2016.5.22

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「地上のこと、天上のこと」

秋葉 正二

民数記21,4-9; ヨハネ福音書3,9-15

 ヨハネ福音書3章は、「新しく生まれる」ことについてイエスさまとファリサイ派に属する最高議会の議員ニコデモとの対話から始まっています。 その対話では重要なことが幾つか語られています。 きょうのテキストの前の部分ですが、3節に出てくる「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というイエスさまの言葉はとりわけ有名です。 「新たに」と訳されているギリシャ語(アノーセン)は、「上から」という意味でもあるので、「新たに生まれる」ことこそが神の国を見る前提条件であるとイエスさまは言われているのです。

 ニコデモが口にした「しるし」という言葉は、いわゆる奇跡です。 奇跡を正しく受けとめるためには、「新たに生まれる」ことがどうしても必要だとイエスさまが示されたのです。 6節の「肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である」という言葉も重要です。 肉というのは単なる肉体ではなく、魂をも含む古いこの世的な人間の生き方全体を指します。 ですから「霊」というのは、この世的な世界とは別の、神のものとしての新たな人間の生き方全体ということになります。 絶望や空しさに満ちたこの世に、別の世界から吹き込んでくる風が霊(プニューマ)です。 イエスさまとニコデモの対話にはそのような大切なテーマが問答として交わされたのですが、どうもニコデモはイエスさまの言葉の真意を理解し損ねたようです。 というのは、いつの間にか対話の相手であるニコデモを残してイエスさま独りの語り(モノローグ)となっていくのです。

 さて、そうは言っても二人の会話がどこで終わっているのかを確定することはなかなか困難です。 ギリシャ語本文は21節まで切れ目なく続いていますが、私たちが用いている聖書では15節までで一応対話が打ち切られている形になっています。 ギリシャ語本文では11節から文体が変わって、「わたしたち」と「あなたがた」という複数形になりますので、今ここでは、そこから内容にも変化が生じていると見なすことにします。 「わたしたち」という複数表現にはイエスさまだけでなく、福音書記者ヨハネが属した教会の群の存在が投影されているとも考えられています。

 そのように理解すると、「あなたがた」というのは、ニコデモも属しているユダヤ教のシナゴーグのメンバーでもあるし、さらに広く解釈すれば、イエスさまを信じない人たちの世界を指していることになります。 ですからそこには、ユダヤ教とキリスト教の対話が繰り広げられている、と理解することもできるでしょう。 きょうのテキストはローズンゲンに基づいていますが、ローズンゲンが1-8節までと9-15節までに区切っているのは、おそらく今触れたことなども勘案しながら内容的に分けたということなのでしょう。 とにかく11節から記者ヨハネは、水と霊とによる新生というイエスさまとニコデモの対話場面から離れて、新たに生まれることの根拠について論を進めています。  そこで、まず取り上げられる問題は、神の国の真理の啓示者である人の子イエスとは誰かということです。

 新たに生まれるというのは信仰上の秘儀(ミステリー)ですが、これが人の子イエスの秘儀へと展開されています。 このことはブルトマンも指摘していることですから間違いないでしょう。 とにかくイエスさまは12節から「地上のこと」と「天上のこと」を引き合いに出されています。 水と霊とによる誕生ということも難しい印象ですが、それは「地上のこと」にしか過ぎず、「天上のこと」に至ってはまだ到来していない、と言われているのです。 そしてそこには、地上的であれ天上的であれ、そうしたことについて語る資格を持った唯一の方がイエス・キリストなのだ、という前提があることに気づきます。  さらに13節では「天から降って来る」ことと「天に上る」という言い方が出てきます。 下降と上昇という一見グノーシス風な表現です。 しかしこの表現は、「言が肉体となった」ということと、イエスさまが十字架の上に上り、さらには天に昇られたという歴史的な事件を背景として語られていることに留意すべきです。

 また記者ヨハネは、14節で旧約聖書にある故事にも言及します。 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」という故事は、先ほど読んだ民数記21章4-9節です。 旧約の時代、荒れ野に生きる人たち、特に遊牧民は毒蛇に悩まされたことでしょう。 そこから魔除けの意味で干した蛇を棒の先に刺して掲げるという行事があったようです。 青銅の蛇も実際に何箇所かから発掘されています。 まあ、元々蛇が永遠の命を持つという考えがオリエント世界にはあったのです。 ギルガメシュ叙事詩にも出てきますし、私たちならば、創世記3章の命の木と蛇の関係を思い浮かべることができます。 大体「民数記」のヘブライ語のタイトルは「荒れ野にて」ですから、その内容はエジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野で40年を過ごした後、ヨルダン川東岸に至るまでの歴史を述べているのです。

 「民数記」というタイトルはギリシャ語訳のタイトル「アリスモイ」(数という意味)から名付けられたもので、ここからは本来の「荒れ野」を連想できません。 この書物の内容はイスラエルの民の人口調査など、数字と関わりがあると考えられたので「数」即ち「民数」となってしまいました。 話が少し横道に逸れましたが、福音書記者ヨハネはともかく民数記の故事を連想したのです。 出エジプトを果たして、荒れ野を放浪していたイスラエルの先祖たちが、神さまの恩寵を忘れてつぶやき、神さまの怒りが蛇となって人々を死に至らしめ、反省した彼らはリーダーのモーセに許しを乞うて、旗竿の先に掲げた蛇を仰ぐことによって死を免れました。 この物語がイエスさまの十字架を仰ぐこと、つまり罪の贖いによって人々の罪が贖われることにつながります。 ですから「上げられる」というのは、「十字架に上げられる」ことと、「天に上げられる」ことの二重の意味があるように思います。 こうした故事を記者ヨハネが取り上げた理由は15節にある通りです。 即ち、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」です。 13節には「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない」とあるのですが、こういう言い方をすることによって、記者ヨハネは古代において広く信じられていた天へ旅することができるといったような可能性を、イエスさまの口を通して拒絶した、と考えることもできましょう。

 私はこのテキストを読んでいて、パウロが天へ上ることについて云々していたことを思い出しました。 調べてみましたら、それはコリント後書の12章1-5節にありました。 なんとも変な感じのする箇所です。 一言で言えば、パウロは三人称で霊的な「幻」を見た経験について語っているのです。 その上で今度は一人称で「肉体の刺」の経験を語ります。 経験談ですからパウロがそうした体験をしたことは確かなのでしょうが、「キリストに結ばれた一人の人」が、「第三の天にまで引き上げられた」と言っています。 それが「体のままか、体を離れてかは知りません」とも付け加えています。 そもそも旧約聖書には、モーセとかエリヤなど、いわゆる「神の人」が体のまま昇天した記事がありますので、そうした記事もパウロの経験した「幻」に影響したかも知れません。

 いずれにせよ、なんとも分りにくい信仰体験だと思います。 別に私たちはそんな体験をしなくてもいいのです。 私たちが確認することは、天から降って来た人の子だけが確かに存在すること、そしてそこに帰られる際、「上げられる」であろうことです。 イエス・キリストが最初に上げられたのは十字架の上でした。 しかしそれが天へ帰られる道であったことを私たちは知っています。 イエスさまの下降と上昇の目的は、永遠の命がイエスさまを信じる者に得られるようにすることでした。 この問題はきょうのテキストのすぐ後16節からさらに拡大されて展開されてゆきます。 時間があればぜひ読んでみてください。 記者ヨハネはこのテキストでおそらく強烈に自らが属する教会の群が主張するケリュグマ(福音の内容) を意識しています。 そしてそれは、ちゃんとその後の歴史の中で教会に伝えられて行きました。

 私たちはイエスさまから永遠の命を頂いているのです。 それゆえ、私たちの人生はこの世でどんなに苦難に満ちていようが、イエス・キリストの平安の中に置かれています。 この例えようもない大きな恵みに感謝して、これからも一人ひとりに与えられた生涯を生き抜いてまいりましょう。 祈ります。


 
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