2016.4.17

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「小鳥の生命を思う心」

秋葉 正二

申命記22,6-7; マタイによる福音書6,25-26

 我が家には猫の額ほどの狭い庭がありますが、その庭の小さな木に、季節に応じて小鳥たちが訪れます。今年はお隣りの家が新築工事中なので、目下物音や人の出入りに警戒して来てくれません。でもまた工事が終わり落ち着けば、きっとやって来るはずです。八百屋さんで少し腐りかけたようなミカンなどが安く売っていると、それを買ってきて半分にカットし、枝に刺しておくと毎日のようにメジロなどが来てくれます。小鳥どうしにも身体の大小によって強者弱者があるようで、メジロがついばんでいると、ヒヨドリやモズが来て、メジロを追い払って自分たちが食べたりしています。柿の実などはどうもカラスが一番強いような気がします。

 小鳥の存在を意識するようになったのは、思い返すと新潟の高等学校教師時代に遡るようです。敬和学園という学校は新潟砂丘の上に建っている学校で、グラウンドの向こうには海岸線まで100メートルほどの防砂林が続いていました。松やメタセコイアやアカシアなどの樹々が茂っていましたが、いつもカッコーの声が響いていました。鹿児島時代は、教会そばの公園の中央にある古い大木にフクロウが住み着いていまして、毎日ホーッホーッっと鳴くのですが、これがまた実によい声なのです。ウグイスもよく鳴いていました。鳥の音には不思議な力があって、耳にしていると落ち着いたゆったりとした気分にしてくれます。私は特段鳥に興味を持っていたわけでもないのですが、その鳴き声を耳にするうちに、鳥が身近な存在になりました。

 鹿児島と宮崎にまたがる霧島山系は長大な山脈ですが、鳥の種類が多いことでも有名です。霧島には年に何回も出かけておりましたが、山中で口笛を吹いたり鳥笛をキュッキュと擦り合わせて鳴らしますと、小鳥たちは応えてくれることも体験しました。コンクリートジャングルの東京でも小鳥たちの声に出会うととりわけ嬉しくなります。実は、今日の申命記のテキストにはちょっと珍しい情景描写が見られます。もうだいぶ前に申命記を読んでいてこの箇所に出会い、何とも言えない平和な気持ちを味わいました。 以来、たびたびこの箇所を開くようになりました。この描写は、一つには申命記が書かれた時代の生活環境の一シーンを伝えてくれていると思います。当時のイスラエルの人たちは、日常生活の只中、道端などでこうした情景に出くわしていたのでしょう。

 それは現代の東京から見ると、随分自然が豊かだと言えます。当時のイスラエルの人たちは、日常生活の中で、小鳥の鳴き声に耳を傾けられる心のゆとりを保っていることが可能でした。母鳥が卵を抱いて雛にかえして育てる様子を、特別の意識なしに見ることができたのです。これは物質的には貧しくても、心豊かな生活状況と言えるでしょう。私たちが生きる現代が、そうした日常生活を失ってしまっているとしたら、その損失は大きいと思います。少なくとも東京には小鳥の生命に配慮できるゆとりは既に無いようです。

 6節の後半には、母鳥をその生んだ雛と一緒に取ってはならないとあります。小鳥の生命に配慮する心が当たり前なのです。昔も今も鳥は人間の食用でもあるために、私たちは鳥を捕獲したり飼育したりして食べています。阿蘇のある旅館では雀の焼き鳥が名物になっていました。肉も少ないだろうにと思うのですが、大きなケージに雀がたくさん飼育されていました。この聖書の記述の背後には、少なくともその捕獲に際して、母鳥と雛を一網打尽に取りつくすといった乱暴な心はありません。私は、小さな存在である小鳥の命のことに思いを至らすことのできる心からは、決して高慢や貪欲は生まれないと思うのです。7節の「必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」という表現は、小鳥の命を根こそぎ奪ってはいけないという考えに基づいているのでしょう。

 どうしても人間が鳥を食べなくてはならないのなら、鳥と共存共栄していくために取るのは卵や雛だけにしておく……そうすれば、追い払われた母鳥はまだどこかで卵を産み、雛を育ててくれるだろうというような、先の先まで考えた一種の余裕がこの表現にはあると思います。私が子供の頃、日本は戦後の貧しさの中にありました。祖父母が新丸子に住んでおりまして、当時は多摩川の近くには多くの池や沼があって、ザリガニやドジョウがよく採れました。ザリガニなどはご馳走で、尾の部分の肉は上手に味付けするととても美味しかったことを覚えています。雀などは当時鳥もちという細い竹の先に塗った接着剤みたいなものがありまして、それで捕まえたりしました。きょうの聖書の箇所を読み、それを思い出す度に、私の心は痛みます。

 イエスさまは弟子たちに、「二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。父のお許しがなければ、その一羽さえ地に落ちることはない」と語っておられますが、あの場合の雀は食用です。さて、テキストの最後の部分には、「そうすれば、あなたは幸いを得、長く生きることができる」とあります。小鳥の命を配慮することのできる心の有り様は、人間をも幸せにするんだよ、というイエスさまの声が聞こえてくるような気がします。私は鳥についての記述が出てくると、もう一つ思い出すことがあります。アッシジのフランシスのことです。伝説によれば、彼が野外で説教を始めると小鳥たちが集まってきて、彼の肩や手にとまり、動物たちも集まってきたというのです。そこにはその逸話を単なる伝説で済ましてしまってはならないという、大切な何かが伝えられているのではないでしょうか。復活節は命をいとおしみ、ほめ讃えるシーズンですが、鳥に限らず、いろいろな動物を失っていく環境は病める世界だと思うのです。

 農業では農薬や化学肥料を使うようになってから汚染という問題が出てきました。それは一言で表現すれば、死の文明です。何か黙示録的な世界を感じさせます。そこから脱出しなければ、人間はこれから豊かな世界を生きることはできないのです。キリスト教は、イエス・キリストの復活の命をはっきり示されているはずなのに、中世以来自然神学の中で、創世記から自然への支配権を与えられたかのごとく錯覚して、人間中心世界を構築してきました。

 これはもしかすると違うのではないか、とだいぶ前から考えています。被造物の平等性ということをもう一度、鳥や動物を身近から失いつつあるこの時代に、考える必要があると思うのです。現代は、平和と言われるこの日本でも、頻繁とは言わないまでも、なんとも凄惨な殺人事件がかなりの頻度で起こっています。人を殺したい、誰でもよかった……という動機がはっきりしない殺人事件です。モチベーションが明確にならないので、評論家の意見も力がありません。何かこう人間が壊れてしまった、というような犯人像が浮かんできます。こうした傾向は、おそらく犯人たちには、生命に対する畏敬や感嘆を育む経験が少なかったのだろう、と思わざるを得ません。きょうのテキストに現れている小鳥の世界を垣間見ることのできる環境や心の在り方は、そうした事件とも無関係ではないような気がします。アッシジのフランシスは世界最大の修道会を生み出したというだけではなく、小鳥の姿を通して、神さまの恵みを感じ取ることのできる心を教えてくれたということが何よりの大きな働きだったのではないでしょうか。「御許しなくば、……一羽の雀も地に落ちず」と言われたイエスさまのお言葉を、きっとフランシスは実践したのでしょう。

 野鳥が作物を食い荒らしたり、野生動物が里に下りて来て悪さをするのも、現代の紛れもない姿ですが、それとても本来悪いのは鳥や動物たちではないでしょう。小鳥の命と共存してゆける心のゆとりがなぜ無いのか……これは現代人が抱えている闇であり、大きな課題です。私たちは聖書を通して、イエスさまのお言葉や生き様の中に、その答えを見出せると思います。神さまの導きを信じて、聖書を読み続けてまいりましょう。お祈りします。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる