「ヘブライ書」からは新約聖書の中でも他文書と比べて、かなり違った印象を与えられます。 冒頭に挨拶の言葉もありませんし、手紙なのかなあと思います。 成立年代と言われる紀元1世紀末は教会が迫害の危機に襲われていた時期ですから、おそらくヘブライ人が多いどこかの教会に、希望を失わずに忍耐強く歩みなさいという勧めがなされたのでしょう。 キリスト論が中心で、神の子キリストから説き起こされますが、それは発展して独自の大祭司キリスト論となります。
きょうのテキストにも「偉大な大祭司、神の子イエス」という表現が見られる通りです。 その昔教会会議が本書を正典に入れるかどうかで悩んだことも分かる気がします。 ともあれ、アウグスティヌスが東方教会の主張を尊重して、本書がパウロ書簡の一つとして認められるよう進言して以来、教会はずっと正典として扱ってきました。 しかし宗教改革の時代、ルターもカルヴァンもパウロ著者説を否定しましたし、現代でも大方の学者はその立場ですから、私たちもちょっとパウロの文書とは違うなあということで読めばいいでしょう。 とにかく一読して印象的なのは「祭司」或いは「大祭司」という言葉づかいです。 祭司とはもちろん旧約時代から神殿で祭儀を担当してきた役職名ですが、著者は旧約時代のその祭司職を度々引用し、比較しながら、新しいキリストの贖罪論を独自に展開しています。 つまりそれが新しい契約の下でのキリストの大祭司職ということになるわけです。 ところで、本書を読む際に私が心がけていることは、福音書を念頭に置きながら内容を理解していこうという意識です。 そうしないと、私などは頻繁に引用される旧約の世界に振り回されてしまう気がするのです。 「偉大な大祭司」「優れた約束の大祭司」「メルキゼデクの祭司職」というような表現に出会っても、福音書のイエスさまの行動・立ち居振る舞いを思い起こせば、落ち着いて読み進むことができます。 11章あたりから著者の主張がクライマックスになると考えていますが、私はその辺の叙述が大好きでよく分かる気がします。 ちなみに次年度の宣教基本方針を目下役員会で協議しているのですが、私は13章の聖句を提案しています。
さて、きょうのテキストの小見出しは「偉大な大祭司イエス」です。 著者も福音書に登場するイエスさまを念頭に置いています。 福音書のイエスさまは数々の奇跡を行われましたが、その奇跡は世間一般で言われる奇跡とはまったく質が違います。 イエスさまの奇跡というのは、年間千本ホームラン打ったとか、マラソンで10連覇したとかいうような、通常では起こりそうもないことを成し遂げて皆をビックリさせるという類のものではありません。 イエスさまの場合は、メシア性を秘匿されたように、控え目に、行動されているのに、周囲の人々の方が勝手にイエスさまの行われたことを言い広めてしまったということです。 例えて言うならば、ガリバーが小人の国へ行った時の状況みたいなものです。 自分はまったく変わっていないのに、小人の国へ行ったら人々はまったく異常な人物として自分を眺めるわけです。 ガリバーの物語が語っていることは、人が人であることの正常性を失った世界では、正常な人こそ驚きの目で見られ、その存在と行動は特別なこととして認識されてしまう、ということではないでしょうか。
14節にいきなり『もろもろの天を通過された偉大な大祭司』と出てくるのですが、パウロだったらこうした物言いはしないだろうと思います。 とにかくこの大祭司は神の子イエスだと言っていますから、私などは実際のイエスさまの行動を思い返すわけです。 例えば、イエスさまは徴税人や罪人たちと食事を共にされました。 罪人というのは刑法上の罪人ではなくて、アム・ハーレツ(地の民)と呼ばれた律法を厳格に守らなかった人たちです。 ユダヤ教の律法の立場からいえば、神と共に生きようとする人はそういう人たちとは交わってはなりませんでした。 しかしイエスさまは軽々とそうした垣根を越えてしまわれています。 長年にわたり築き上げられてきた律法というものにまったく縛られておりません。 ですから彼らもイエスさまと食事を一緒にし、行く先々について行ったのです。 レビの家での会食のシーンなどはその一つです。
それは当時のユダヤ人社会では起こり得なかったことを引き起こす結果となりました。 私たちだって社会的に認知されていない人たち、例えばヤクザと呼ばれる人たちと食事することはまずないでしょう。 それは私たちが社会的な常識としてヤクザの人たちに色をつけて見ているから、会食などの機会がまず起こらないのです。 あえて言うと、イエスさまは人間が築き上げた常識をはるかに超えておられるお方ですから、世間の人が縛られている常識やら伝統やらに縛られることもないのです。 当時の律法はユダヤ人社会では強烈な縛りを伴って作用していたはずです。 でもイエスさまの周囲ではまったく縛られない世界が次々に展開していくわけですから、それは強烈なインパクトを人々にもたらしたでしょう。
言うなれば、イエスさまの奇跡とはそういう類の奇跡だと思います。 別な言い方をしますと、イエスさまが生きておられた世界には人を縛る一切の差別がなかったということです。 本来人はそういう世界を生きなければいけないのですが、私たちは本来あるべき人として生き切れていないのです。 15節に表現されている大祭司イエスの姿に注目してください。 『わたしたちの弱さに同情できない方ではなく』とあります。 イエスさまが憐れみ深いのは、人間の弱さに同情できるということなのです。
人間の弱さって何でしょう。 病気になったり高齢になれば、肉体的な弱さを抱えます。 社会生活をしていると、様々な誘惑が襲いかかり、道徳的な試練に遭います。 また信仰生活を送っていれば、しばしば私たちは宗教的な弱さを自覚せざるを得ません。 「同情する」と訳された言葉は、「共に苦しむ」という意味の言葉ですが、大祭司たるイエスさまは、私たちが抱える様々な弱さを一緒に担ってくださるお方であると言っているわけなのです。 またイエスさまは『罪を犯されなかった』ことにも言及していますが、これは大祭司イエスの無罪性を私たちのような弱さを抱えた人間との対比によって際立たせた表現でしょう。 イエスさまが罪を犯されなかったというのは、イエスさまが神の子キリストであった、ということです。 またそれは同時に主イエスが本来あるべき人であったことを意味していると思います。 これこそ真の奇跡ではないでしょうか。
私たちが誰か他人と一緒にいれば、私たちとその人は憎しみ合ったり、いがみあったりしなければ向き合えない関係に陥ってしまうこともしばしばです。 みんなが友達になるわけではなく、その人が自分に何か害を及ぼす存在にもなり得るわけで、そうしたところに人間同士の限界がありますが、大祭司イエスはそうではないと言うのです。 誰であろうとその人と一緒に居続けることで、本来の人としての姿を示してくださるのです。 イエスさまは大祭司であり神の子として、誰とでも共にいることができる方です。 それは神の子キリストとして、人間の現実世界を完全に生き切っておられる存在です。 このお方には人間誰でも、いつでも、自由に近づいていくことが準備されている、そういう空気を感じます。
福音書やこの手紙が書かれた時代に、社会から排除されていた人たちに自由に近づかれ、また反対にそうした人たちが自由に近づくことができたお方こそが大祭司、神の子イエスです。 人間にとってこんな大きな恵みはないでしょう。 このお方がそれから二千年経った今も私たちの前に聖書を通して、また聖霊の働きとしておられるのです。 私たちはこのお方の前で自分の心を全部開いて、“イエスさま”と呼ぶことができます。 一緒に食事ができる親しさをもって、“イエスさま”と呼ぶことができるのです。 徴税人や罪人たちは決して自分たちには開かれないと思っていた天国の扉を、大祭司イエスが開いてくださいました。
だからヘブライ書の著者は16節で、『憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。』と勧めています。 「恵みの座」、それは元来主なる神さまがおられる場所でしょう。 イエスさまも天に上げられたのですからそこにおられます。 旧約時代から祭司は礼拝のために犠牲をもって聖所に向かい進んで行きました。 きょうこのように礼拝を守ることも、私たちにとって恵みの座に近づく行為の一つだと思います。 私たちは賛美という犠牲を捧げながら、天の聖所に大胆に近づくようにと、ヘブライ書の著者から勧められています。 お祈りします。