2015.7.19

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「救いを幻想の太陽にしないために」

陶山 義雄

詩編84,1-13; ルカによる福音書19,11-27

 去る4月26日に開かれた今年度の代々木上原教会・定期総会において、2015年度の主な行事計画が提案され、その中の一つに7月19日を「外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える礼拝」とすることが承認されました。そして本日、ここにその礼拝を持とうとしております。今までになかった新しい行事ですので、提案者の秋葉正二先生がまず、この礼拝を執り行って下さるのが相応しいと考えておりますが、本日は先生がおられませんので、私が担当することになりました。ご提案くださった主旨については、先の定期総会でご提案下さった主旨の一端が述べられておりますから、先生がおられなくても、その主旨に相応しく、この礼拝を捧げたく思います。先生のお言葉を一部ここで引用させて頂ければ:

「教会内倫理を社会と遊離させてはならない。私たちの信じるイエス・キリストは、強い者が絶対とされたローマ帝国社会に、弱い者に寄り添うという価値基準を据えてくださった。それは強さの象徴であったローマ帝国の軍事力に否を突きつけた生き方である。私たちも主イエスに倣って、弱さを生かす視点を大切にしつつ、先ず私たち自身の教会の中の実践を通して、これを世に広めて行きたい。」(総会資料25頁)。

 秋葉先生のお働きに敬意を表しながら、この教会では以前から「難民・移住労働者問題キリスト教連絡会(通称「難キ連」)と繋がりを持ち、フィリピンから来られた宣教師のジュリアン(Devorah Umipig Julian)さんがこの教会におられたり、更にはフリー・ジャーナリストの後藤健二さんがこの教会に出席しておられたことが機縁となって、アジア・アフリカで繰り広げられている戦乱の中で、世界の難民、とりわけ子供たちへの関心と支援を行って来たことなどを思い起こします。こうした働きと関心は、戦禍の絶えない今の時代にあって、益々求められていることを認識するにつけて、今日の礼拝を「戦禍に苦しむ弱者の為に祈り、母国を離れ、日本に住んでおられる方々のために手を差し伸べ、平和を考える日」とすることの大切さを主にあって共に分かち合いたいと祈るものであります。

 秋葉先生の主旨に触発されて、聞こえてきた聖書の御言葉は先ほどお読みした「ムナの譬話」です。福音書には良く似た譬話が幾つかありますが、本日のテキストと大変良く似た物語がマタイ福音書25章14-30節にあります。「タラントンの譬」として良く知られている物語です。そしてルカの物語は「ムナの譬話」と呼ばれています。おそらく、マタイにある物語の方が良く知られているかも知れません。この二つは良く似ているのですが、かなり違った所もあるので、別々に語られたお話として見る方が相応しいかもしれません。新約外典の「ナザレ人福音書」にも類似した話があると言うことは、色々な機会にイエスが似たような話をなさった、と思われます。「ナザレ人福音書」の方は通常、教会では読まれたりしないので、初めてお聞きになる方が殆どであると思います。そこで、ナザレ人福音書の当該物語をここにご紹介申し上げます。

「主人が三人の僕に財産管理を任せて、その精算を求めた。一人の僕は預かった金銭をもとに、それを増やして持ってきた。今一人は隠したままにしておいた。第三の僕は遊女と一緒に使い果たしてしまった。そこで主人は第一の者には褒美を、第二の僕には叱責を、第三の者には牢獄の刑を与えた。」

 ナザレ人福音書にある、この物語は最も常識的で、反論の仕様がないほど道義的な裁定がなされています。しかし、それだけの事で、イエスの譬話が持つドラマ性や内容の奥深さが無いように見受けます。それに比べるとマタイとルカの物語には、ドラマ性と奥深さがあるように見受けます。

 マタイ福音書では、ある人が3人の僕に5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出ます。ルカでは領主が王の位につくために遠くへ旅立つ時、10人の僕にそれぞれ1ムナずつ渡して財産管理を委ねて旅に出ます。その留守中に、領主の支配に不満をもっている市民が代表を即位の会場に送って、「この領主を私たちの王にしないで欲しい」と陳情団を派遣します。マタイもルカも旅から帰った主人(領主)は、預けた財産が正当に管理されているばかりでなく、それを増やしたかどうかを裁定します。増やした僕は褒美を受け、全く増やさず、しまっておいた僕については厳しい裁きが申し渡されています。タラントンはギリシャの通貨で1タラントンは6000デナリオン、およそ20年分の給与に当たるほどの高額です。ルカの方はムナと言う同じくギリシャの通貨ですが1ムナは約100デナリオン、約100日分の給与に相当する額なので、マタイほど高額ではありません。

 マタイではタラントンがタレントと言う言葉に置き換えられ、これが「才能」、「天から与えられた能力」を意味することによっても分る通り、頂いた賜物をそのままにしておくのではなく、それを元手にして発展、成長させていかなければ、折角、与えられて持っている能力でさえも、退化したり、駄目になってしまうことの教訓として、マタイの譬話が生かされています。そのように捉えることは、この物語の主旨に十分に沿っていると思います。それでも、私は、やはり、多少の違和感を覚えます。障碍を負って生まれた人、増やすことの出来ない重荷を負った人に対する配慮や視線に欠けているように見えるからです。イエスの優しい視線からすると、こうした、尻叩きと、英才教育を後押しするような物語は相応しくないように思えるからです。マタイ福音書記者が、タラントンの譬話をどのように捉え、それを教会の読者に訴えているのかは、マタイが結びの29節と30節で加えた編集の言葉によって良く分ります:

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣き喚いて歯軋りするだろう。」

 この言葉はイエスの言葉でないことは明らかです。前半の「持っているもの、持っていないもの」は昔から言われていた格言で(マルコ4:25マタイ13:12ルカ8:18)、それを福音書記者や教会は持ち込んだ上に、更にマタイは特有の言葉で「外に追い出され、泣き叫んだり歯噛みする」まで付け加えています(13:50, 19:30, 22:13, 24:51, 25:30)。

 マタイ福音書記者は「タラントン」の譬を、あたかも安倍総理大臣が語っていた言葉「頑張った人が報われる社会を作る」と言うのと同じように、マタイもそのように捉えています。このような教えは、余りにも常識的であり、どう見てもイエスが言っているとは思えません。イエスなら、頑張ろうとしても、それが出来ないような人々に視線を向けて、頑張った末に利益を挙げた人たちに向かって、頑張る力を失っている人たちを助けるように、教えたのではなかったでしょうか? 例えば資産家のザーカイ(ルカ19:1-10)のような行動をとるように勧めていたのではなかったでしょうか:

ザーカイは言った「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何か騙し取っていたら、それを4倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人に子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19章8節)

 実は、このザーカイ物語のあと、続いてルカ福音書記者は「タラントン」の譬話と良く似た「ムナの譬話」を置いているのです。ルカの視線はイエス・キリストと同じように、儲けた側の僕たちではなく、委託された財産をそのまま保管していた僕にむけられています。 「ご主人様、あの人は既に10ムナ持っています。」主人は言った。「言っておくが、誰でも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」ルカの気持ちを推察すれば、この言葉を語ったご主人とその言葉を評価しているように見えますが、暴君が語る最後の一句(27節:「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」)と言う言葉と、出だしの11節(「神の国はすくにも現われるものと思っていた人々」に、その反証としてこの物語を福音書記者は置いていること、その中で、僕がそのまま1ムナをしまい置いた理由を述べている21節を結びつけると、この処遇に対する痛烈な批判を読み取ることが許されます。それは、隠し置いて厳しい処罰を受ける僕への同情であり、専制的な支配者(王)への非難と抵抗への備えを呼びかける譬話になって行く所です。そして、ルカの側に、イエスの元の話しに近い内容が読み取れるように思います。

 ルカはこの譬話を、その後、19章28節以下で始まるイエスのエルサレム入城の直前、つまり、受難物語の直前に置いているのですが、その事によって神の国を宣べ伝えたイエスと、この世の専制支配者とを対比させています。また、「ムナの譬話」の直前には、先程触れましたように、「徴税人・ザーカイ」(19:1-10)を置き、「今日、救いがこの家に訪れた」(19:9)とある言葉を補足して、その救いがアタカも、もう、実現したかのように浮き足立つことの戒めとして、過酷な現実に目を向けさせるために、「ムナの譬話」が置かれています。ルカ福音書ではイエス・キリストの受難を通して救いが明らかにされて行くのです。ですから、「ムナの譬話」の前置きとして19章11節でルカはこう述べているのです:

 「人々がこれらのこと(ザーカイのこと)に聞き入っているとき、イエスは更に1つの譬を話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国は直ぐにも現われるものと思っていたからである。」お分かりのように、ルカの編集意図によれば、「神の国は直ぐに現われる」と思っている人々への警鐘として「ムナの譬話」を置いているのです。10人の僕にそれぞれ1ムナずつ預けて、その結果をマタイのタラントンと同じように裁く話を脇に置くと、ルカの出だしに続く物語の展開にはルカ独自の内容が語られています。先ず、第一に、ある支配者が王位を受けるために遠い地へと旅に出かけています。

 第二に、その国の住民たちは、彼が王位に付くことに反対して、即位の式を執行する支配者(ローマ皇帝)に住民代表を送って嘆願しています。

 そして、第三に、王位を受けて帰国した支配者は帰るや否や、自分に仕えて、忠実に働いた者には褒美を与えているのですが、王位に付くことに反対した者達を虐殺しています:「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(19:26)この言葉はマタイにも見受けられるのですが、この取り上げられる僕は預かったものをしまい置いた僕であり、その僕とは、王の即位に反対した連中である、と言う内容がルカの物語には付け加えられています。そして、もはや、一人の僕ではありません。:

「ところで、わたしが王になることを望まなかったあの僕どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」(19:27)

 専制君主の暴虐ぶりが、物語に遺憾なく織り込まれています。そして、この話をイエスから聞いた群集は、歴史上に起きた、或る、似たような事件を思い起こしているに違いありません。それは、ヘロデ大王が紀元前4年に世を去った直後の出来事でした。大王の長男・アルケラオス(在位:前4年〜後6年 マタイ2:22)が父のあとを受け継いでローマ帝国の属州・ユダヤの王となるために、エルサレムを離れてローマへの旅に出たあとの事でした。ユダヤの民衆は、生粋のユダヤ人でもなかったイドマヤ出身のヘロデ家が、更に支配を続けることを望まず、また、父親の圧政ブリを見て、ローマ皇帝アウグストウスに陳情団を送りました。大王の次男のアンテイパス(在位前4〜後39年)と三男のフィリポII世(在位前4〜後34年)も長男アルケラオスに同行してローマに出かけています。あわよくば、王位を夫々が狙う目的もあり、事実、王位を望まないとの地元民衆の代表から直訴された時、皇帝は同行したヘロデ大王の息子達に意見を求めた時、これら3人の王子たちは中立を守っていた、と『ユダヤ戦記』(II、i〜vii)の著者・フラヴィウス・ヨセフスは書き残しています。そこで、アウグスト皇帝は即決を避けて、ユダヤの執政官から報告を待って、次のように裁定を下したのです。すなわち、ヘロデ大王が治めていたユダヤの領地を分割し、長男アルケラオスには、ユダヤ、サマリア、イドマヤを治める領主に任命し、次男のアンテイパスにはガリラヤとペレアの領主に、三男フィリポII世にはイトレアとトラコニアを治めさせました。アルケラオスは帰国すると、直ちに自分の即位に反対した勢力を処刑して政権の安泰を図ったのですが、こうした圧制は長続きせず、わずか9年で退位せざるをえなくなり、その領地はローマ帝国の直轄地になってしまいました。イエスの誕生期と重なるこの悲劇的事件はユダヤの誰もが忘れられない出来事でしたから、ムナの譬話を聴いた聴衆なら直ぐに分かった筈です。そして、圧制の象徴とも言える1ムナをそのまま保管した僕はヘロデの圧制に苦しんでいた民衆なら誰でも、そうした筈であり、イエスの譬話を聞きながら、民衆は非難を受けた僕を擁護する視線を持っていたに違いありません。

 イエスの働きで神の国は始まっているのですが、まだ、完成していない。これを完成させるのは、私たちに託された仕事である。これが、「自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」という事の意味である、そのように語ったのはアルバート・シュヴァイツァーでした。今日の「ムナの譬」の出だしで福音書記者が「神の国はすぐにも現われるもの」と思い込んでいる人々への警告もシュヴァイツァーと一致しているように思います。

 このあと、ルカ福音書ではイエスの受難物語が始まります。救いを幻想の太陽にするのではなく、祈りをもって救いの実現に向かうイエス・キリストがここにおられるのです。外国人の人権のために祈り、平和を実現させるためには、今日一日の礼拝をもって済ませる訳には行きません。祈りを私たちが持続させるにはどうしたら良いのでしょうか。それは、ムナの譬で主イエスが指摘しておられる通り、未だ完成していない、従って不幸と悲惨が蔓延している現実(とりわけ日本の現実)に私たちが目を留め、解決を目指して祈り働く以外にありません。

 本日の説教題に「救いを幻想の太陽にしないように」と致しましたが、救いに与かる私たちが、もうこれで十分であり、イエスが共にいて下さるなら、もう何もしなくても良いかのように思いこんでしまう、そう言うことへの警告を、この19章1節から学び取りたいと思います。

 「宗教を幻想の太陽」と呼び、宗教批判を展開したのはカール・マルクスでした。「宗教は民衆のアヘンである」と言う有名な言葉は『ヘーゲル法哲学批判序説』の出だしで語られています。マルクスは、先祖伝来のユダヤ教から脱却する上で、この批判をユダヤ教徒たちにも投げかけています。勿論、ヨーロッパの市民社会ではキリスト教が主流をなしていたので、批判はキリスト教徒に向けられています。ヘーゲルが、市民社会という利己的な集団に投げ出された人々を救うのは(「我なる我々、我々なる我」と呼べる共存を目指す国家の形態によって救われると解き、これが)時のプロイセン国家であると説いた事に対して、マルクスは現実の解決に全くなっていないことを指摘したのです。そのついでに、宗教も同じ過ちに陥っていることを例に挙げて批判をしたのが、「幻想の太陽」としての宗教批判でありました。マルクスは実に良くヘーゲルの幻想的国家論と並べて、宗教の本質と問題を捉えています。カール・マルクスが展開した「宗教アヘン論」に至る数行の文章は、むしろ、宗教が果たしている役割を十分に評価しているようにさえ、読み取ることが出来るように思います。また、時の宗教が期待外れに終わっていることへの嘆きが聞こえます:

 「宗教が関わる不幸は、実際に起きている不幸を言い表しているし、現実にある不幸に対する抗議(プロテスト)でもある。宗教は、抑圧されている命の溜息であり、悲惨な世界を映しだしていると共に、精神を失った状態の精神である。しかし、それは民衆のアヘンである。・・・ 従って、宗教への批判は、宗教を聖なる輝きとして映し出す『涙の谷』である現世への批判を抱え持っているのである。」

 私は、マルクスのこの言葉を学生時代に読んだ時、痛く感動を覚えまして、これを是非、原文で読んでみようと考えて神保町の東京堂へ行きました。その当時はこの書店で、東ドイツで出版された、マルクス・エンゲルス・レーニン全集が実に安い値段で手に入れることが出来たのです。当該箇所を読んで発見したことがありました。それは「涙の谷」と訳されている言葉がドイツ語で "Jammer Tal " となっておりました。この言葉こそ、ルターが、詩編84編7節をドイツ語に訳す時に苦労して、「バーカーの谷」の「バーカー」を前後の関連から意訳して「ヤンマー」とした言葉であることに私は気付いたのです。「ヤンマー」は「悲惨、苦難、困窮、愛惜、とか、悲嘆」を意味する言葉です。口語訳聖書ではこれを、固有名詞として捉えて「バカの谷」としています。しかし、現在、私たちが用いている新共同訳聖書では「嘆きの谷」、つまりルターの訳にまで戻しています:「いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は嘆きの谷を通る時も、そこを泉とするでしょう」

 マルクスは「嘆きの谷を、泉へと変えてこそ」悲惨な現実から解放されるのであって、ただ、詩編を歌っているだけでは正に「救いを幻想の太陽」にしているに過ぎないと批判をしているのです。更に彼は「バーカー」と言う言葉は「バルサムの木」(サムエル記下5:23歴代誌上14:14)と訳せることも知っていたことも明らかです。バルサムは当時も、また今も、この木から鎮痛剤を取り出す木であることを知りながら、最強の鎮痛剤である「アヘン」と重ね合わせて「涙の谷・バーカーの谷」、即ち「アヘン」で眠り込んでしまう宗教を批判したことが当該箇所のドイツ語原文を見ることによって、マルクスの意図が私には良く分かりました。彼は、聖書にも熟知していたのです。

 イエスが「ムナの譬」を持って聴衆に警鐘を鳴らしたのは、悲惨な現実に怯むことなく、現実を見つめながら、これと対決し、救いの完成を目指してイエスと共に受難の道を歩むことではなかったでしょうか。マルクスの批判が当てはまるようなキリスト教はイエスに遡る限り、そうではありませんでした。イエスによる新しい神の国運動は、目の前にある不幸や悲惨な出来事に向かって、これを止め、救いを地上にもたらす為でありました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を知らされている。」(マタイ11:5) その福音とは「神の国が既に始まっていて、手の届く所にある」という希望に溢れて生きることであります。イエスの働きと救いは幻想の太陽ではなく、現実の救いを目指した「神の国」運動、これが私たちの教会であることを覚えると共に、今日の礼拝が掲げている主旨に相応しく、外国人を含めて私たちの人権が守られ、世界の平和に向かって、新しい週の歩みを共に踏み出して行くものでありたいと心得ます。

 
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