2015.9.13

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「剣を取る者は皆、剣で滅びる」

秋葉正二

創世記49,5-7 ; マタイによる福音書26,47-56

 今年度のカンファレンスの主題は「キリストに従って生きる」です。 大きな緊張を抱えた国際社会の中で「キリストに従って生きる」とは何を意味するのか、このことを自由に発言できる雰囲気の中で一緒に語り合いましょう、と案内文にありました。 基本聖句に今日のテキストの中の52節が掲げられていますので、この言葉を軸に「キリストに従って生きる」意味を掘り下げることができたら、と願っています。

 テキストはイエスさまが逮捕される情景です。 他の三つの福音書にも並行記事がありますので、比較しながら読むことができます。 イエスさまを裏切ったのが弟子の一人イスカリオテのユダであったことは、既に同じ章の14節以下に記されています。 銀貨30枚を貰うことでユダは自分の先生を裏切ることを決意しますが、いよいよその裏切りの時がやって来ました。 祭司長たちはイエスさまを逮捕しようと大勢の人々を遣わします。 彼らは剣や棒を持ってやって来たというのですから、逮捕が簡単にはいかないことを予測したのでしょう。 ユダは間違って他の人を逮捕しないように、自分が接吻する相手がイエスその人だと、前もって合図を決めていたと48節にあります。 ユダがローマ帝国からの独立を目指してゲリラ活動をしていた熱心党の一員だったという説に従えば、逮捕をきっかけに一騒動起こそうという魂胆だったかも知れません。

 イエスさまを逮捕しようとする側と守ろうとする側が武器をもってぶつかり合えば、確かに騒乱という事態が引き起こされます。 実際、危うくそうなりかけました。 というのは、イエスさまを引き渡すまいと一人の人物が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかってその者の片耳を切り落としたのです。 51節です。 その時イエスさまが言われた言葉がカンファレンスの基本聖句になっています。 即ち『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』。 ヨハネ福音書によれば、切りかかったのはペトロです。 またルカ福音書によればこの時、イエスさまは『やめなさい。もうよい』とストップをかけた上で、片耳を切り落とされた人物の『その耳に触れて癒され』ています。 ということですから、一触即発の状態がイエスさまの言葉によって一気に静められています。 そのまま放置すれば剣と剣の暴動になる流れを、イエスさまは断ち切ったわけです。 熱心党が考えていたような武力闘争は、イエスさまが目指されていた方向とは相入れなかったということでもあるでしょう。 あるいは、ご自分と一緒に弟子たちまでもが逮捕されることをイエスさまは避けられたのかも知れません。

 さて、イエスさまが口にされた言葉、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」は弟子たちの脳裏にも焼きついたはずです。 イエスさまはその言葉で何事かを教え諭されておられるのですが、「剣」というのはその場で使われそうになった武器であることをまず押さえておきます。 その上で、もっと広い意味を持った象徴的な表現として、剣という言葉が用いられているのではないかとも思うのです。 実際、後の時代にキリスト教界において、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という表現は、戦争拒否のシンボルとして、あるいは無抵抗主義を標榜するものとして、用いられました。

 そもそも剣は敵を斬り殺すために作られる武器です。 江戸時代の日本になぞらえるならば、階級の一番上にいる侍だけが身につけるもので、権力の象徴です。 ですから刀は武士の魂とまで言われて、身分制度の最上階に座る者だけが身につけることを許されていた、そういう類のものです。 ところが太平の世が長く続くようになると、竹光を腰にする侍まで出てきて、「刀にかけて」という表現も、文字通り刀を抜いて勝負するというよりは、「誓って」というような意味合いで使われるようになってしまいました。 戦がなくなってしまう世には必要がない代物になってしまうのが刀だと言えます。 とにかく、剣というのはそうした性質のものです。 イエスさまがあえて「剣を取る者が剣で滅びる」とおっしゃったのは、平和な世界では剣がまったく意味をもたないことをよくよくご存知であったからに違いありません。 剣は使われなければ、ただの物品に過ぎません。 剣が意味を帯びてくるのは、これを使う人が出てくるからです。 私たちが考えなければいけないことは、この剣をどういう人がどういう時に用いるかということでしょう。

 ところで、剣についてイエスさまは今日の基本聖句とは一見相入れないような言葉も残しておられます。 ルカ福音書の22章36節、いわゆる最後の晩餐の際に弟子たちに言われた言葉ですが、『剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』と言われているのです。 文字通りこの言葉を受けとめれば、イエスさまが過激なテロリストだと言われても仕方がないような気もします。 またマタイ福音書の10章34節にもドキッとするような言い回しが出てきます。 こういう言葉です。 『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』。 これらの言葉は伝道に携わる者の厳しい状況を念頭に、それに対する覚悟を要求する文脈の中で使われた言い回しです。 正しい信仰者と言いますか、一生懸命伝道しようとする者には、必ず襲いかかるであろう苦難について、覚悟しておかなければなりませんよと、強く緊張を高めるような言い方をされたのです。

 ですから剣をさやに納めるように言われた言葉とは表現しようとしている内容が、文脈が明らかに異なります。 聖書学者の言うところによりますと、イエスさまが口にされた『剣を取る者は皆、剣で滅びる』という言葉は、イエスさまが初めて使われた言葉ではなくて、当時の格言・諺であったろうということですから、早く言えば、強大な軍事力を誇っていたローマ帝国に対して、いたずらに武器を取って抵抗すれば、その者は必ずやはるかに強大な武器を持っている権力者に懲らしめられるよ、といった意味なのです。

 イエスさまの時代、ローマ帝国のような支配者が強大な軍隊を持って、民衆を押さえ込んで、他国を侵略することは珍しいことではありませんから、そういう支配者が各地で逆らう者を押さえつけるために懲罰的な剣を持って逆らう者を懲らしめるという意味で「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われていたのです。 そうしたことを考えていきますと、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という一見真理を言い当てているような言葉にも、使われ方によっては歴史上のいろいろな恐ろしいことが込められていることにも気づくのです。 とにかく、格言としてのこの言葉には、「権力に楯突いて剣を取る者は、権力の剣にかかって滅びるよ」という意味なのです。 何とも一筋縄にはいかない言葉です。

 そこで、私たちはどういう文脈でこのイエスさまの言葉が使われたかを理解する必要があります。 イエスさまが本来平和を愛されるお方であることを示す言葉は聖書中枚挙に暇がないのですが、イエスさまは人間の持つ闘争心をよくよく理解された上で、この言葉を口にされたのではないでしょうか。 実はそう思わせるヒントが「ヤコブ書」4章1節にあるように思います。 曰く『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか』。 この言葉は私たちがもし剣を取るような時があるとすれば、その際の私たちの心の有り様に踏み込んで来るような言葉だと思うのです。

 私は、イエスさまが「剣をさやに納めよ、剣を取る者は剣で滅びる」とおっしゃったことは、イエスさまがご自分の身柄を祭司長たちが遣わした群衆に委ねられたこととセットで考えなければならないと思っています。 イエスさまは人間が相争う時には心のどこかに争おうという一種の欲望みたいなものがあることを知っておられるのです。 いま巷では「戦争法案」を推し進めようとする勢力があるのですが、彼らの中には武力をもってしか平和は実現できないという確信があるのです。 これが本能的に人間の心に巣食っている闘争心という一種の欲望です。 彼らは、この法案は平和のためだという言い方をするはずです。 彼らがそう言う時、その心にあるのは強さを象徴する闘争心なのです。

 イエスさまは闘争心という強さをもって自分を逮捕してきた群衆に向き合ってはおりません。 その反対に、自分の身柄をそっくり預けるという弱さをもって向き合われました。 剣をもって切りつけてしまった弟子はイエスさまのそうした立ち位置をまったく理解していません。 いわば剣や棒を手にしてイエスさまを逮捕しに来た群衆と同じ土俵に立っています。 同じ土俵に立てば、剣や棒で応戦するということになるのです。 そうではなくイエスさまが「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉で示されたのは闘争心を持つ人たちと同じ土俵で物を考えるなということです。 つまり武器を持つ相手に武器を持って向き合うなというのです。

 イエスさまはその弱さを十字架につけられるという徹底した生き方をもって示されました。 どうして武器を使わずに平和をつくり出すことができるのか、と考える方がおられるでしょう。 その答えは十字架なのです。 十字架刑は人を殺す極限の暴力装置ですが、イエスさまは十字架につけられることをもって、暴力を使うどころか、自分に暴力を振るう者を赦されました。 人間には生きるために支配欲やら所有欲が与えられていますが、原罪を背負う人間は傲慢ゆえにそれを抑制できないのです。 それどころか暴力的になったりします。 その先は戦争にまで繋がって行くことでしょう。 イエスさまは暴力によらず、自分を差し出し、許すことによって敵意や憎悪を滅ぼしました。 これがイエス・キリストの平和構築の方法です。

 このイエスさまの姿勢にならうならば、私たちは軍備の均衡が平和の条件であると考えることをやめなければなりません。 ですから、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉を言い換えるならば、「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」となります。 教会の中にも武器による抑止力が必要だと考える方がいるでしょう。 日本はアメリカの核の傘で守られていると信じている方もいるでしょう。 しかし、イエスさまは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉をもって、「それではいけない」とおっしゃっているのです。

 7月の9条の会で私たちはかつて文部省が出した「あたらしい憲法のはなし」を伸子さんの紹介で学びました。 日本国憲法の前文を思い出してください。 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民と公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあります。 人間が軍備を拡充して自分の財産を守るということではなく、ましてや他者を攻撃するのでもなく、人間同士が愛と尊敬を土台に、相互信頼に向けて努力することがイエスさま流の平和構築の方法です。 この平和への道が、イエスさまの「剣を取る者は皆、剣で滅びる」というお言葉に込められていることを理解したいと思います。 教会はもっともっと強くこの平和への道を発信すべきだと、私は考えています。 

 お祈りします。


 
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