エフェソ書が使徒パウロの著作であるかどうかは未だに決定されていないようです。 聖書学者によっても結論が出せないのですから、私たちに著作性の結論が出せないことは言うまでもありません。 私たちとしては決定的な証拠が示されない限り、伝統的にパウロの著作によるとされてきたことと、手紙自体も『パウロから』(1,1、3,1)と述べていることもあり、パウロのものとみなして読み進むことでよいだろうと思います。 少なくともこの手紙が霊的にすぐれた賜物を頂いている人の著作であることに異論はないように思われます。
きょうのテキストの内容ですが、教理的なものではなく、倫理的な勧めです。 4章前半でパウロは「キリストの体は一つ」と言い、教会の一致を促し勧め、後半では異邦人と同じように歩んではならないと、異教の道を放棄することを勧めています。 そのような古い生き方は捨てなさいというのです。 そして古い生き方に代えて新しい生き方をするように勧めます。 『古い人を脱ぎ捨て……新しい人を身につけ』という言い方は特徴ある表現ですが、きょうのテキストではその新しい生き方が具体的な生活の仕方として示されます。
まずパウロは『あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい』と言います。 なんと堂々とした思い切った言い方だろうかと思います。 私たちが神の子供であるという表現は他の書簡にも出てきますからそんなに驚きませんが、“神に倣う者となりなさい”と直截に言われてしまいますと何とも困ってしまいます。 「神に倣う」とは「神に似た者」となれということでしょうから、私たちとしては「そんな気も遠くなるような標準を示されたって困ります」というのが本音でしょう。 しかし創造主である神さまに似るようにはなれないとしても、イエスさまが手本を示されたように生きるよう努めることはできると思います。 たとえば、貧しい人に衣食を提供したり、旅人を親切にもてなしたりすることです。 それならば何とかできそうな気がします。
またそうしたことだけではありません。 パウロは続く2節で、神に倣う生活の第一歩は、神さまがキリストにあって私たちを赦してくださったように、私たちも互いに許し合うことを勧めるのです。 それは、贖罪者である神の崇高な姿に似るようになるには、神さまがイエス・キリストの十字架を通して私たちに許すことを示してくださったことを手本に生きることだ、という意味でしょう。 しかし実際に悪意を持って自分を傷つけようとする者が現れたら、その人を許すことが容易でないことは分かります。 イエス・キリストの十字架は、人間に対する無限の愛を表しています。
その十字架から目を背けないように歩むしか、人間が愛の道を進むことはできません。 私たちが神の子供であるという表現は他の書簡にも出てくると言いましたが、私たちの親子関係を考えた時、私たちの子供は必ずしも父親に似るとは限りません。 少なくとも子供は親から愛されていなければ、父親のようになりたいとは思わないはずです。 近頃は親が子を殺すという事件が繰り返し起こるほど親子間のつながりは断ち切れていますが、これなどは人間が神さまから愛されていることを見失ってしまっていることが現実化した一つの形でしょう。 私たちはどんなに神さまから愛され、常に守られているかを、もう一度噛みしめたいと思うものです。
ですから1節は、「愛された子供らしく、神に似る者となりなさい」と言い換えることもできるように思います。 さて、3節以降は主題が程度を超えた悪い行いに移っていきます。 特に性的な不道徳に言及しています。 肉欲に対する警告です。 3節から4節に出てくる「貪欲」とか「下品な冗談」などの一連の悪い行いも、この文脈ではすべて性的な罪に関わるものとして捉えられているようです。 こうした悪徳が次々に出てくるというのは、時代を映しているのでしょう。 エフェソやコロサイの教会の中にもそうした影響が及んでいたのかもしれません。
性的な悪癖については既に4章19節で指摘されていますが、異邦人社会における性的乱脈はひどい状態だったようです。 ところで、キリスト教信仰は神学体系という言葉に象徴されるように、神論・人間論、堕落論や救済論など広大な宗教性を展開しています。 それは長い歴史の中で構築されてきたものですが、初代教会の様子を垣間見ると懇切丁寧な生活指導をもって発展していったことが分かります。 3節以降の記述などは、それを証明しています。 初代教会の信徒たちは、こうしたパウロの書簡などで、実生活を厳しく戒められていたのです。 しかもそれは単なる勧告・命令を発しているというのではなく、『聖なる者にふさわしく』と、キリスト者としての自覚や自尊心に訴えかけています。 性的な罪と申しましたが、「姦淫をするな」という十戒の第7戒を思い出すこともこのテキストを受けとめる上で有効だと思います。 私たちキリスト者は迷うことなく、そうした悪習から解放されなくてはなりません。
パウロは4節の終わりで、「卑猥な言葉」とか「愚かな話」に代表される口の災いである舌禍に触れて、『それよりも、感謝を表しなさい』とむしろ私たちが舌を善用することを勧めているのは効能豊かなことだと思われます。 舌は私たちの肢体の一部ですが、舌の効用を積極的に試みることは有効です。 その代表例といえば、神さまを賛美することでしょう。 十字架に示された神さまの愛に思いを致して心が熱くなり、自然に賛美へと舌が動けば最高です。 5節では、性的罪をむさぼる者は、偶像礼拝者であり、神の国を受け継ぐことができないと指摘されています。 これはなぜ性的に不品行であってはいけないかということの理由です。 神さまの救いから閉め出されてしまいますよ、という警告なのです。
私は神学校時代、昼間は月刊雑誌の編集の仕事をして働いていました。 編集者は毎月発行日の前に、印刷所に籠って出張校正をします。 ある時、お隣りの部屋の週刊誌の編集者に興味しろいことを聞きました。 週刊誌を売るための重要条件は人間の本能に訴えることだ、と言うのです。 だから性欲に訴えるために、性的な特集記事を組んだり、有名人の性的ゴシップ記事は欠かせないのだそうです。 普段から性に対してくれぐれも軽々しく扱ってはならないと備えることができるのは、おそらく動物の中でも人間だけでしょう。 パウロは性的放縦に流される仲間になってはならないと言うのです。 6節には、不品行な行為から、神さまの怒りが「不従順な者たち」に下るとあります。 キリスト者はむなしい言葉に惑わされて、不品行な行いに陥る者たちの仲間になってはなりません。 仲間に引き入れられないように留意しなければなりません。 もちろん「不従順な者たち」には信仰のない「異邦人」が重ねられています。 それはまた信仰を与えられる前の私たちの姿でもあります。 信仰を与えられた者は古い生き方を捨てて、新しい生き方に入るのですから、信仰者は過去の生活に戻ってはりません。
「以前」の自分の姿と「今」の自分の姿を顧みると、その差がくっきりと浮かんでくるはずです。 この新旧のコントラストはさらに8節で、「暗闇」と「光」という形で対比されます。 『あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい』。 ユダヤ教の諸文書には光と闇の対比が認められますが、キリスト教でも光は宗教的なシンボルとして用いられます。 ですからパウロもそのシンボルを用いて、光を見ることについて語るのです。 キリスト者は、神さまが備えてくださった新しい生き方・新しい時代に入っているのですから、今目の前に差し込んでいる神の国の夜明けの光を見ているはずです。 私たちは世を照らすその世界のあけぼのである主に仕えているのです。
そうであるから私たちも光となっている、とパウロは言うのです。 当然、私たちには「光の子」として振る舞う責任が生じます。 イエス・キリストの十字架の愛によって回心させて頂いた私たちは、善意と正義と真実とをそれぞれの生活の中で示さなければなりません。 この責任を果たすために各人が具体的にどうしたらいいのかを考えなくてはなりません。 どこから手をつけたらいいのでしょうか。
まずこの社会が隠し持っている闇を見極めることから始めたらどうでしょう。 社会の闇は簡単に外面に現れてはきません。 社会には何か隠し持っている暗黙のルールみたいなものがあるのです。 そのルールを暴き出そうとすれば何かしっぺ返しを受けるかもしれません。 しかし神さまの正義と真実を示すために、やらなければならない時には、私たちは行動を起こさなければならないと私は考えます。
例えばですね、今世界のニュースでは、アメリカ大統領選で共和党のトップを走るトランプという人が話題です。 彼はメキシコ移民やイスラム教徒を敵になぞらえて糾弾しています。 またヨーロッパには、経済や治安の悪化の原因を移民に帰する右翼がいます。 両者に共通するのは、彼らは仮想敵をまず設定して、それに対し拳を振り上げている点です。 トランプにしても右翼にしても、敵と戦っているようで、実は自らを貶めていることを見破ることが肝要です。 彼らのように独り相撲を取らなくても、私たちが戦うべき真の相手はたくさんいるのです。 地球温暖化、貧困、疾病、核兵器、あるいはどうしようもない政府など、私たちの前には真の敵がたくさんいます。 この敵を見誤ることなかれ、ということが最も大事でしょう。 そこから小さな一歩を踏み出す、これならば私たちにもできそうです。 そんなことを考えながら、私はデモや集会に参加しています。 祈りましょう。