2016.4.10

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「〈この世〉のために」

秋葉 正二

詩編103,17-22; ヨハネ福音書17,20-26

 キリスト教会はたいていどこでも「主の祈り」を毎週ささげます。 私たちの教会もそうです。 「主の祈り」はイエスさまが弟子たちに祈りの範例として教えられたものですから、イエスさまご自身の祈りとは少し意味が違います。 このことを念頭に置きますと、ヨハネ福音書17章というのは、イエスさまご自身の祈りが全体にわたって記されていて、福音書でも他に類を見ない箇所だと言えます。 福音書記者ヨハネが編集上の筆を加えていたとしても、イエスさまご自身の祈りが中心にあることは間違いないでしょう。 教会の伝承では古来「大祭司の祈り」と呼ばれてきた部分で、イエスさまが神と人との間に立つ大祭司として、残される弟子たちのために、また世界全体のために捧げられた「執り成しの祈り」と言えます。 きょうのテキストはその最後の部分で、11節に記されている弟子たちが一つになるためにという祈りを、さらに大きく展開して、言わば、十字架と復活以後に成立していくこの世のすべての教会を視野に入れて捧げられた「みんなの者が一つになるため」の祈りと言えましょう。 

 これは、ヨハネ福音書の精髄を示す代表的な箇所の一つだと思います。 私は牧会に出て34年になるのですが、この間求道者の方たちから何度か頂いた質問の一つは、「なぜキリスト教はたくさんの教派に別れているのですか?」というものでした。  一言では説明できない難しい質問ですが、私なりにいろいろな事柄を補足しながら答えてきました。 教会に初めていらした方からそういう質問をされたら、皆さんだったらどうお答えになるでしょうか。 キリスト教を外側から見ている人にとってはかなり気になることなのでしょう。 たくさんの教派に別れていると言えば聞こえはいいのですが、その中身は教派の数だけ分裂が繰り返されてきた、ということに他なりません。

 歴史的な事件を引っ張り出してきて、ある程度の説明はできます。 11世紀に東西教会の分裂がこうした事情で起こったとか、16世紀にカトリック教会のこうした点を批判して宗教改革が起こりプロテスタント教会が誕生したとか、一応大雑把な説明は可能です。 もっと丁寧に見ていくと、近代以降のプロテスタント教会内部でも教派分裂はずっと続いているのです。 そうした現実を教会の外から眺めれば、当然「教会って仲が悪いなあ」ということになります。 ですから、数多くの教派の分立は、教会が抱えるスキャンダルであることは間違いありません。 どんな言い訳をしてみても、分裂や対立の事実は、外側から見ればケンカ以外の何物でもありません。 けれども、教会を外側から眺めている人たちの世界もまた分裂の世界なのです。

 キリスト者であるなしに拘らず、人間の歴史は分裂の歴史でもあります。 誰にでも主義主張があるわけで、それぞれが自分の主張に沿って特色を発揮しようとすれば、必ず異なる主義主張にぶつかり、お互いに譲り合うことが出来なければ分裂ということになります。 しかし私たちは、「人間の世界はどうせそんなものだから、分裂は当たり前だ」 と開き直ってしまってよいのでしょうか。 イエスさまのお言葉を真剣に受けとめようとすれば、それでは済まされないような気がします。 分裂している教会の状態をそのまま放っておくのは許されない、と思うのです。 少なくともイエスさまはそれをお許しにはならないと思います。 きょうのテキストはそうしたことに関わっています。 20世紀に世界教会一致運動が起こったことも、こうしたことに関係しています。 直接には戦争の悲惨さから抜け出すためにはどうしたらよいだろうか、というような問題意識がキッカケになっているのですが、ともかくも世界規模で教会の一致を求める声が広がりました。

 世界キリスト教協議会WCCの発足などはその代表例です。 それにつながるものとして、アジアにはアジア・キリスト教協議会がありますし、世界各国にはその国の教団・教派からなるキリスト教協議会があります。 もちろん日本基督教団も日本キリスト教協議会の構成団体の一つです。 私は外キ協というエキュメニカルな活動に長年関わってきましたが、不思議なことにエキュメニカルな活動をしていると、世界のキリスト教会が一つになることが夢ではなく、現実に起こり得る希望として見えてきます。 実際には解決困難としか思えないような課題がたくさんあるにもかかわらずです。 外キ協を例にとれば、外国籍住民の命や生活のことを普段から心配している人など、教会にだってほとんどいないと言っていいでしょう。 でも活動に参加している一人ひとりには、日本人を見る目その目で、外国籍住民の人たちを同じように愛情を持って見る日が必ず来る、という希望を与えられるのです。 不思議なことです。

 私たちが属する日本基督教団一つをとってみても分裂があります。 掲示板の前に置いてある「戒規か対話か」という題の新教出版社から出た本をご覧になったでしょうか。 副題に「聖餐をめぐる日本基督教団への問いかけ」とあります。 今私たちの教団の現実は、配餐方式まで規則で縛り、これに異なる見解を持った牧師からその資格を剥奪することまでやっています。 これがキリスト者のやることなのかと思ってしまいます。 誠実なキリスト者ならば、ゆっくりと対話を重ねていくことを選択するでしょう。 とても残念です。

 WCCのような教会一致を求める声が世界規模で現実化しているのですから、分裂している教会の状態をよしとして、そのまま放っておくことは許されません。 もっとも、一致を求める声は何もキリスト教に限ったことではありません。 今日、分裂して対立抗争を繰り返す世界に生きる者にとっては、誰にでも関わってくる問題です。 インターネットのような通信手段が世界ネットワークで発達し、一見人と人との間が近くなって便利になったように思えますが、実態はそうではありません。 世間を眺めれば、お隣り同士の結びつきや助け合いは確実に失われつつありますし、特に都会では人間の孤独化が進んでいて、ちょっとしたキッカケで分裂や対立は起こります。 今や人間社会の分裂や対立はいろいろな形で現れています。 イエスさまがきょうのテキストで、すべての人を一つにしてくださいと祈られたのは、イエスさまの願いは私たちが一つになることにあった、と見てもよいと思います。 キリスト者はイエスさまの足跡をたどって歩むのですから、私たちはこのイエスさまの祈りに基づいてスタートすべきです。 イエスさまの祈りは、後に残された弟子たちや初代教会のためだけでなく、その後にずっと続いてきた私たちのような教会に連なるすべての人々のための祈りでもあります。 ですから私たちは教会の一致について責任があります。

 21節から23節をご覧ください。 21節に「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」とあり、22節では、「わたしたちが一つであるように」と続き、23節では、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」とあります。 「あなた」というのは、父なる神さまのことで、「彼ら」というのは、弟子たちを指します。 ここには、父なる神さまと子なるイエスさまの交わりが一つであり、イエスさまが弟子たちと一緒にいることが教会一致の基礎であることが示されていて、このことを抜きに教会の一致はないことが語られています。 「あなたの内にいるように」とか「一つであるように」など、「一つのように」という表現が印象的ですが、一つの教会になるためには、私たちが父なる神と子なるイエス・キリストとの一致を映し出す鏡になる必要がある、ということではないでしょうか。 イエスさまが私たちと一緒におられるかどうか、私たちがイエスさまと一緒に歩んでいるかどうか、これが決定的に重要です。 それゆえ教会の一致は、人間の知恵や力によってつくり出すことはおそらく出来ないでしょう。 イエスさまが祈っておられるのですから、私たちも一致に向けて祈ることです。 私たちの祈りの結実は、イエス・キリストから賜わる聖霊の一致によるしかありません。

 もっと具体的に言うと、聖書を学び続けることによって、神さまの御旨が何であるかを問い続けることです。  さて、もう一つのことを考えてみたいと思います。 最初にイエスさまは弟子たちが一つになるために祈りを大きく展開したと申しましたが、その展開のことについてです。 それは21節と23節に出てきた「世−この世」との関係です。 21節には、「世が信じるようになります」とあり、23節には「世が知るようになります」とあります。  世という言葉、コスモスはヨハネ神学を構成するキーワードの一つだと思いますが、とりわけこの17章に集中的に使われていることに注意する必要があります。 世は神を知らない、しかしその世を神は愛されたというのがヨハネの主張ですが、弟子たちは神なき世へ派遣されている……弟子たちは世にあって、世と共に世のために生きるのだ、ということもヨハネが明らかにした点です。

 私たちとの関連を端的に言えば、礼拝を通して世に遣わされている6日間の生活ということでしょう。 ウイークデーの生活において、私たちは神さまからの委託を担って、み言葉に応答しながらこの世に生きているという姿です。 そこでは目に見える具体的一致は乏しいかもしれません。 しかし、カルヴァンが表現したように、キリスト者の6日間には「見えない教会」が一緒に存在しているのです。 私たちは各人の生活の場が違いますから、仕事も課題も内容は異なります。 そこで重要になってくるのは、今自分が置かれている場所で自分に与えられた課題にしっかり取り組んでいるかどうかです。 目に見える世界は一面に過ぎません。 イエスさまが問題にされるのは、もっと深い意味で私たちが言わば動的な一致にあるかどうかです。 一致は確かに私たちの努力目標ですが、詰まる所それは神さまからの賜物ですから、ここで言われている一致とは、動的な一致、多様性における一致だと思います。

 17章の初めの部分では、イエスさまの祈りは、ご自分の直弟子たちの一致ということでした。 9節にそれは記されています。 しかしイエスさまはその祈りを先ほども触れたように、射程を広げていかれるのです。 イエスさまの祈りの世界は、世々の教会のためであることは勿論、この世全体を包むようなレベルにまで達しています。 これこそイエス・キリストの神髄なのです。 私たちキリスト者はそういうお方の足跡をたどって歩んでいるのです。 そういうことですから、私たちは聖書と教会の歴史に学びつつ、自分に与えられている課題に取り組むということに尽きます。

 私の場合、小さな働きですが、外キ協などの活動がそうした道筋にあると捉えて、目の前にある課題に取り組んでいます。 教会一致の基礎がキリストの祈りにあるのですから、私たちもそれぞれ与えられた場で労しつつ、教会一致のために祈り続ける必要があります。 そしてその祈りは、自分の属する教会のためだけでなく、世界の教会のために、この世に生きるすべての人たちの一致のために祈るところまで広がっていきます。 イエスさまがそのように祈られたからです。 すべての人が救い主イエス・キリストを知り、信じることができるように、私たちの祈りは留まることはありません。 祈りましょう。


 
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