I
イエスは、神への愛・人への愛を「最も重要な戒め」として教えました。それはマタイ、マルコ、そしてルカによる福音書に伝えられています(マタ22,34以下、マコ12,28以下、ルカ10,25以下)。本日のテキストであるルカ福音書が伝えるヴァージョンの特徴は、人への愛が「良きサマリア人」の譬え(ルカ10,30以下)と組み合わされている点です。この有名な譬えは、ルカ福音書だけに伝えられています。
今日は、この聖書箇所を手がかりに、神への愛と人への愛の関係について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
II
その前に、新約聖書における「愛」という言葉について、二つほど基本的なことを申し上げます。
第一は新約聖書、とりわけパウロの手紙では、〈神が人を愛し、それを受けた人は隣人を愛する〉という愛の二つの方向づけの組み合わせが通常であることです。ちょうど英語のアルファベットの「L」字のように、神の愛を受けた人間は、神を愛し返すというよりは、他の人間を愛すると言われるのです。
神が信徒たちに向ける愛は、例えば「神の愛が私たちの心に注がれている」(ロマ5,5)。キリストの死を通して「神は私たちに対する愛を示した」(同5,8)。そして「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(同8,39)と言われます。それが信徒相互の愛に展開されるかたちで、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(同12,10)、あるいは隣人愛に代表される「愛は律法を全うする」(同13,10)と言われるのです。
二つ目は、ヨハネによる福音書では、神・キリスト・信仰者・世界の相互関係が「愛」という言葉を用いて表現されることです。世界に対する神の愛は、「神はそのひとり子を与えたほど世を愛した」(ヨハ3,16)と、またイエスに対する神の愛は「父は子を愛して、ご自分のなさることを全て子に示す」(同5,20)と言われます。イエスから弟子たちへの愛については、例えば洗足場面の冒頭で、イエスは「世にいる弟子たちをこの上なく愛した」(同13,1)とあり、それが弟子相互の関係に展開されて、「互いに愛し合いなさい」(同13,34)という有名な教えになります。さらにイエスを愛する弟子たちを神が愛するという関係について、「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛する」(同14,23)と言われています。
つまり、今回の二重の愛の戒めの旧約聖書引用におけるような、「神を愛せよ」という教えは、新約聖書を全体として見れば比較的に珍しいのです。他方で、さまざまな愛の教えに共通しているのは「他者への関心」の強調です。逆に言えば、現在社会でしばしば強調される「自己愛」は、隣人を「自分を愛するように」愛するというかたちで前提されてはいるものの、決して強調されません。むしろはっきり否定されることもあります。例えば「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る」(ヨハ12,25)というふうに。
III
では、本日の聖書箇所である「よきサマリア人」のたとえを含むユニットでは、「神への愛」と「人への愛」はどのような関係にあるでしょうか。
このテキストに基づいて、〈愛は口先だけでなく、行いを伴わなければ無意味だ〉としばしば主張されます。それは間違いではありません。対話に登場する律法家が「イエスを試そう」(25節)、ないし「自分を正当化しよう」(29節)という怪しげな意図で質問したとあることも、そうした理解によく合うように見えます。
それでも、「愛」には思考力や理解力が求められることを、以下の二つの点から言うことができると思います。
第一の点は、「神への愛」に関連して、旧約引用の中に新しい要素が加えられていることです。申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。他方でルカの律法家は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(27節)と引用します。「思いを尽くして」が新しく付加されていますね。「思い」と訳されているのは「思いめぐらし」「思索」を意味するディアノイアという単語です。マルコやマタイの並行箇所でも、同様に思考力を示唆する単語が追加されています。
IV
第二の点は、良きサマリア人の譬えを含むイエスと律法家の対話の全体が、前半(25-28節)と後半(29-37節)に分かれ、それぞれが(1)律法家の問い(永遠の命を得るには?/私の隣人とは誰か?)、(2)イエス問い返し(聖書には何と?/誰が隣人になったか?)、(3)律法家の自答(神への愛と人への愛/「助けた人です」)、そして(4)イエスの命令(行なえ/行なえ)という同一の構造を備えていることです。
その第一対話では、「目的」に導かれた発想から始まり、神の「掟」に従うことに至ります。まず「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という問いは、「どうすれば幸せになれますか」という問いと同様、「目的」に導かれた問いです。私たちは意図や目的をもって行動できます。そして目標に到達するために、必要かつ有益な手段や手順を選ぶ能力をもっているからです。しかし「永遠の命」への問いは人生の根本問題であり、命の創造者である神の意思を問うことなくして答えることができません。律法家が自ら返答する「神を愛せよ」という戒めは、「神に従って生きよ」と言うに等しく、疑問や反論の余地を残さない「掟」です。それは、王になろうとするソロモンが、神に向かって「どうかあなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるよう、この僕に聞き分ける心をお与えください」(王上3,9)と願うのと同様、自らの生を神に方向定位し、神の前に歩む姿勢を示唆します。
続く第二対話では、愛は「規範」から「霊」へと展開されます。すなわちまず律法家は「私の隣人とは誰ですか?」と問います(29節)。これは、どのような条件下で、どのような人が、私にとって「隣人」という愛すべき対象として、私の責任や義務の範囲に入ってくるのか、という意味に理解できます。判断基準や諸条件、釈明責任の大小を考慮する倫理は、一般に「規範」倫理と呼ばれます。ある特定の場合に、それぞれの当事者にどのくらい責任があるのかが問われます。律法家が、自分を「正当化」しようとしたとあるのは、規範という視点からすれば、しごく当然のことです。
しかしこれに続く「良きサマリア人」の譬えは、たんに隣人愛のよい手本となる行いを提示しているというよりも、むしろ異民族から予期せぬかたちで示された愛のストーリーです。そして、ここには責任や義務といった考えを吹き飛ばすほどの溢れ出る精神、スピリットがあります。愛は「規範」によって制御されるというより、自発的なもの、つまり本来的に「霊」的なものであるという理解がここにあります。
V
こうして全体として見るなら、神への愛は「目的」から「掟」へ進み、他方で人への愛は「規範」から「霊」へと進むという方向性を認めることができるでしょう。すると第一対話で「行なえ」と言われているのは「神の要求の前に歩む」ことを、他方、第二対話で「行なえ」とあるのは、人と人の関係にあっては愛という「精神(霊)を活性化する」ことが意味されているのだと思います。
二つの言葉が思い出されます。ひとつはトマス・アキナスの「愛に導かれる理性」という言葉、そしてもうひとつはD・ボンヘッファーの「今日、私たちがクリスチャンであるということは、次の2つのあり方の中にのみ成り立つ。すなわち祈ることと、人々の間で正義を行なうことだ」という有名な言葉です。祈りを通して与えられる愛に導かれた理性こそが、正義を行うことを可能にするだろうと思います。