2015.11.15

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「被造物は虚無に服して」

秋葉正二

創世記12,1-4a; ローマの信徒への手紙8,18-25

 ユダヤ教の黙示文学には、人間の罪悪が天変地異を引き起こし、ついにはこの世の終りが来るといった考え方があります。外典のエズラ書などにそれが見られます。では、終末が来るとどうなるのか。万物はすべて新しくされ、自然の秩序はかつてのエデンの園のように元来の姿に改まるというのです。黙示文学によれば、現在の歪められた自然の姿は終末と共に一掃され、新しい創造の業により新しい自然に生まれ変わるということになります。こうした見方がイエスさまの中にもあるのかと言いますと、どうもないように思えます。人間の罪が自然を巻き添えにして、災害や天変地異が起こるといった考えはどうも見られないように思うのです。おそらくイエスさまは、自然の災害を、罪や悪といった事柄とは結びつけて考えてはおられなかったでしょう。同時に、人間と自然とを対立的に捉えるような考え方も希薄だったと思います。

 たとえば有名なルカ福音書の12章24節以下にある弟子たちに思い悩むなと諭されている言葉を思い出してみてください。あの『栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった』という箇所です。そこにはこうも書いてあります。『烏(カラス)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏(カラス)を養ってくださる…………』。わざわざユダヤ教で汚れた鳥と見なされていた烏(カラス,レビ11,15)を引き合いに出して、人が見向きもしない鳥や雑草に神さまの保護を見て取られたイエスさまには、鳥や草が生命として自分となんら変わらないものであることを感じ取る感性があったのではないでしょうか。

 20世紀の終り頃から地球規模での自然破壊や環境汚染を生み出してきた背景としてキリスト教の自然観がしばしば批判されてきましたが、それは人間を自然の支配者と見る天地創造物語の一つの解釈に基づいたものでした。その結果、これからはキリスト教に根を置く西洋の世界観を放棄して、自然と人間を二元論的に見ない東洋思想に期待しようという主張がかなり聞かれました。かなり乱雑な主張だとは思いますが、創世記の解釈によっては成り立つ主張です。けれども創造物語にある『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』という表現に出てくる「支配する」という言葉は、秩序を保持する責任を負うことを意味しているのだと、月本先生などが創世記の注解で説明してくれています。

 こうしたことを考え合わせると、イエスさまの自然観には、「自然の支配者としての人間」という発想はなかったのではないかと思うのです。そこできょうのテキストを読みますと、パウロもまた自然と人間を対立的には捉えずに、むしろ同じ神さまの被造物として見ていたのだな、と気がついたのです。目に見えない神の性質を人間は自然を通して理解できるという自然神学の立場がありますが、パウロはそれだけでは不十分で、創造者としての神さまと被造物としての自然を明確に認識しなければダメだ、と主張しています。そのことを同じロマ書の1章21-23節で言っています。ちょっと読んでみます。『なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです』。……

 こうしたことを念頭に置いてきょうのテキストを読んでいくと、理解しやすいと思います。実はきょうのテキストの前の箇所で、パウロは霊の下における生というものは、キリストの栄光をやがて共にする希望の下で、今キリストと共に苦しむ生なのだ、と語っていますが、きょうのテキストはこのことを受けて語られているのです。即ち、「現在の苦しみ」と「将来の栄光」がコントラストをなすように、しかし決して比較できないものとして語られています。そして18節はきょうのテキストのテーマの宣言ともいうべきものです。続くその後の19-22節では「被造物全体」が、さらに23-25節では「信仰者」が言葉にならない切なる呻きのうちにその待望に生きているのだということが、神さまの救いの約束の確かさとして語られています。

 私がとりわけ印象深く感じたのは、まず第一にこのテキストでは、人間と自然とが共に苦しむ仲間として理解されている点です。パウロは「キリスト者が希望を抱きながら、しかし現実の苦難の中で呻いて生きている…………それと同様に被造物も“共に呻いている"と捉えています。これは私たちにとっても動物や自然にとっても、大きな慰めではないでしょうか。人間が今の苦しみから解き放たれる時を待ち望んでいるように、自然もまた、解放の時を待っているというのです。言うなれば、苦しみにおいて人間と自然はつながっていて、一緒に解放をも分かち合う仲間だというわけです。ですから私たちは信仰を考える時、自然や動物のことを忘れてはならないでしょう。それゆえキリスト教では自然環境というものが視野に入っていない、という指摘はあたりません。くれぐれも私たちは人間中心主義に陥ってはならないということです。もっと言えば、人間中心主義に陥ることなく動物や自然に対する私たちの責任を果たすということになります。もし人間が中心になって動物や自然との共生を進めることができるなら、そのために積極的に行動を起こす必要があります。

 「被造物が虚無に服す」というパウロの言葉に触発されて、私はアルバート・シュヴァイツァーのことを思い出しました。「水と原生林の狭間で」とか幾つかの著作と共に、彼が書いた自伝を思い出したのです。そこにはとりわけ動物に対するシュヴァイツァーの優しさが述べられており、私は大いに共感を感じたのです。

 私事になりますが、私は結婚してから犬を2頭飼いました。最初の犬は母が飼っていた犬で、ポメラニアンという犬種の小型犬です。9年間、子供たち生まれてから小学校生活を送るようになるまで、情操教育上大きな役割を果たしてくれました。二頭目はシベリアン・ハスキーとゴールデン・リトリーバーの一代雑種の大型犬です。子供達はもう高校生になっていましたので、この二頭目は私たち夫婦にとって12年間一体となって生活してくれた犬でした。この犬達との生活体験は、私たちにとって自然や動物との共生の問題を考える上で大きな意味を持ちました。

 シュヴァイツァーの自伝によると、彼は幼い頃から世の中にはなぜ不幸があるのかに悩んだそうです。中でも哀れな動物が苦痛に耐える姿には心を痛めています。ある時足を怪我した年老いた馬が棒で殴られて屠畜場に引かれて行くのを見て、彼は何日も悩んだというのです。また彼は就学前に毎日お母さんと一緒に神さまに祈る時を持っていたそうですが、その際お母さんがいつも人間のためだけに祈るのに納得できず、自分で後でこっそりすべての動物たちへの祈りを付け加えたそうです。そうした感性は後に「生命への畏敬」という彼独特の倫理思想に結実したと私は勝手に理解しています。アフリカのランバレネの原生林の中で、一枚の葉もむしり取らず、花を折ることもせず、蚊が腕にとまっても叩いて殺さず、虫を踏みつぶさないように歩いたという徹底した倫理的生き方を貫いた秘密が私は幼い時の経験が関係していると考えています。これは神学というような思想、理屈とか理論ではなく、彼の感性の問題でしょう。なぜこんなことを言うかといえば、シュヴァイツァーの感性は私たちの信仰に深く関わっていると思うからです。

 私たちは終末とか希望という言い方で、キリスト者として将来の栄光を忍耐して待ち望みつつ生きています。しかし動物や自然との共生を果たすために、実際どのように生きるべきかを問えば、答えはそう簡単ではありません。何と言ったらいいのか難しいのですが、自然や動物との共生を考えることは、私たち人間が神さまの前で、どうやったらみ旨に適うように生きることができるかという問題でもあるのです。私たち人間を支配するのはエゴイズムです。このエゴをどうやったら克服できるのか、私たちは信仰生活を送る中で問われ続けます。イエスさまもいろいろな箇所で指摘されるように、おそらく人間はエゴを自分で乗り越えることはできないのです。その問題に光を与えてくれるのが、神さまが私たちの罪を赦してくださって救ってくださるという信仰に他なりません。人間は神さまの前に立たされて初めて自分の本来の姿に気づき、自分の身の程をわきまえることができます。神さまの前に立たされて、自分の姿が見えるようになって初めて自分のエゴを適切にコントロールできるようになるのではないでしょうか。

 すべての被造物を創造された創造主である神さまを信じることは、この大自然の世界への共感や畏怖心を失いつつある現代人にとって、自らの限界や己れの矮小さを自覚することでもあります。ですから人間が心底創造主なる神さまを信じた時にのみ、本当の意味で人間は謙虚になれると思います。現代は政治の世界も経済の世界も、そういう大事なことが失われてしまいました。イエス・キリストの生きる姿を通してのみ神を知ることができるというのが聖書の示すところですが、人間は神さまに喜ばれるように生まれ変わることができるのです。キリスト教はそこに人類の未来の可能性を見ています。この真理を世にアピールすることは私たちの責任でしょう。他人のことを思えば思うほど、自然や動物のことを顧みれば顧みるほど、私たちは人間の可能性を信仰の目を通して仰ぎ見て、その責任の大きさを感じます。

 現在の苦しみは、将来私たちに現される栄光に比べると取るに足りません。使徒パウロが示してくれたように、私たちは目に見えないものを望んで、忍耐して待ち望みたいと願うものです。祈りましょう。


 
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