2016.1.24

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「気前のよさをねたむのか」

秋葉正二

レビ記19,9-13; マタイによる福音書20,1-16

 理屈から考えると何とも納得の行かない譬え話から学びます。 天の国が、ぶどう園のオーナーが広場で労働者を雇う様子で譬えられています。 天の国の天はここではパラダイスではなく、ウーラノスという語が使われています。 神の国と同じ意味です。 直接神の国と言わないのは、神名を使うことを避ける用語法です。

 ストーリーは分かりやすく、よく理解できます。 まずぶどう園のオーナーが夜明けに一日1デナリオンの賃金で労働者を雇います。 日雇い労働者の雇用です。 現代流に言えば、労働基本法における賃金の問題ということになるのでしょうか。 古代の話ですから、ローマの労働法はありましたが、今で言う最低賃金法なんてものは勿論ありません。 労賃の支払いについてはレビ記19章13節申命記24章15節に記載があります。 いずれも落穂拾いの箇所です。 レビ記にはこうあります。 『雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない』。 申命記ではこうです。 『賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない』。 イスラエルの人たちは当然そのことを知っていたでしょう。

 さて、オーナーと雇われ人の労働者がその場で直接交渉して賃金が決まります。 デナリオンはお馴染みのローマ銀貨で、1デナリオンは当時の労働者の日当の相場です。 オーナーは労働者を雇うために最初夜明けに出かけています。 次は9時頃。 それから12時頃と3時頃に行っています。 最後は夕方5時頃です。 ですから通算5回も雇いに出向くという話の構造になっています。 常識的に考えればそんな雇い方はしないだろうと思うのですが、そのような譬え話の構造なのです。

 譬え話ですから、オーナーを神さま、労働者を人間というふうに考えますと、何度も広場に出かけるというのは、神さまの方が人間に対する関わりを熱心に求めて、しつこいくらいこだわっておられるということが表現されているのかもしれません。 雇うという行為が何度も繰り返され、とうとう夕方5時になってしまうのですが、まだ広場には何もしないで一日中立っている人がいました。 6時になれば日が落ちて労働はおしまいです。 もう1時間しか働ける時間はないので、5時まで待っていた人たちはほとんど雇われることを諦めていたでしょう。 投げやりになっていたかもしれません。 ところがその人たちにもオーナーから声がかけられました。 6,7節にその人たちとオーナーとの会話が記されています。 『なぜ何もしないで、一日中ここに立っているのか?』 『誰も雇ってくれないのです』。 オーナーは彼らに言います。 『あなたたちもぶどう園に行きなさい』。 つまり、あぶれていた彼らにも何とか仕事を与えようというのです。 「もう働ける時間はわずかだけれども、いいよ、とにかく行きなさい、まだ働ける」という親心でしょう。

 ところで、ぶどう園で栽培されるぶどうはもちろんぶどう酒にするのですが、ぶどう酒は「カナの婚礼」の話にあるように、イスラエルでは喜びを表現する代表的な飲み物です。 良いぶどう酒は味も香りも絶品です。 そういうぶどう酒を生み出すぶどうを摘む仕事がまだあるよ、とオーナーは言ったわけです。 そしてその雇うという5回にわたる行為の時間的経過を大きく捉えますと、そこに私たちの人生が譬えられているという解釈も可能かもしれません。

 人生半ばで自分の能力の限界に突き当たってガックリきたり、晩年にやり残したことばかりが気になったり、という話を時々聞きますが、そういうところからでも再スタートしてもよいのだよ、と神さまから声をかけて頂いているような気もします。 だとすると、そういう時にこそ、「天の国」「神の国」が私たちの人生に関わっていることになります。 私たちがもういいやと見切りをつけたそのところから、神と共なる喜びの人生は始まる……そういうことが示されているのではないでしょうか。

 さて譬え話に戻ります。 日も暮れて一日の労働が終わりました。 オーナーはぶどう園の監督に命じます。 『賃金を払ってやりなさい』。 ここで「ええっ!」とびっくりすることが起こります。 オーナーが賃金支払いの順番を反常識的に指定したのです。 『最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に』と命じます。 賃金支払いに関しては現代でもいろいろな問題が生じますが、これはあまりにも常軌を逸した支払い方と言ってよいでしょう。 経済原則に照らしても理不尽な支払い方です。

 最後に雇われた人たちが1デナリオンを受け取る様子を最初に雇われた人たちが見ていました。 最初に雇われた人たちは思ったのです。 10節、『もっと多くもらえるだろう』。 そうでしょう。 労働時間がまったく違うのですから。 夜明けから日没まで働けば労働時間は10時間以上でしょう。 最後に雇われた人たちは1時間程度しか労働していないのですから、最初に雇われた人たちは多くもらえる期待を持ってしまったのです。 「あの人たちが1デナリオンならば、我々はその何倍かもらえるに違いない……」。

 でもそうではありませんでした。 『彼らも1デナリオンずつであった』。 12節では最初に雇われた人たちから不平が吹き出しています。  『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは』。 この不平は至極当然という気がします。 しかしこの譬え話の核心はこの至極当然と思える不平を根本からひっくり返すところにあります。 それが13節から15節にあるオーナーの言葉によって表されます。 『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか』。

 ここには神さまの恵みということが語られているのではないでしょうか。 どう考えたって滅茶苦茶だ、こんな不公平はあるか!と思えるような場面の中にこそ、私たちが簡単に見出すことのできない神さまの恵みの公平さが隠されているのです。 言うなれば、これは神さまの「無償の愛」とでも呼ぶべきものです。 無償というのは報酬をまったく求めないということですが、この愛を人間は持っていません。 どんなに善行に励もうが、他人に親切にしようが、私たち人間はどこかで何らかの代償を考えてしまうものです。 この譬え話は、その人間が持ちえない無償の愛、公平な恵みというものを明らかにしようとしています。

 労働ということが背景にある譬え話ですが、今巷では中小企業の経営者たちが苦労を重ねて奮闘しています。 アベノミクスで株がそこそこ上がり大企業の業績がアップしたと言われますが、中小企業の経営状況は豊かさには程遠いと言われていますし、私たち民衆の暮らし向きはますます楽ではなくなってきています。 そんな中でも中小企業の経営者たち・労働者たちが頑張れるのは、やがてその頑張りに見合う報酬が得られるだろうという期待があるからです。 その期待は世間では当然のこととしても、頑張れば頑張っただけ報酬が得られるという考えは決してオールマイティーではないこともわきまえておくことが大事だと思うのです。 人間が当然のこととして発想する考え方がオールマイティーではないことを、この譬えは示しています。 頑張った苦労に見合った酬いということだけでは片付けられない世界があるということを、イエスさまは提示されたと思います。

 その上でよくよく考えてみれば、世の中には酬いられない努力や苦労もたくさんあることに気が付きます。 他人と比べて、自分の報酬は低過ぎると思う時があるでしょう。 そうした時、私たちは愚痴ったり、やり切れなくなって当たり散らしたりするわけですが、実は世の中には酬いられない労苦がたくさんあるのです。 実際の世の中はそのような隠れていて見えない多くの人たちの苦労や働きによって支えられています。 縁の下の力があってこの世は動いていると言っても過言ではありません。

 一つの私の体験をお話しします。 もう40年近く前、私は神学校を卒業して学校の薦めもあり、新潟市郊外にある創立間もない日本基督教団立の敬和学園という高校に教務教師として赴任しました。 普通就職する時には雇う側から給与の額が提示されます。 ところが敬和学園の太田校長は最初の面接で給与はいくらですと言われないのです。 いろいろお話しした後、太田校長は最後に「信仰を持って信じて赴任してください」と言われるだけでした。 「あのう、給料はどのくらい頂けるのでしょうか?」と恐る恐る聞きましたら、その返答はやはり「信仰を持って信じて赴任してください」とそれだけでした。

 私も少しやけくそになって、「まあいいや、多分安いのだろうけど何とかなるだろう」と赴任を決めました。 で赴任後、初めての給与を頂いてやっぱりがっくりきたのですが、後々いろいろな事情が分かってきました。 敬和学園が創設された時、ほとんど資金はありませんでした。 日本基督教団にはもちろん余分なお金などありません。 宣教師のジョン・モス先生が米国中を回って集めてきた献金だけといった状態です。 初代理事長は大蔵大臣をされた北村徳太郎氏、浅野順一先生が創設された美竹教会員です。 学校の土地も北村氏の鶴の一声で新潟市から無償供与されました。

 そういう状況でスタートした学校に、教師たちに並みの給与を支払う力はありません。 教員募集に最初に応募した先生たちは皆独身で、学校出たての若い人たちだったのですが、「給料はいくらでも結構です」と応募したというのです。 その話を後で聞かされて、私も「給料上げてください」とは言えませんでした。 この例などは、教育という業が給与額だけで成り立っているわけではないことの実際例です。 教師も労働者ではありますが、いろいろな生徒たちとの出会いから体験することのできる喜びや感動は給与額によっては算出できません。 つまり、お金の額によって計算できない世界がこの世にはたくさんあるのです。

 私たちの場合ならば、教会の存在理由を考えるのが最も手っ取り早いと思います。 教会活動はギブ・アンド・テイクという理屈では動きません。 確かにこの世の論理や知恵が教会運営のある部分には適用されますが、基本的に教会はこの世の論理の外にあります。 イエスさまはこの譬え話でこの世の論理の外にある世界のことを話されたのです。 人間の計算では説明のつかない世界がありますよ、それは神さまの無償の愛の世界ですよ、とイエスさまは訴えておられる気がします。 献金をささげたり、祈ったり、助け合ったりするのは、イエスさまが示された神の無償の愛の世界に基づいた行いです。

 『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』。 これがぶどう園のオーナーの指示でした。 平たく言うと、よく働いた者・功績のある者は後回しで、ちょっとしか働かなかった功績のない者が優先ですよ、という宣言です。 この世のことばかりに囚われていると、私たちはイエスさまに文句の一つも言いたくなります。 しかしそういう時の私たちは、自分が神さまから無償の愛で包まれ守られていることにすら気づいていないのです。 イエスさまに出会わなかったら、この世の論理以外の世界があることは分からなかったでしょう。 自分が一人で生きているのではなく、実は守られ生かされている存在であることを、私たちは信仰を与えられることによって示されたのです。

 マタイがこの譬え話を編集した時、彼の教会は既にユダヤ人だけでなく、異邦人が増えつつある状況にあったと思います。 歪められた旧約の律法世界で生きてきた人たち中心の共同体から、異邦人たちを中心としたイエス・キリストの新しい世界の共同体へと世界は広がっていくところでした。 マタイは最初に雇われた人たちと最後に雇われた人たちの姿に、そうした自分が生きている教会の変遷の姿を反映させたのかもしれません。 無償の愛で私たちを包んでくださっている神さまに祈ります。 


 
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