2016.8.14

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「秘められた計画」

廣石 望

申命記7,6-117ローマの信徒への手紙11,25-36

I

 明日は、71回目の敗戦記念日です。それはかつての戦没者の慰霊と並んで、過去の歴史や未来をどう捉えるかが問われる日でもあります。キリスト教が成立してゆく最初期にも、歴史理解をめぐる大きな問題がありました。とりわけ、出身母体であるユダヤ教との関係をどう理解するかという問題です。今日は、パウロのテキストを手がかりに、そのことをごいっしょに考えてみましょう。

II

 キリスト教がユダヤ教から分離し、独立していった最初の大きなきっかけは、第一ユダヤ戦争におけるユダヤ側の敗北でした(紀元70年)。その後、さまざまな要因が働いて、分離は長い時間をかけて進んで行きました。他方で、パウロがローマ教会宛の書簡を書いたのは紀元1世紀の50年代半ばですので、この時期のキリスト教は「ユダヤ教イエス派」として、まだユダヤ教の内部にいます。パウロの議論も、ユダヤ教内部の議論です。

 そのときのひとつの大きな主題が「異邦人伝道」をめぐる評価でした。簡単に言えば、〈ユダヤ教に改宗することなく、キリストを信じて聖霊を受けた異邦人は「神の民」に属するのか〉という問題です。これには、大まかに言って二つの見解がありました。ひとつめは、〈キリスト教はユダヤ教の一部なので、異邦人がキリストを信じるのであればユダヤ教に「改宗」するのが本筋である〉という理解。そして、もうひとつは〈キリスト教は「霊」の宗教であり、異邦人はそのままで「神の民」にフルメンバーとして参加する〉という理解です。前者の立場がキリスト教を民族宗教としてのユダヤ教の一部と捉えるものである一方で、後者の立場は、異邦人伝道を推進するパウロその他のグループが提唱しました。これら二つの立場の中間に、じっさいにはさまざまなポジションのあったことが知られています。

 これに関連して、もうひとつ問いがあります。〈イエスをメシアと信じないユダヤ教は、総体として神から棄てられたのか〉というものです。これにも二通りの見解があり、ひとつは〈そうだ、棄てられた〉という理解です。この理解は、とりわけ教会からユダヤ人キリスト教が消え去った後代のキリスト教会で強くなり、例えば「真のイスラエルはユダヤ教からキリスト教会に移行した」という理論は、ユダヤ人迫害を正当化する論拠にも利用されました。他方で、もうひとつの立場は〈いや、棄てられていない〉とするもので、これは本日のテキストであるパウロの見解でもあります。ちなみに第一次ユダヤ戦争後、ユダヤ教が再編成されてゆく時期には、イエス派の方が「正統」ユダヤ教から排除されました。つまり〈棄てられたのは異端としてのイエス派だ〉というわけです。

 歴史をどう捉えるかという問題は、現代に負けず劣らず複雑であったことが分かります。

III

 さて、パウロが紀元50年代半ばにローマ教会宛ての書簡を書いたとき、パレスティナ本国のユダヤ人の間で、すでに「反ローマ感情」の高揚が見られました。ユダヤ文化とヘレニズム・ローマ文化は部分的には比較的よく折り合ってきましたが、部分的にはさっぱりそりが合わないことも多かったのです。

 エルサレム原始教会とその周辺では、異邦人伝道を行う集団への圧力が高まっていたのでしょう。ユダヤ人キリスト教の保守派は、パウロが開拓伝道した異邦人教会であるガラテヤ教会やフィリピ教会などに向けて対抗伝道隊を派遣して、異邦人キリスト者に割礼と律法遵守を、つまりユダヤ教への改宗を促しました。こうした緊張状態の中で、パウロは本日のテキストの直前で、有名な「オリーブの接ぎ木」の比喩を語ります(24節)。

もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

 これは、〈君たちは異教徒であるにもかかわらず、イスラエルの神の民に組み入れられた。ならば神は、現在はイエスをメシアと信じないユダヤ教徒をも、じきに自らの民に加えるだろう〉という趣旨です。パウロが何をしようとしているか、お分かりでしょうか? 彼はエルサレム原始教会と異邦人教会の分裂を回避しようとしているのです。

 パウロは自分が開拓伝道を行った異邦人教会から、エルサレム教会に「連帯」のしるしとしての献金を運ぶために、ギリシアのコリントで、諸教会からの代表者がそれぞれの献金を持ち寄るのを待っている、その間にこのローマ教会宛ての書簡を書きました(ロマ15,25-28; 使20,1-6を参照)。つまり、コリントから見て東方にあるエルサレムに旅立つ直前に、西方にあるローマの教会に向かって。そのときパウロは、自分たちが「ユダヤにいる不信の者たち」から守られるよう、神に祈ってほしいとローマ教会に頼んでいます(ロマ15,31)。

 そのパウロの献金運動の結末を、私たちはおよそ知っています。つまり失敗しました。エルサレム教会は、おそらく反ローマ感情が高まるパレスティナの情勢を考慮して、異邦人教会からの献金を受け取りませんでした。パウロの暗い予感は的中したのです。それどころかパウロは官憲に逮捕され、カイサリアで約2年間勾留され――この間、エルサレム教会が獄中のパウロを支援した形跡はありません――、その後、未決囚としてローマに護送されて、当地で斬首されたもようです。

IV

 その意味では失敗に終わるパウロの必死の模索を、本日の箇所は反映しています。現在のイスラエルの一部に「頑迷」が生じたのは、つまりイエス派を認めないユダヤ人がいるのは、「異邦人の充満」が到来するまでの期間限定の状況である、と彼は言います(25節)。そのときには「全イスラエル」が救われるであろうと(26節)。どういうことなのでしょうか?

 彼は旧約聖書を引用して、「シオンから救う者が来て、ヤコブから不敬虔を遠ざけるだろう」と言います。出典であるイザヤ書には「シオンのために」とあり(七十人訳聖書イザ59,20)、おそらく〈エルサレムないし神殿を聖化するため〉神が到来するというニュアンスです。しかし、パウロはこれを「シオンから」に変えます。ある大胆な学説によると、その意味するところは、かつてダマスコ近郊で復活のキリストが天からパウロに顕現し、彼を異邦人の使徒へと変えたのと同様に、キリストが今度はエルサレム神殿から顕現し、ユダヤ民族の「不敬虔」を遠ざけて、神殿を全異邦人に向けて開放するよう促す、とパウロが期待したのであろうとのこと(G. タイセン)。つまり復活のイエスによる神殿開放が、「全イスラエル」救済という希望に属していた可能性です。その場合、「諸国民の祈りの家」というイエスの夢を(マコ11,17参照)、パウロは継承したことになるでしょう。

 いずれにせよ興味ふかいのは、「私が彼らの罪々をとり去る」と神が宣言することです(27節参照)。例えば人が神に「従順」になるのでなく、むしろ神がイニシアティヴを発揮して人々の罪を「とり除く」ことで救済がもたらされます。

 続いてパウロは、ユダヤ人であれ異邦人であれ、彼らの「不従順」を神が利用して「万人を憐れむ」と言います(29-32節)。すなわちイスラエルが「選び」の「恵み」「召命」をもちつつも、今は「福音」の点で「神の敵」「不従順」であるのは、君たち「不従順」な異邦人が(福音を介して)神の「憐れみ」を受けるためであり、それはとりもなおさずイスラエルもまた「憐れみ」を受けるためであると。これが「秘められた計画」の内容です。

 不信のイスラエルの肯定的な未来というパウロの夢は、最後のエルサレム訪問を目前に控えて、「ユダヤにいる不信の者たち」についての恐れの中で紡がれました(ロマ15,30-32参照)。ここにあるのは単なる未来予知というよりも、むしろエルサレム原始教会と異邦人教会の分裂の危機という、目前の困難な状況を打開するために描き出されたヴィジョンです。後のキリスト教には、〈ユダヤ教徒をキリスト教に改宗させなければ神の歴史が完成しないので、キリスト教によるユダヤ人改宗伝道を行いましょう〉とする理解がありますが、パウロ自身はユダヤ人はもちろん、異邦人すらも「改宗」させようとはしません。それをしようとしたのは、むしろ異邦人キリスト者に割礼を要求したグループでした。キリスト教への参入は、パウロにとって「改宗」とは異なるモードによります。

V

 ならば私たちもまた、歴史を捉える上で、「戦勝国vs敗戦国」「自民族vs他民族」「私たちvs彼ら」といった二項対立的な図式を超える視点を探すのがよいと思います。私に有益と思われるのは、ただの人間として弱者の視点に、例えばアウシュヴィッツや南京や広島で殺害された子どもたちの視点に立とうとすることです。そうした弱者に対する暴力の記憶が、私たち自身の「不従順」を悟るための手がかりになり、神はそれを用いて万人に「憐れみ」をもたらすでしょう。

 一般にパウロは、キリストへの信仰が救いをもたらすとする信仰義認論の提唱者であると理解されています。それは間違いではありませんが、この箇所で決定的なのは信仰というより、むしろ「神の選び」です。神を信じる人間の行為でなく、不信と罪をとり除く神の行為が救済をもたらすと期待されています。

 私たちに求められているのは、他者の「神への不従順」を責める前に、神の憐れみの前で自らの不従順を悔いること、そして人の知恵と力の限界に直面しても、私たちの不従順をも用いて人に憐れみをもたらす神に信頼して、決して絶望しないことだと思います。

 


 
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