2015.8.23

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「奇跡を超えて」

秋葉正二

イザヤ書35,3-6 ; マルコ福音書7,31-37
 

 テキストは、イエスさまが聾唖の人を癒す物語です。 場所はガリラヤですが、それまでイエスさまはいろいろな地方を回られていたようです。 ティルスからシドン、デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖にやって来られたと書いてありますが、聖書の後ろについている地図ナンバー6「新約時代のパレスチナ」で確かめますと、何とも奇妙な行程です。 地中海沿岸からガリラヤの周囲をぐるっと回って遠回りするようにしてガリラヤに戻る、確かにおかしな行程です。 しかしこれは、おそらくイエスさまの旅の性格によるのだと思います。 イエスさまの旅は伝道旅行とか呼ばれるのですが、どうも目的地を定め、そこで何日間滞在して、何々をしようというような私たちが常識的に考える旅ではなかったのでしょう。 いわば旅そのものが目的で、あらかじめ計画を立てるようなものではなかったと思われます。

 現代で旅と言えば、楽しいイメージですが、イエスさまが旅をされた期間は言うなれば試練の時でした。 神の子として権威に満ちて堂々と各地を巡り歩くならばともかく、異邦人の地を淋しく密かに巡り歩く修業者みたいな旅です。 イエスさまだけでなく、お伴をした弟子たちにとってはおそらく苦痛以外の何物でもなかったでしょう。 もちろんまだご自身のメシア性を人々には告げられない旅でもありました。 そうした状況でガリラヤ湖にやって来ると、人々が聾唖の人を連れてきて手を置いてくださるようにと頼み込んできました。 5章には「ゲラサの豚」の話がありますから、おそらくデカポリスを通り抜けたガリラヤ湖の対岸の異邦人の地で起こった出来事でしょう。

 さて、イエスさまは人々の願いに応じて治療の業をなさいます。 しかし人々の目のある所でそれを行ったのではなく、群衆の中から連れ出したのですから、二人だけになられたのかもしれません。 先ほどまだメシア性を人々に告げられない時期だと申し上げましたが、この時期にはできるだけ奇跡を人目につかぬようにされておられます。 そこにはイエス・キリストの本質が示されています。 つまりキリストとしてのイエスさまは、十把一絡げに人間と向き合うということではなく、私たちと一対一の関係を結ぼうとされるのです。

 33節〜34節にはイエスさまがどんな治療をされたかが書かれています。 『指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして天を仰いで深く息をつき、その人に向かって“エッファタ”と言われた。』 何とも不思議な動作ですが、そこに一貫して描かれているのは、主イエスの手の動きが相手の身体の不自由な部位に直接触れながら癒している点です。 今流に言えば、触診をしながら不自由な部位を癒していくわけです。 現代医学では医療機器も高度に発達し、新薬も次から次へと開発されていますから、触診という行為は医療行為の中で少しずつ重要度を失いつつあるのかも知れませんが、少なくとも私の子供の頃は、触診といえば医者の中心行為でした。 とにかくイエスさまの癒しは、ダイレクトな愛の行為と言えるでしょう。

 話が少しそれますが、私たちの宣教活動にもダイレクトなものとそうでないものがあるような気がします。 ひと昔前の先輩牧師たちには路傍伝道をされた方がたくさんおられました。 私自身にその経験はないのですが、渋谷駅前と小田原駅前で路傍伝道説教を聴いた覚えがあります。 非常に熱を帯びた口調で、興に乗ると言うと失礼かも知れませんが、だんだん声も大きくなっていきます。 真面目に聴こうと思う者にはズンズン胸に響くものがあります。 戦前から戦後にかけて、マスメディアが今のように発展していなかった時代には、路傍伝道によって救われた人も多くいるのですから、有効な宣教方法の一つであったと言えます。 そうした時代には、路傍伝道はイエスさまの行動の延長線上にあったとも言えるかも知れません。 しかし今はもう時代が変わってしまいました。

 この物語からもし大切なものを取り出して伝えたいと願うならば、宣教活動のダイレクト性ということになると思います。 インターネットに象徴されるように、今は仮想空間があまりにも広がってしまいましたが、こうした環境下でいかにイエスさまの触診の感覚を伝えるかということが宿題です。 「開け」という意味のアラム語をそのまま「エッファタ」と音訳したことにはそういう意味が含まれているかも知れません。 言葉はその人が生きている現実の中から出てきますから、イエスさまのその一言は神の国の宣教活動の只中から生まれたわけですから、重要です。

 イエスさまは決して軽くその言葉を口にされたわけではないと思います。 聖書という書物からこの物語を読んでいる私たちにとっては、耳が聴こえず口もきけないという身体機能の一部が癒されることだけが問題の中心のように感じてしまいがちですが、イエスさまはきっとそれ以上のことをこの聾唖者に見ていたと思うのです。 『天を仰いで、深く息をついて』という動作は、訳文にもよりますが、軽い仕草ではないでしょう。 神の子の力を見せつけようとするのではなしに、人の子として、言わば力なき者の一人として、渾身の祈りをもってこの聾唖者を癒されたのではないかと思います。

 『指をその両耳に差し入れ』ることを最初になさっていますが、これはおそらく「信仰は聞くことから始まる」ということを示唆されているかも知れません。 私たち人間は誰でも悩みを抱えていますが、その悩みが解決に向かうのはそれを語る相手が現れた時だと言われます。 ですからカウンセリングなどでは、まずカウンセラーはクライアントに語らせて、それを聞くことに徹します。 イアン・マクラウドという私の神学校時代の恩師は、「牧会カウンセリング」の授業で、そのことを何度も強調されていました。 ですからカウンセラーが教え諭すのではなく、クライアントに語らせることが大事なのです。

 イエスさまは確かに奇跡を起こされたのですが、奇跡の業を通して、真の救いはその人の悩みを聞くことにあることも示されておられると思います。 指に力を込めて両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられる、これはあえて言えば、人はまず神の言葉に耳を傾けなければならない、そうして聞いたことに応答しなければならないということです。 この奇跡は、打ち出の小槌で出てくるような奇跡ではありません。 イエス・キリストが天を仰いで、それこそ呻きながら、“エッファタ”と口にしなければ起こらなかった奇跡です。 私たちは一人の人間の回復のために、イエスさまがどんなに苦しまなければならないかということを知っておかなければなりません。

 イエスさまの“エッファタ”の一言は、奇跡を起こす力を秘めているのです。 35節にはこうあります。 『すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった』。 これを科学的に問うても無意味です。 福音書記者マルコは、ただイエス・キリストの行動が一人の孤独の世界に閉じ込められていた人間を、その寂しい世界から主イエスと人々との交わりの世界に解放されたことを伝えたかったのです。 イエスさまと交わり始め、向き合って話をする一人の信仰者がここに誕生したことをマルコは伝えたかったのです。

 私が中学生の頃は創価学会の折伏攻勢が盛んな時代でしたが、我が家にも近所の創価学会員が毎晩訪ねて来て、両親に熱心に創価学会に入信するように勧誘していました。 しかし私の両親はちょっと醒めたところがありまして、話を長く聞く割には入信する気配はまったく見せませんでした。 ですから高校生になるまで、私は信仰といえば、新興宗教を連想してしまい、どこかで宗教を警戒していたように思います。

 そういう私が高校に入学して、友達に誘われて教会に通うようになったのは何とも不思議です。 もちろん最初は行ったり行かなかったりのいい加減な姿勢でしたが、友達と参加した夏のキャンプで夜遅くまでいろいろ話し合ったことをキッカケに、その友達と一緒に洗礼を受けました。 私の場合、洗礼を受けて目に見える生活が劇的に変わったわけではありません。 それでも何か新しい世界が開けたような感覚が確かにありました。 個人的な話になってしまいましたが、私の受洗は私がイエスさまの“エッファタ”の声を聞いたことだと思っています。 受洗を境に、私はイエスさまとの対話に生きる人生をスタートしたことになります。 数多くの人間の暗く閉じられた人生に、イエスさまの“エッファタ”の声が届けばいいなと心から思っています。

 もう本の名前も覚えていないのですが、昔読んだ本に、古代教会の一部には、エッファタという言葉と、唾をつけることを洗礼式に取り入れていたということが書かれていました。 私たちは、イエスさまが癒したその人に口止めされたように、軽々しくイエスさまの業を捉えてはならないでしょう。 しかしイエス・キリストに出会った私たちは、いつも神さまと一対一で向き合える幸いを与えられていることも確かですから、この幸いを一人でも多くの人たちと分かち合うことができるように努めることも、私たちがなさなければならないことの一つです。 祈りましょう。


 
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