2015.11.29

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「待ち望む人」

賈 晶淳(カ ジョンスン)

ルカによる福音書19,1-10

 今日の聖書の内容はとても親しみ深い内容です。昔教会学校の先生からこの話は何度も聞かされましたが、何度聞いても飽きない内容でした。ザアカイは背が子供のように低く、イエス様が見えない、それで先に走り、木に登って、イエス様が通るのを待っている、賢くて、熱情溢れる人の話です。この話を聞いていますと、まるで自分がザアカイになったような気がしていたのを覚えております。今日は待降節の第1週目となります。イエス様が再びこの世にいらっしゃることを思いながら待ち望む時期です。世の中の人々も何かを期待しながら、それが経済的豊かさであり、健康であり、現状維持でも待ち望む人が大勢いらっしゃると思います。何を待ち望むかは人それぞれだと思いますが、私たちキリスト者はイエス様を待ち望む人でありますが、それはどのようなことでしょうか。今日の聖書を通してご一緒に考えたいと思います。

 これまで自分にとってこのザアカイの話は幼頃の物話、別の言い方をしますと幼稚な内容だと思い込んでいたところがあります。それで説教に取り上げることが殆どありませんでした。しかし、この考え方に間違いがあったことをつい最近発見しました。この話こそ大人の話であることに気づいたのです。この話こそがおかしくなった現代社会を変える内容で、この話こそが本当にイエスを待ち望む人のための教えであることに気づきました。

 この理解を手伝うために後二つの箇所を読ませて頂きたいと思います。先ず、前の頁ですが、ルカによる福音書18章18節から23節です。「金持ちの議員」と小見出しがついています。

18ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。19イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」21すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。22これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」23しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 もう一箇所は同じ頁の18章の9節から14節までのところです。小見出しに『「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ』と書いてあるところです。

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 この三つの話はそれぞれ別の話のように見えますが、よく読んでみますと実は深い関係があるのではないかと考えております。その内容を検討してみることにします。

 先ず、最後に読まれたところこそ、この三つの話の序文のような話です。祈りにたとえられた話ですが、自分の行為が誰よりも正しく思って祈るファリサイ派の人と、自分がどれほど足りない人間であるか謙虚に祈る徴税人のたとえです。実は、ここに登場する二種類の人を具体的に語ったのが、今先読まれました一つは「金持ちの議員」の話であり、もう一つが「徴税人ザアカイ」の話であると考えられます。すなわち、ザアカイのたとえ話を理解するためには金持ちの議員の話を並行して読まなければならないと思ったのです。二つの話は全体が対照的に似ている内容です。そして、序文の祈りの内容とほぼ変わらない内容が書かれています。金持ちの議員は律法を全て守り、世間の人々から尊敬を受けていました。しかし、ザアカイは背が低く、罪深い男で描かれています。そして、この議員さんは永遠の命を求めていましたが、ザアカイはイエスに出会っただけの喜びで子供のようにはしゃぎます。二人が求めているのも非常に対照的です。

 そして、ザアカイの話は他の福音書にはなくルカによる福音書のところだけ書かれています。結局、ルカの独自の内容であるこの話がこの三つの話の結論であり、クライマックスであり、ルカが本当に言いたいところでではないかという思いがします。  この結果はまるでマタイによる福音書の25章31節以下の最後の審判の内容と非常に似ています。議員は永遠の命を求めてイエスに尋ねてきました。しかし、彼は落胆して帰るようになります。それと反対にザアカイはイエスを一目したという望みだけでしたが、救いを得ました。

 そして登場する人物をみますと、二人とも今風に考えますと国の官僚のような者です。一人は議員であり、もう一人は税務公務員です。二人がどのように金持ちになったのかについては書いてありませんが、二人がイエスを求めていたのは事実です。しかし、議員の方はそれまでの自分の正しい生き方を認めてもらい、さらには永遠の命も得ているのを確認したかっただけの話です。イエスそのものには関心もないように描かれています。この話とは対照的にザアカイの場合は永遠の命という考え方は最初からありません。イエスを一目することにしかありませんでした。

 議員は尊敬され、ザアカイは憎まれる存在でした。このことは簡単な話のように見えますが極めて重要なことです。議員のように自分の都合良いところだけして、責任ある考え方や働きをしない人は憎まれません。この国の議員さんのように。しかし、責任も持って何かしようとする人は風当たりが強くなります。そう言った意味で教会も世間からザアカイのようにある程度憎まれていた方が良いと思います。代々木上原教会に9条の会があるのは結構風当たりが強いのではありませんか。教会が格好だけつける時代は終わっています。憎まれなければならないと思います。

 ここからが大人の話になります。この二つの話の重要だと思われる共通の概念があります。一つは「金持ち」という言葉です。この「金持ち」の対照となる「貧しい人々」という言葉が両方で重要な位置を占めています。この金持ちや貧しい人々の話は子供の話ではありません。大人の話です。この言葉を先、私は概念と申しました。即ち、現代の学問では社会・経済学の部門で最も重要な概念です。私自身は、以前から福音書は社会科学の分野であると考えております。当時は社会科学のような学問や概念がありませんでしたが、この二つの概念だけでも立派な社会科学的概念です。このような言葉は福音書に無数に書かれています。

 関連するところを見てみましょう。先ず、議員のところを見てみます。18章22節です。

これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 次に、ザアカイです。8節です。

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

 二つの話の中で「貧しい人々」に対する立場が異なっています。どこが違うのでしょうか。金持ちの人にイエスに「貧しい人々に施しなさい。」と言われました。ザアカイは「貧しい人々に施します。」と自ら考え言いました。人に言われるか、自ら言うのかの問題でしょうか。その言われるか先に言うかの順番だけではなく、それは求めている、見ているところが違うという話です。 議員には自分のためのさらなる進展を見ていたのです。議員はきっと富だけでなく、名誉の使い道も知らなかったと思います。彼には現場がありません。常に高い所しか見て歩かなかったので、社会で貧しい人々がいかに苦しんでいるのかが見えないからです。 しかし、ザアカイの人には「貧しい人」が見えていました。少なくとも彼は現場で働いていました。人々の台所のお箸の数までよく見ていました。景気というのにも敏感でした。議員のように誰かしなければならない役割を担っていました。話は彼が如何に誠実に働いていたのかを紹介しています。
それが何とイエスの見ているところと同じ所を見ていました。イエスも待ち望む人でした。この世の貧しい人と金持ちの人が一緒に分かち合えることを。

 このように聖書を読みますと、現代の問題と全く同じような感じがします。「貧しい人に施しなさい」という言葉の裏には「格差」の問題が隠されています。その問題をどう解決するかが重要な課題なのに、今の議員さんたちは貿易自由化や軍事国家などの発想しかないわけです。ますます金持ちが豊かになり、自分の財産と身を守るために法律を整えているのです。ザアカイはイエスがどこに関心を持っているのかを読んでいたと思います。イエス自身は「貧しい人」社会的弱者に極めて高い関心を持っていました。別の言い方をしますと社会的に弱い隣人に目を向けることを言っているのです。共に救われることを望んでいるのです。非常に社会学的な視点も持っていたと考えられるのです。

 どちらが本当の出会いだったのか。それはザアカイです。こうやって皆さんとはじめにお会いしましたが、この中で何人かの方のお名前は覚えております。しかし、他の方は失礼ながらお名前を覚えておられません。聖書には議員の名前は載っていません。
 今日の内容はアドベントを迎え、キリスト者として待ち望むことについてもう一度考えさせる大切な教えだと思います。


 
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