2015.12.13

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「来るべき方」

秋葉正二

申命記18,15-18; マタイ福音書11,2-10

 イエスさまがまだ公の活動前に洗礼者ヨハネの活動に参加したこと、またヨハネから洗礼を受けたことは福音書の初めの部分に書かれています。 神の子であるイエスさまが偉大ではあっても人間であるヨハネの弟子であったことは、初代教会の人たちにとってはあまり望ましいことではなかったかも知れません。 しかしイエスさまがそのようにされたことは多くの人たちが知っていたことだったのでしょう。 福音書の記者はその辺の事情を少し斟酌しながらヨハネについての記事を書いたように思います。 すなわちイエスさまの方がヨハネよりも偉大なのだという点を強調します。 私たちとしてはそうした事情も考慮しつつ、ヨハネという人物について少しでも知ろうと努めるしかありません。 資料は新約聖書だけです。

 福音書の洗礼者ヨハネに関する記事を読み合わせますと、彼は主に二つの点について教えを説いたと思われます。 第一は、神の国が近いということ。 第二は、人々に神の国を迎えるために悔い改めよと要求したことです。 イエスさまのヨハネのユダヤ教という枠の中にいたのですから、そこにはユダヤ教の黙示思想が当然関係していたでしょう。 黙示思想は神の国の接近を熱心に説いていました。 これはどういう思想かというと、今の世と来るべき世の二つがあると考え方です。そして今の世と言えば、実際に悪いことが沢山目につくわけですから、悪い世だと考えたわけです。 その悪い世に神さまが何らかの方法で介入してくださって、終わらせてくれる、そしてそれまでの悪い世に代わって新しい世を備えてくださる、という一種の二元論です。

 二元論にはいろいろ問題がありますが、とにかく分かり易いのが特徴です。 つまり洗礼者ヨハネは、今の世の終わり-終末が近いぞ、皆さんここで悔い改めないと、反省して善人に立ち帰らないと、終末に滅んでしまうよ、次にもたらされる新しい世に入れてもらえないよ、と説いたのです。 イエスさまがこのように考えた人の活動に参加されてそこで洗礼を受けたということは、イエスさまの考え方の中に、ヨハネと共通するものがあったと見てよいでしょう。 しかしイエスさまはヨハネの活動から抜け出して、独自の歩みを進めて行かれます。 この独自の歩みこそが私たちが信じる信仰内容に関わります。 おそらくイエスさまはご自身の新しい体験をされたのだと思います。 その体験が具体的にどのようになされたのかは分かりません。 神の国・神の支配が間近いけれども、それは将来的にやって来るのではなく、既に実現しつつある……少なくともご自身の中にその気配を感じられたのだと思うのです。

 既に実現しつつある新しい世を感得された時点で、ヨハネの許に留まらなければならない理由はなくなったのです。 イエスさまはヨハネの影響下から完全に抜け出されて、ご自分の歩みを開始されます。 新しい世、神の国は将来やって来る、神の国の将来性が消滅するわけではないけれども、既に始まりつつある、このことをイエスさまは、ご自身の体験として感得されたのだと思います。 ヨハネの場合には、神の国(支配)がやがてやって来るから備えよ、というのが中心ですが、イエスさまの場合は、この世のいろいろ嫌なことが多くある只中に神の国は既に始まっているよ、というのです。 イエスさまは宣教活動の中で、ご自分が神の子である自覚を段々と強くされていくのですが、洗礼者ヨハネとの出会いにおいてその最初の自覚に目を開かれたと言えるでしょう。

 さてテキストですが、洗礼者ヨハネの獄中からの質問に始まって、イエスさまのヨハネに対する評価、ヨハネとの関係と比較が述べられています。 4章12節には『イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた』とありますから、イエスさまの宣教活動は洗礼者ヨハネの逮捕以後ということになります。 ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスの不法な再婚を批判したために逮捕されました。 歴史家ヨセフスの「古代誌」によればヨハネはこの領主によって堅固なマケルス要塞に閉じ込められていたとありますので、彼が弟子と接触して外界と連絡を取るのは難しかったと思いますが、マタイは洗礼者ヨハネの質問を一つの機会にしてイエスさまにメシア性を語らせたのでしょう。 ヨハネは3節で『来るべき方は、あなたでしょうか』と尋ねています。 この「来るべき方」と訳されている言葉(ホ・エルコメノス)は重要で、終末に現れる預言者的メシアを表す言葉です。

 ヨハネはイエスさまに「あなたがメシアなのですか?」と尋ねたのです。 それに対してイエスさまは即座に要点を示すように、ご自分の活動と結びつけて答えられました。 活動内容を事実としてそのまま伝えられています。 ここはとても大事な所です。 5節。 目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人……これらの人は皆イエスさまが実際に出会われ、イエスさまによって新しい人生を与えられた人たちです。 またその活動は旧約聖書の預言を成就するものでした。 『見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く』というのも、『貧しい人に良い知らせを伝えさせるために……』というのも、イザヤ書に預言されている言葉です。 ですから、旧約預言を引用することにより、ご自分の活動がその預言そのものであることを示されて、自分こそがその約束されたメシアであることをはっきり宣言されたのです。

 6節の『わたしにつまずかない人は幸いである。』という一言は、洗礼者ヨハネに対して、あるいは私たち読者に対して、「わたしイエスをあなたは誰だと理解しましたか?」と判断を相手に委ねているように感じます。 この一言に接している私たちは自分のイエス理解、すなわちメシアか否かを答えなければならないでしょう。 そして7節になりますと、ヨハネの弟子たちが帰ってしまいますので、イエスさまの言葉の矛先は群衆に向けられます。 7節8節はヨハネに対する人々の傍観者的態度の批判です。 『あなたがたは、何を見に荒野へ行ったのか』。 これはヨハネが促した悔い改めを多くの人々が深いところで捉えていなかったことへの叱責でしょう。 ヨハネは荒野という人が生きていくには厳しい場所を地盤として激しく悔い改めを迫った人物です。 その激しい言葉を受けとめ切れない人が多くいたのでしょう。 多くの人が洗礼を受けにヨハネの所へ出かけたけれども、ヨハネの示した重要事項を理解した人は少なかったのでしょう。 「風にそよぐ葦か」、これはもう強烈な皮肉です。 しっかりした定見もなく、多くの人が行くからといって自分も出かけて行く、時流に流される人の姿を、イエスさまは「風にそよぐ葦」と言われたのです。 8節も同じく強烈な皮肉です。 『しなやかな服を着た人なら王宮にいる』。 王宮は権力の集中する場所です。 そこには権力者におもねる人も大勢集まったことでしょう。 そういう人にはヨハネが示した厳しい世界は到底分からないよ、というわけです。

 洗礼者ヨハネは王でも遠慮なく批判して悔い改めを説いた硬骨漢ですから、彼の活動にはこの上ない宗教的厳格さがあったのです。 いい加減な気持ちでヨハネの許を訪れた人は、何も大切なことを得られなかったでしょう。 さらにイエスさまは9節10節で、洗礼者ヨハネを大きく評価されます。 『預言者以上の者である』と言われます。 これはヨハネの信仰思想が、これから教会の福音宣教に継承されるべき内容をもっていて、イエスさまに始まるこれからの宣教活動の実質的な道備えになっていることの宣言となのでしょう。 洗礼者ヨハネは、メシア・イエス到来の道備えの役割を果たしたという宣言です。 さて、イエス・キリストにおいて、神の国・神の支配はどのような形で実現しているのでしょうか。

 ヨハネの場合には悔い改めを要求する理由ははっきりしています。 言うなれば、悔い改めて善い行いをしておけ、そうでないと神の国がなった時に裁かれるぞ、ということです。 しかしイエスさまの場合は、人間の方が悔い改めるとか、善い行いをするとか、人間の側が特別に何かをするということが無意味にされます。 神の国は、神の愛は一方的なもので、それに対してある備えをしなければ人間がそれを受けることはできないというものではなく、神の国・神の愛は、人間のあらゆる努力よりもはるかに大きいのだ、というのがイエスさまが自覚した内容なのです。

 もう少し別の面から言います。 イエスさまの歩んだ道は、ユダヤ教の中の優等生とか高い地位の人たちと一緒に歩んだ道ではありませんでした。 むしろユダヤ教の基準では落ちこぼれの人たちと生活を共にしました。 イエスさまの視線はすべての人に一切の区別なく向けられていたはずですが、実際にイエスさまが辿った道はいつもファリサイ人や律法学者が論敵として登場し、今日のテキストに出てきた身体の不自由な人とか、貧しい人とかとの出会いがほとんどです。 これはどういうことかと言うと、現代でも同じですが、当時のユダヤ教の世には社会に上下の秩序があって、ユダヤ教的に立派な人々とそうでない人々、成功した人々と落ちこぼれの人々の両者があり、社会の秩序と信仰ないし宗教は、相互に支え合う関係になっているのです。 立派な人たちにとってみれば、自分たちだけを顧みてくれる神さまが共通理解なのですが、それが落ちこぼれた人たちまで拡大されると、現状の秩序が壊されてしまう恐れを感じたのです。 イエスさまが来るべきメシアとして明らかにされていった既に来つつある神の国とはそういう立派な人たちが恐れていた世界です。 イエスさまが取税人や罪人の仲間だとか呼ばれたのは、イエスさまの宣教活動が神の愛はすべての人に注がれるよというものだったからです。

 自分たちは救われると思っていたのに、新しくやって来たメシアは、神の国を下の方の人たちにまで広げてしまった、それでは秩序が崩れてしまうという恐れを立派な人たちは感じ取りました。 神の国が既に始まっているならば、自分たちの基盤は既に壊れ始めている、そう思ったのです。 私たちはイエス・キリストの神の国を、精神化したり倫理化したりしてはならないと思います。普通の一般の生活の中に、一般の社会生活の中で神の国が始まりつつある、発展しつつあると理解すべきです。 ですから信仰の問題は個人の魂の問題、教会の中だけの問題に限定することはできません。 ヨハネとイエスさまが決定的に別れて行くのは、その点だと私は理解しています。 イエスさまの言葉の背後にある生き方を私たちは学ばなければなりません。 自分と他者に区別をつけるところに宗教が成り立つのであれば、私たちはそういう宗教を壊さなくてはなりません。 祈ります。


 
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