2016.1.10

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「心を新たにして」

秋葉正二

イザヤ書50,4-9; ローマの信徒への手紙12,1-8

 「キリスト者」或いは「キリスト教会」の在り方をロマ書から学びます。 福音宣教の使命を果たすために私たちはどのようなキリスト者としての自覚を持つべきか、また教会がどのような形態や構造にすべきなのか、といったことを学びたいと思います。 お手本が聖書であることは勿論ですが、聖書は古い書物ですから、そのまま古代の姿を真似ても発展はありません。 神学生の頃、E.シュヴァイツァーの「新約聖書における教会像」が翻訳されて友人たちと大きな刺激が与えられた記憶があります。 久し振りに書棚から引っ張り出して読みましたら、リベラルな物言いが沢山あって、ちょっとワクワクしました。

 例えばこういう言葉があります。 「新約聖書的な教会の職制というものは存在しない」と言い切り、その理由として「既に新約聖書そのものの中に、状況に応じた多様性が示されている」と説明があります。 その上で結論的に、「新約聖書にある教会の職制に関する記述は、福音として読むべきである」と言うのです。 これは教会に対する一種のアドバイスでしょう。 シュバイツァーの指摘の意味を考えて行くと、私たちが具体的に教会の職制を考える際には、常に「教会の本質とは何か?」と、問い続けることだと思いました。

 さて、きょうのテキストを理解するために、まず6,7節に出てくる「賜物」という言葉を理解しておきます。 「カリスマ」という語ですが、カリスは「恵み」ですから、カリスマは「恵みのプレゼント」ということになります。 そこで、このカリスマから取り出せる意味として、私たちが教会生活において様々な奉仕をする理由は、自分の能力、地位あるいは何かの資格によるのではないことが分かります。 神さまからの「恵みのプレゼント」は実に多様なので、奉仕の内容も多様なのだ、とパウロは言うのです。

 私たちの能力には多い少ないがあるでしょうし、地位ならば上下があるでしょう。 古代カトリック教会はヒエラルキーという教会の階層システムを生み出しましたが、それは本来身分の上下を表わす職階制度ではなかったはずです。 教会のヒエラルキーは固定化などできません。 パウロにとって教会のいろいろな奉仕活動は、聖霊の自由な働きでした。 カリスマは人間の所有物にはならないのです。 だから特定の地位や身分を保障するものではありません。 すべての信徒にはカリスマが与えられていて、めいめいが奉仕をするのだというテーマが新約聖書を貫いています。

 シュバイツァーが指摘していることですが、初代教会ではすべての教会員が自明のこととして洗礼を授けていましたし、聖餐式も行うことができたのです。 勿論教会の諸集会で誰でも自由に発言することができました。 コリント前書には「霊の賜物」が教会員すべてに与えられていることが書かれていますが、それもカリスマという言葉です。 要するに、全信徒にその人にふさわしい形でカリスマが与えられるということです。 そこで私たちにとってまず問題になるのは、そのカリスマを充分に活かして用いているだろうか、でしょう。 賜物の価値の序列を能力や業績の大小で量ることはできないことは先に触れました。 聖書のカリスマは、その人に固有のものであって、他人と比較しても意味がないのです。 ですから教会における奉仕は、聖霊の導きということを考えれば、いつも自由で自発的で、強制したり押し付けられてなすべきものではありません。

 しかし多くの場合、日本の教会では自由であることが無秩序や無責任になっていることが多々あるようにも感じます。 本来自由と責任とは相伴って初めて正常に機能すると思うのですが、自発性と秩序がゴチャゴチャになっているような気がします。 そこで私たちは、奉仕のための秩序を考えなくてはならないと思うのです。 教会に職制を認めるならば、そうした観点からの必要性を考えることが求められるでしょう。 それはその時代時代の状況を反映して生み出されてきたし、これからも生み出されると思います。 その意味では教会の奉仕の業を担うシステムは先に触れましたように歴史的にも多種多様です。 例えば使徒言行録に見られるような初代教会では、使徒たちのような強烈なリーダーの指導による万人祭司体制です。 使徒の権威が生き生きと機能していた時代ですから、それは可能でした。 しかし時代と共にその権威は聖職者と一般信徒という区別を生み出し、やがてそれが固定化して古代カトリックのヒエラルキーになったわけです。

 これに対しプロテスタント教会の宗教改革の意味の一つは、自己目的化に陥ってしまった教会制度をもう一度聖書に立ち帰って万人祭司性を取り戻すとことだったと思います。 そこから出て来るプロテスタントの立場は、教職と信徒の関係が身分関係ではなくて、奉仕領域・奉仕機能の違いだという点です。 権威云々を言うならば、それはただイエス・キリストからの召命だけで充分なのです。 けれどもそれを究極的に押し進めて行けば、非教会化、非キリスト教化、あるいは非宗教化の問題が出て来ると思います。 その辺のことに関しては赤岩先生の信仰思想に触れられた皆さんがおられるのですから、一度ゆっくりお話を伺いたいなと思っています。

 とにかくカトリック教会のヒエラルキーが全て悪いかといえばそんな簡単な話ではないということです。 プロテスタント教会においては、牧師と言えばまず連想するのは説教のために専任された働き人という点でしょう。 しかしそれとても説教が牧師の占有する業でないことも確かです。 説教が礼拝の中に位置付けられているように、説教とは全信徒が参与する教会の共同の業です。 ですから説教を聞くことには責任が伴います。 場合によっては説教に批判的に関わる必要も生じると思いますが、基本的には説教の建設的な聴衆として、教会の宣教の業に参加しなくてはなりません。

 日本基督教団では教会員の中から役員が選ばれて、牧師と共に役員会を構成して牧会や宣教活動にあたります。 教会によってはあえて役員ではなく長老と呼ぶところもありますが、それだって簡単な問題ではありません。 長年居座った有力者が選ばれたり、いつも顔役的な人選がなされて困るという教会は沢山あります。 教憲・教規には「教団は会議制によってその政治を行う」と書いてあるのですが、それは裏返せば話し合いもなく政治が行われる教会があるということでしょう。 ヒエラルキーの中では上位の者が決断して下位に公布するなんてことがありますが、それだって上位の人たちによる会議があることが前提でしょう。 プロテスタントの中にも歴史的な主教制度に立った監督制の聖公会がありますし、日本キリスト教会や改革派のような代議制に立つ長老主義もあります。 私はバプテスト教会の出身ですが、旧組合教会やバプテスト教会は直接民主制に立つ会衆制教会です。

 日本基督教団の難しい点はそうした色々な伝統を持った教会が33教派も寄り集まって成立したというところです。 教団の会議制の中身は、監督制に対して自覚的に選び取ったというようなものではなくて、それこそ制度を異にした日本基督教会・組合教会・メソジスト教会という戦前の三大主流教派が合同に際して妥協して生み出した教会政治の形態だという点は忘れてはならないでしょう。 大事なことはどの形態であれ、どれも教会で誠実に奉仕しようと願った歴史上の多くのキリスト者たちが生み出してきた形態だということです。 ある立場に立てば絶対だというような制度的保障などはありません。 私は教会内の奉仕形態も最終的にはその教会が苦労して探し求めて行き着いた形態が一番だと考えています。 お隣の教会の在り方は参考には出来ますが、中身を比較してどちらが良いとは言えないのです。

 イエスさまの教会を建設するために聖霊が私たちの内に自由に働かれるのだということを確認しておきましょう。 カリスマ−恵みのプレゼントは、私たち一人一人の教会生活に深く結合しています。 4,5節の有名なパウロの喩えは、教会が有機的な存在であること、そしてその有機的共同体としての教会は、十字架上で死なれよみがえられたキリストの体としての洗礼共同体であることにつながっていることを表しています。 教会の奉仕の場は固定的・制度的に論じられるものではなく、あくまでも過渡的なもので、その教会に必要に応じて自然に生まれてくる役割分担であることをパウロのアドバイスから受けとめたいと思います。 教会内には様々なディアコニア(奉仕) の場があります。 私たちはそのことを自覚して、快く積極的に奉仕をしたいものです。

 もう一度6節以下を読んで終わります。

わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 祈ります。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる