても先の都知事選に、事もあろうに、ヘイトスピーチを繰り広げてきた団体の責任者が立候補して、ヘイトスピーチとしか言いようのない選挙演説を繰り返し、11万票も獲得したのには驚きました。 まるで選挙演説なら何を言ってもよいと言わんばかりです。

 右翼政権の台頭だけでなく、この国は本当に崖っぷちに立たされているな、と改めて思わされました。 今日、私たちの国で忘れられていることがあるとすれば、叫ぶ相手の存在です。 加藤流に言えば、それが日本文化、とりわけ日本宗教の特徴ということになるでしょう。 余りに此岸性が強いので、日本という国は外国から哲学的な要素をい充分備えた宗教が入ってきても、それを骨抜きにしてしまう、という分析です。 仏教も儒教もみなそうだったと加藤さんは指摘しています。 日本は仏教国だと言われていますが、実は仏教に帰依したのではなく、仏教を骨抜きにして変えてしまったのが日本の土着の強い伝統だというわけです。 だから神の存在や罪の懺悔を徹底的に追及していくような深い思弁性をもっているキリスト教などは、最も影響を受けにくい宗教だということになります。

 それはそうだと思います。 キリスト教は何でも神学的テーマとして取り上げ、その体系を構築してきた歴史をもっていますから、巡り合った一つ一つの課題を、精神的にも深めてその答えを求めるという作業をします。 ところが日本文化は、彼岸のことはできるだけ考えないようにして、此岸的なことだけを見ながら解決の道を探るのです。 きょうのテキストの凄いところは、神さまが歴史の中で実際に働かれていることを示している点です。 この信仰を与えられると、人は自分のありのままを隠さず、心から嘆いて神に向かって叫ぶことができます。

 聖書の神はその叫びをお聞きになる、というのが小クレドーが明らかにしてくれるポイントです。 表現上の言葉遣いはどうでもいいのです。 一人の信仰を与えられた農民が、徹頭徹尾この世における賜物に関わる祈りをささげながら、つまり、地の産物を前にしながら、もっぱら歴史について考えているのです。 当時のカナン、メソポタミア、エジプトなどの宗教ならば、同じようなシーンを前提にすれば、信心深い人々はおそらく地の産物を前にしたならば、自然の力と結びついた神々の働きを見出しては賛美したでしょうけれども、イスラエルの農夫はもっぱら出エジプトという歴史に目を注いでいます。 此岸から意識的に彼岸の世界を仰ぎ見る、これがイスラエルの信仰の真髄です。

 こういう伝統をキリスト教は継承しているのです。 おそらく死の間際でさえも自分を飾ろうとするのが本来の人間だと思うのですが、イエス・キリストの父なる神さまは、そのような人間を、偽善や不信から解放してくださり、本当の自由を与えてくださいます。 これは時代を超えた私たち人間にとっての最大の慰めです。 私たちは絶対者である神さまによりかかった信仰によってではなく、歴史における神の解放の働きによって生きるのです。 先ほどルカ福音書の「善きサマリア人」の話を新約聖書から読みましたが、あの物語は単に隣人愛の実践が焦点なのではなく、硬直した正統とみなされている信仰が、苦しむ者の声に耳を傾けることを不要としたことへの批判が込められているように思うのです。 イエスさまは十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と、悲痛な叫び声をあげておられますが、もしこれを聞く相手がなかったとしたら、救いようのない暗い虚無の出来事ですが、イエスさまには確実に聞いてくださる存在が見えていたのです。

 私たちは古代イスラエルの一人の農民の信仰にならって、苦しむ者の叫びは聞かれることを信じて、自分のありのままを隠さず、また飾らず、心から嘆き訴えようと思います。 それは不信仰でも虚無でもなく、神さまに対する深い信頼の表明だろうと思います。 自分を寄留者の立場に置いてみると、そのことはよりはっきり見えてくるはずです。 ですから、イスラエルの信仰は寄留者に深い愛情を示しています。 律法は、本体仲間でも何でもない人たちの保護を繰り返し命じています。 このことを私たちはキリスト者として、自分が置かれた時代と場所の中で考える責任があるはずです。 寄留者と共に喜び祝える世界は、神に祝福された世界です。 祈ります。


 
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