2015.10.18

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「ナザレから何か良いものが出るか」

秋葉正二

創世記28,10-15; ヨハネによる福音書1,43-51

 イエスさまはガリラヤでの新しい活動を開始するにあたり、お弟子さんを選ばれました。選ばれた弟子の立場から言えば、イエスさまに出会ったのです。ですからイエスさまとの出会いがいくつか起こって、弟子たちと呼ばれる集団が生まれました。中でも強烈な出会いを体験したのが後に12弟子と呼ばれるような人たちです。ヨハネ福音書によれば、最初にイエスさまに出会ったのは洗礼者ヨハネの弟子の一人アンデレです。彼は自分の兄ペトロをイエスさまに引き合わせました。最初の弟子二人の誕生です。32-42節にその経緯が描かれています。きょうのテキストはその流れの中で起こる次の弟子たちとの出会いです。唐突な印象を受けますが、イエスさまはガリラヤに行く途中でフィリポに出会われます。

 彼も「わたしに従いなさい」と言われて弟子になります。そしてこれまた唐突な感じですが、彼はナタナエルに出会って、「モーセや預言者たちが書いている人に出会った」とイエスさまのことを紹介しています。ここまでの流れの中心はイエスさまと弟子たちの出会い物語、あるいは弟子と弟子との出会い物語と言ってよいでしょう。表面上は偶然の出会いのように描かれているのですが、偶然出会ったというよりは探し求めて出会ったというニュアンスが隠されているように感じます。アンデレは「メシアに出会ったよ」と兄ペトロに言っていますので、イエスさまとの出会いは強烈なものだったと思いますし、フィリポもモーセや預言者を持ち出していますから、これまた強烈な出会いを経験したのでしょう。

 アンデレもフィリポも、イエスさまと出会ってある種の心の高まりを覚え、それを自分だけのものとしておくことができなかったのです。何はともあれ、これらは誰かに語らずにはおられない、そういう気持ちにさせられる出会いです。ここにはイエス・キリストに出会った者は、自分から他者に対してキリストの証人となるという筋道が示されています。キリストがひとりの人から他のひとりへと伝えられていく伝達方法が描かれています。この伝達方法は客観的な知識の伝達ではありません。客観的知識ならば、誰にも分かるような言葉に直して大量に伝達することが可能ですが、イエスさまとの出会った結果生まれた言葉は性質が違うのです。言うなれば、信仰の言葉でしょうか。

 この言葉は人格が関係していて、伝えられる側は主体的にそれを受けとめなくてはなりません。そこでは、主体を抜きにして伝達の言葉が客観化されることはありません。教会はこれにならい、キリスト伝達の方法として、昔からひとりの人から他の人へというやり方を基本としてきました。もっともこのやり方がすべてではありません。先日大伝道集会の案内が届きました。アメリカからビリー・グレアムの息子さんが来日して武道館で大集会を開くというお知らせでした。私はバプテスト教会の出身ですから、高校生の頃からそうした伝道大集会に参加した経験があります。今回の案内は会場が武道館ですから、1万人以上を対象としているのでしょう。

 私は昔横浜球場の横にあったチャペル・センターとか後楽園球場とかの大伝道集会に参加した経験があるのですが、どうも体質的に合いませんでした。説教者のメッセージが終わった後、悔い改める方はどうぞ前に集まってくださいと促されるのが苦手で、どこか作為的なものを感じてしまうのです。もちろんそう感じない人もいるのですから、それはそれで結構です。で、考えて見れば、こうした大集会・大衆伝道方式は伝道手段を効率的に割り切って実施しているのですね。一つの大集会を実施するにあたり、五百万とか一千万とかの予算が組まれ、この予算配分に従い、いろんな組織を動員して、マスコミも利用するという大量伝達手段です。

 この発想からすればひとりの人から他のひとりへというやり方は随分効率が悪いように映るでしょう。しかしイエスさまが最初に示されたキリストを伝えるやり方は、マスコミがなかった時代とは言え、ひとりの人から他のひとりへでした。どういう福音伝達の方法を選択するかは、教派や人により様々です。教団の教会は一人から一人方式を基本にしているところが多いのではないでしょうか。私たちの教会も基本的スタンスは一人から一人方式だと思っています。私はきょうのテキストなどを読む限り、やはりこの方式が一番いいかなと考えています。音楽集会などを開くにしても、教会堂が会場ですから、参加人数は高が知れています。やっぱり基本が一人から一人方式だということなのでしょう。

 ところでテキストに戻りますが、イエスさまはフィリポに出会って、彼をすぐに弟子にしました。彼はペトロやアンデレと同郷で、ベトサイダの出身です。わざわざベトサイダ出身と記すには意味があると思います。と言うのも、ルカ福音書の10章13節以下にこうあるのです。イエスさまの言葉です。『ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む』。つまり、ガリラヤ湖畔の漁村であるベトサイダ村は、不信仰の町、呪われた町として知られていたのです。

 そういう縁起でもない村から、イエスさまはまったく自由に選び始めたということになります。そしてフィリポがまた友達のナタナエルにキリストを伝えるのです。イエスさまを紹介されたナタナエルの言葉は当時の地域に関する風聞をよく伝えています。『ナザレから何か良いものが出るだろうか』。ナザレはご存知のようにイエスさまが育たれたガリラヤの村です。旧約聖書にも出て来ないほどの辺境の村と言ってよいでしょう。このナタナエルの言葉には、北のガリラヤと南のユダヤという単なる地理的な意味の対立だけでなく、象徴的な対立関係が暗示されています。

 イエスさまは都エルサレムに近いベツレヘム生まれのユダヤ人ですが、ユダヤはイエスさまにとって元来故郷であるはずなのに安住の地ではないことがそれとなく示されています。ヨハネ福音書は最初からガリラヤとユダヤの対立構図を浮き上がらせている、と言ってもいいでしょう。ガリラヤの方が安全ですよというニュアンスです。ナタナエルは「ナザレのような辺境からメシアが出るなんてことはないよ」と言っているわけです。ナタナエルは当時の風聞に従ってそうした言葉を吐いたと思いますが、冷静に考えるとこれはナタナエルの独断的偏見ということになるでしょう。これは人間が陥りやすい中央指向という偏見です。

 現代の日本でも同じことが言えます。私は「教団核問題連絡会」という脱原発活動体の書記を長く務めていますが、先日会報である「交流紙」21号を発行しました。その中である方が書いておられます。なぜ原発は地方に建つのですか? 電気を大量に使うのは大都市ではないですか。大都市よりも私たちの住む地方は価値がないのですか?……。この答えは簡単です。大都会のエゴなのです。危険性がある原発が人口が多い大都市にあるのは嫌なのです。そういうものは田舎へ行ってもらおうという大都市が中心と考えている中央指向性が露骨に顔を出しているのです。最たるものは私たちが住んでいる東京でしょう。日本の中心は東京である、すべての良いものは東京にあり、東京から出る……そんな独断的偏見が多くの日本人の心を支配しています。いくら田舎がいいなあ、などと言っても、本心はやはり東京なのです。

 ですからナタナエルは正直な心のうちを吐露したのでしょう。『ナザレから何か良いものが出るだろうか』。ガリラヤ、ナザレは蔑視の対象です。ナタナエルの言葉を聞いてフィリポは言いました。『来て、見なさい』。39節でアンデレに『来なさい。そうすれば分かる』と言われたイエスさまの言葉が、そのままフィリポの口から出ています。つまり、信仰を与えられるにはそうするしかないのです。イエスさまの所へ行って、自分の目で見る以外に方法がないのです。たとえ誰かからイエスさまのことを聞いたとしても、結局は自分で行って自分で見て確かめるしかありません。イエスさまはナタナエルが自分の方へ来るのを見て言われました。『見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』。イエスさまはそうナタナエルを称賛しました。

 ここにはイエスさまとナタナエルの出会いが描かれています。ナタナエルがイエスさまの真相に触れる前に、イエスさまの方がナタナエルに弟子としての真実の姿を見抜かれています。ナタナエルという人物についてはバルトロマイと同一人物だろうという説もありますが、他に記述がありませんから私たちには彼の人なりが分かりませんけれど、彼はイエスさまと理想的な出会い方をしたのでしょう。私たちはどなたかに対してイエスさまを紹介することができますが、イエスさまと出会えるかどうかは本人の問題なのです。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の身体で確かめてみる、それがイエス・キリストという真理を知るためには不可欠です。

 『来て、見なさい』という言葉は今日でもイエスさまが私たちに向かって呼びかけてくださっている声です。偏見や固定観念を取り払って一歩を進めれば、きっと新しい世界が開けます。イエスさまとの思いがけない出会いもあることでしょう。


 
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