2015.11.1

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「七の七十倍までも赦しなさい」

秋葉正二

ダニエル書9,18-19; マタイによる福音書18,21-35

 イエスさまの譬え話から学びます。テキスト全体の構造は、3段構えで、最初にイエスさまとペトロの対話があり、次にイエスさまの譬え話が出てきます。最後に教訓が示されて結論となります。説教題にもある通りテーマは「赦し」です。

 イエスさまの言葉に出会うと、いつもそうですが、あらためて凄い物言いだなあと思います。さて、最初は弟子ペトロのイエスさまへの質問です。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか』。

 ペトロは親の代からの漁師でしょうから、彼が無学文盲だと思っておられる方がいらっしゃるかも知れませんが、そうではありません。漁師ですから貧しい暮らし向きで低い階層であったとは思いますが、当時の状況から、幼い頃からユダヤ教の会堂で結構勉強していたと思われます。「使徒言行録」には彼の大説教が記録されていますし、演説や説教を読んでも相当に教養があったことが分かります。

 シナゴーグの律法教育は、読書力や文章力をつけるのに大変有効だったと言われているからです。ペテロは世襲の漁師ですから親の職業を継ぎましたが、旧約聖書を学ぶ中で、自分でものを考える力も身につけていたはずです。頭は相当よかったと思います。だからこそ筆頭弟子として、キリスト教初期のリーダーとなり得たのですし、イエスさまは彼を弟子に選ぶ際、性格だけでなく、利発さもよく理解されていたでしょう。

 で、ペトロの質問ですが、いささか唐突な印象を受けます。しかし、これは普段からものを考えていないと出て来ない質問でしょう。彼の考える土台は、もちろん幼い時から学んでいる旧約聖書です。当時ユダヤ教には、既にミシュナーのように、ラビたちが旧約聖書を解説した文書がありましたから、ヨブ記33,29などを根拠に、罪の赦しについては2,3回で十分という考え方があったと思われます。ペトロとしてはいささか得意げに、7という旧約聖書の象徴数を提示しながら質問をぶつけたわけです。

 しかし、いとも簡単にイエスさまは彼の質問をバッサリ切り捨てています。『7回どころか7の70倍までも赦しなさい』。きっとペトロの頭の中には、「イエスさまだったら7回くらいは許せと言われるだろう」という読みがあったのかも知れません。しかし7回どころか途方もない数字が示されてしまいました。ここで7の70倍だから140回かと、計算する必要はないでしょう。イエスさまのお言葉は、回数を無意味にする、いわば無限の赦しであったからです。無限の赦しと言えば、イエスさまは十字架上で、自分を十字架につけた人たちに対してとりなしの祈りをされているのですから、身をもって無限の赦しを実践されたわけです。私たち人間の生きる意味はその十字架に負っているのですから、無限を口にできるのは神の子たるイエスさましかいないのです。

 さて譬え話ですが、王と家来の話です。設定はあくまでも王と家来の関係で、一般民衆同士のお金の貸し借りではありません。民衆同士ならば、例えば借金の返済不履行ということなら、裁判に持ち込まれて調停なり判決なりが降されます。ところが話は王と家来ですから、王の前に連れて来られること自体が、既に裁判所の役割を果たしていることになります。家来の借金は1万タラント、これはもう途轍もない金額です。歴史家ヨセフスが著した「ユダヤ古代史」という本があるのですが(邦訳もあります)、それによればヘロデ大王の長男アケラオがユダヤ・イドマヤ・サマリアの統治を相続した際の年収が600タラントとありますから、1万という数字がいかに現実離れした数字であるかが分かります。まあ現実にはあり得ない額と言ってよいでしょう。譬え話というのはこういう便利さもあります。

 そこで、王を神さま、家来を人間と考えると分かり易いでしょう。これは、王が家来に貸した他の何をもってしても代替のきかない命のことを指しているのだ、と注解書は解説してくれます。そこでこの話を今読んでいる私たちは、私たちなりに一体何が言われているのだろうか、を考えてみなければなりません。皆さんの生活は知りませんが、おそらく大抵の人は借金なしで生活されているでしょう。私たちは自分には負債はないつもりで生活しています。しかしイエスさまの譬え話に照らし合わせると、「実はそうではありませんよ」と指摘されているのではないでしょうか。タラントというお金の負債の話からは、すぐに具体的な借金を連想しがちですが、おそらくイエスさまはお金以上の負債の問題に触れておられるのです。お金の問題ならば、昔も今もトラブルが起これば常識に基づいて解決が図られます。法律上の規定といったものはその代表です。しかしイエスさまはそういうことを言おうとされているのでないことは明らかでしょう。

 例えばですね、私たちの周囲にはいろんな意味で困っている人たちが沢山います。もしかするとお隣の家が困っているかも知れません。でもその事実を私たちが知らなければ、私たちの心は少しも痛みません。隣に困った人がいるのに何もしないということは、実は負債を負っていることではないのか、そんな問いかけをイエスさまから受けている気がするのです。知らないのだから仕方ない、負債はない、と私たちは考えるのですが、そう言い切ってしまってよいかどうか、なかなか判断が難しいところがあります。人としてこの世に生きる以上、私たちはもし自分にちゃんとした職業が与えられているならば、失業している人たちに負債がある、と考えなければいけないのではないか………そういう問題が出てくると思うのです。

 今の若い世代の就職は大変です。4割近い人たちが正規雇用されずに働かなくてはなりません。非正規就労ですと、福利厚生の恩恵には与れませんから、結婚もできない方たちが大勢出てきます。非正規就労の人たちに対して正規就労の人たちはまったく責任がないのでしょうか。私はないとは言い切れないと思っています。常識的に言うならば、多分責任はない、負債はない、と言えるでしょう。困っている人がいたとしても、知らないのですから責任はない、と言ってよいでしょう。けれどもそれでは同じ世を生きる者同士としてあまりにも空しい気がするのです。イエスさまはこの譬え話をもって、そうした人間の常識の世界に風穴を開けておられるのではないでしょうか。自分が気づいていないということは、自分に責任がないということではありませんよ、と問題提起をされているのだと思います。

 言い換えると、金銭問題のような法律上の負債を例に挙げて、私たちの神さまに対する負債の問題を取り上げられたのではないだろうかと思うのです。人間には良心があります。良心は自分の中の自己意識ですが、この自己意識がいつも自分を監視してくれて、悪い心を抱くとそれを攻撃してくれるので、私たちは神さまの前に面目を施すことができているわけですが、良心とはいえ、それはあくまでも自己意識ですから、自分に対して肝心な時に甘くなることが避けられません。つまり、良心といえども、この私の罪をすべて計算してくれるのではないことを、イエスさまはある意味冷徹に指摘されていると思うのです。

 これをきょうのテキストに当てはめれば、私たちは本来ならば、王の前に引き出されて1万タラントンを返しなさいと命令される立場なのです。でも運良く王に許されてしまうと、債権者である自分に負い目のある債務者に出会った時、自分が王から許されたことはすっかり忘れて、とんでもない無慈悲な行動に出るかもしれない存在なのだ、ということをイエスさまが明らかにされておられるのではないでしょうか。知らないから負い目はない、と割り切って考えるだけならば、この世の中で人が一緒に生きて行くということはできなくなるでしょう。借りたものは返さなくてはなりません。これは約束だからです。私たちは普段の生活の中で、自分が神さまから許されて生きていることをどのくらい意識しているでしょうか。

 私たちの多くは、これといった苦しみや悲しみもなく、憐れまれる必要もないと思いながら生きているのかも知れませんが、本当は神さまの目が、イエスさまの憐れみの目が、注がれているのです。私たちが気づいていないところで、その憐れみによって1万タラントンという途方もない額の負債が免除されるという出来事が起こっています。イエス・キリストの十字架というのは、そういう内容を含んでいる出来事です。私たちは「主の祈り」をささげます。「我らに罪を犯す者を我らが許すごとく、我らの罪をも許し給え」といつも祈ります。その「罪」という言葉は「負い目」とも訳せる言葉です。マタイ6章の「主の祈り」では、ですから“負い目"と訳されています。そこにはこうあります。『わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように』。

 神さまから赦されているだけで、人を赦さないならば、その人は結局赦しの恵みを失ってしまうのではないでしょうか。人生を心の張りをもってバリバリ仕事に励むように生きたとしても、人を赦さない人間は最後には滅んでしまうのではないかと心配です。私たちの良心を解放してくれるのは、神さまの恵みの力だけです。

この恵みの力は、「罪の赦し」という形をとって、働きます。これはイエス・キリストの福音の中心なのです。神の存在を認めるだけではダメです。神さまが自分の罪を赦してくださっている、これを確信して初めて信仰はその本来の意味と力を発揮します。祈りましょう。


 
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