2015.10.11

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「病気と罪からの解放」

秋葉正二

レビ記24,13-16; マルコによる福音書2,1-12

 歴史のイエスさまを回想するために、マルコ福音書以上のものはないのではないでしょうか。 ガリラヤ地方で教えを宣べ伝え始められたイエスさまが、病人を癒したり、悪霊を追い出されたという噂が広まると、多くの人々がイエスさまのもとに集まってきたようです。 普段は神さまのお世話になんかならなくても自分でやってゆけると考えていても、いざ病気になったり、自分では解決できない問題にぶち当たった時、人々は人間を超えた力にすがろうとするものです。 現代は科学の時代ですが、何百万という人々が一年の無事を願って初詣に出かけたり、受験生が天神様のお守りを身につけて入学試験に臨んだりするのを毎年見ていると、科学では解決できない現実があるのだな、とつくづく思います。 宗教も同様で、病気を治したりいろいろなご利益を約束する新興宗教はいつの時代にも必ず現れます。

 人間というのは、いつ何が起こるか分からない世の中を生きてゆくのに、何か人間を超えた力を心の支えにしていないと、不安でやり切れないようです。 イエスさまの周りにも多くの人々がそうしたご利益を求めて集まりました。 現代のように医学が発達していない時代ですから、病気を治してもらうためには宗教以外になかったのでしょう。 もし病気が重ければその願いは切実だったと思います。 イエスさまはそうした願いを持って集まってきた人たちを、決してお見捨てにはなりませんでした。 重い病気は自分で治すことが困難です。 どうすることもできずに苦しんでいる人々を、イエスさまは深く憐れまれて、病気を癒されました。 ですから福音書にはイエスさまがなさったいろいろな奇跡が記されています。 それは言わば、神の国が近づいていることの具体的なしるしでした。

 マルコ福音書の1章21-45節にはその奇跡物語が多く収録されています。 きょうのテキストはその後に続く一連の論争物語の始まりの部分です。 小見出しにあるように「中風の人をいやす」物語ですが、イエスさまは中風の人を癒す前に、罪を宣言されています。 病気を癒す奇跡物語の中に、罪を赦す権威に関する論争が挿入されているのです。 何と言いますか、一つの伝承の中に他の伝承がサンドイッチのように挟まれる構造になっています。 これは著者マルコの編集上の作業だと思われますが、この作業によって物語全体が論争調になり、奇跡はイエスさまが罪を赦す権威を持っておられることを証明する役割を担うようになります。 全体の流れを見てみましょう。 イエスさまはカファルナウムの町に帰って来られたのですが、ペトロの家かどこかに泊まられたのでしょう。 イエスさまが帰って来たと聞いた沢山の人たちが集まってきます。 なんと戸口の辺りまですきまもないほどになったというのですから、人の出入りができなくなっている状態です。 イエスさまは家の中で集まっていた人々に話をされていました。 すると屋根に穴が開けられて、中風の病人が寝かされたまま吊り降ろされたのです。 中風患者を運んできた4人の男が 予想もできない行動に出たのです。 病人を寝かせたまま天井から吊り降ろしたというのですから、尋常ではありません。 患者の病気は中風と訳されていますが、病名は特定できないようです。 半身の付随、あるいは腕や足の麻痺している何かの病気なのでしょう。 それにしても、そこにいた人はさぞ驚いたと思います。

 イエスさまも驚かれたとは思いますが、意外なことを言われました。 この行動に打って出た人たちの信仰を見て、中風患者に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われたのです。 そこには律法学者が数人座っていました。 ということはこの律法学者もイエスさまの噂を耳にして様子を見に来たのかも知れません。 彼らはイエスさまの言葉にすぐ反応します。 心の中で考えたとあります。 「そんなことを口にするなんて、神を汚すことじゃないか。神ひとりの他に、誰が罪を赦すことができるんだ」というわけです。 イエスさまは彼らの心を見抜かれました。 そしてこう言われます。 9節です。 『中風の人に“あなたの罪は赦される”と言うのと、“起きて、床を担いで歩け”と言うのと、どちらが易しいか。』 あえてそう言われたのは、律法学者たちの無知と不信仰の眼を開くためでしょう。 すなわち、イエス・キリストに身を委ねることによってのみ、人の罪が赦されて神さまに帰ることが出来ることを知らせたのです。 イエスさまは罪を赦す権威を持っておられることを示すために癒されたのです。 律法学者たちは、罪を赦すということが目に見えないことなので、それよりは具体的な病気を癒すことの方が、神の権威を表わすだろうと考えていたのでしょう。 イエスさまはそこを突かれたのです。

 この中風の人が病気になった原因は何だったのでしょうか。 日頃の不摂生が祟ったのか、あるいは過労が重なったのか……何か分かりませんが、はっきり分かることは、私たち人間は、中風でも何でも、何かの病気によって死滅する肉体を持っているという事実です。 病気と信仰の関係を考える時には、まずこのことを最初に意識するべきです。 別な言い方をすれば、神さまと正常な関係にない我々にあっては、我々の霊魂は言うに及ばず、肉体もまた必ず死滅するということです。 どんな信心をなそうが、私たちの肉体は必ず滅びます。 この自覚がしっかりないと、何かの「罰」によって病気になったなんて言われると、すぐ惑わされてしまうのです。 その結果、迷信や邪教に走るのも珍しくありません。

 イエスさまは中風の患者に向かって、『子よ、あなたの罪は赦される』とおっしゃったわけですが、この「罪」というのは勿論不摂生とか過労、あるいは何かの「罪」のことではありません。 神と中風の人との関係が正常ではないという意味です。 ですから、『罪は赦される』という意味は、この人が4人の男に担がれて、屋根に穴を開けてまでイエスさまを信頼し、自分の身を委ねたということで、「あなたと神さまとの関係は正常になりましたよ」という宣言です。 イエスさまを信頼して、自分の身を委ねることによって彼と神さまとの関係は正常にされたということです。 もしその際に病気そのものが癒されなかったとしても、肉体が健康であった時とは全く質的に異なるそれ以上の平安と喜びが、この人には与えられたのです。 あえて言えば、病気が治っても治らなくても、信仰の世界で私たちは平安と喜びに包まれることができるということです。 私たちはこの信仰の世界の奥義を、しっかり知っておくべきだと思います。 この中風の人のように、イエスさまに自分の一切を委ねることによって、神さまとの正常な関係にされ、神さまを「天の父なる神さま」と呼びえる人間に変えられて、平安と喜びのうちにこの世の生活を送れるのです。 それは肉体の病気が癒されるとか、癒されないとかの問題をはるかに超えています。

 イエスさまはおそらく信仰の秘儀に触れられたのです。 中風の人は『起きて、床を担いで歩け』と言われた時、すぐに起き上がって、床を担ぎ、皆が見ている前を出て行きました。 つまり、信仰とは、神さまの言葉を聞いた時、これを素直に受けて、信じて行動することだと思います。 信仰を与えられた人の周囲には信仰的雰囲気のようなものが生み出されるのではないでしょうか。 きっとそれが教会で言うコイノニア・交わりが意味するものだと思うのです。 人間の環境構成の最大の要因は人格だと考えますが、信仰的人格による信仰的空気が教会にも家庭にも職場にも、あるいは社会全体に溢れるようになったら本当にいいなと思います。 科学の時代に生きる私たち現代人は、人間の知識や経験を第一に考えます。 合理的な世界に閉じ込められている現代人は、人間の知識をはるかに超えた数字などでは表わすことのできない奇跡というような信仰の世界にはなかなか飛び込めないのでしょう。 結局、自分の力ではどうにもならない困難に出会うと、どんなに考えてもダメなものはダメか、と諦めてしまいます。 しかし奇跡を信じるということは、絶望的な状況の中で、屋根に穴を開けてまでイエスさまのそばに病人を運んだ人たちのように、最後まで諦めないということです。 人間の知識や常識を超えている可能性を信じて、ぶつかっていくことだと思うのです。

 人間の限られた知識によって奇跡を頭から否定するのではなく、人知をはるかに超えた力によって、私たちの人生を支え導いてくださる方に信頼して、希望を失わずにチャレンジ精神を貫いて生きることができたら素晴らしいな、と心から思います。 現代医学はかなりの程度まで病気を癒すことを可能にしてくれました。 しかし罪を赦す権威だけは、十字架上に人間の罪を負って死なれたイエスさまだけが持っています。 きょうの物語はそのことを明らかにするために書かれていると思います。 罪が赦され、神さまと健全な交わりが回復された時に、私たち人間は、心も身体も健全な人としていきることができます。 私たちはつい目先の生活上のご利益を求めてイエスさまのもとに集まってしまいますが、そのような現実の中でも、常に最もよいものを与えようとされている神さまのみ心を見失わないようにしたいと思います。 復活によって永遠の生命を与えてくださっている主イエス・キリストに向かって、ご一緒に祈りましょう。


 
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