「ナルドの香油」と呼ばれている物語から学びます。 同じ受難物語としてマタイとヨハネにも並行記事があります。 香油といいますと、ひと昔前まではよく女性が髪の毛につけていました。 我が家にも椿油の瓶があったのを思い出します。 当時パレスチナでは客をもてなすために、それを客の身体に注ぐという接待方法の一つでしたし、死者を葬る時にはその遺体に塗るのもならわしでした。 ナルドの香油はヒマラヤ産ですから、ギリシャやローマ世界でこれを使うとなれば、流通ルートを考えただけでも、非常に高価な贅沢品であったでしょう。
事の発端は3節に書かれています。 ひとりの女性が非常に高価なナルドの香油が入った石膏の壺を持って来て、それを壊して香油をイエスさまの頭に注ぎかけたというのです。 石膏の壺というのは、おそらく柄の無い丸い小さな香水用の壺をイメージすればよいでしょう。 女性はその石膏壺の細長い口を砕いたのです。 そして全部をイエスさまの頭に注ぎかけました。 食事の席に着いていた人たちはその突然の非常識な行為に驚いて、すぐに反応します。 何人かが憤慨してこう言いました。 『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに』。 300デナリオンは当時の労働者の300日分の賃金です。 労働賃金は今よりはるかに安いはずですから、1日の労賃をたとえば500円と見れば15万円です。 とにかく高額です。 女性が厳しくとがめられた理由は、貧しい人々に施せばもっと有効に用いることができたのにということでした。
この女性の名前は記されていませんが、ヨハネ福音書の記事によればマルタとラザロの姉妹のマリアです。 マリアはイエスさまに対して心から信頼を寄せていた女性ですし、旅にあったイエスさまを慰めたいと壺を壊したのでしょう。 ところが、何事も打算的にしか考えることのできない人たちには、彼女の行為は理解できませんでした。 イエスさまへ全き信頼を寄せていたマリアには既に価値観の転換が起っていたと言えます。 この世のこと、目に見えることだけが高価なものだと考えるのは世の常識です。 もし私たちがこうした常識だけで人生を生き抜くとしたら、それは多分豊かな人生にはならないだろうと思います。 体だけが太って、魂の痩せた人間になっていくだろうと思うのです。 同じ時に同じ場所にいながら、マリアと彼女をとがめた人たちとの間には、二つの異なった世界が現れています。 一つは神とキリストへの信頼が根本にあって、それが外に現れた行為、もう一つは、表面上は正当性を装いながら、中身は打算以外の何物でもない行為です。 この物語を読んでいる私たちには二つの世界がコントラストとして描かれていますから、二つの世界の相違点がよく分かりますが、日頃の生活の中では、その相違は容易には分からないはずです。 この物語のように、ある出来事が起こるとその違いが浮き出てくるのです。
何人かがマリアを非難した時、イエスさまはこう言われました。 6節です。 『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ』。 こうおっしゃってから、マリアの行為に意味づけをされたのが7節です。 『貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時によいことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない』。 さらに続けて言われます。 『この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた』。 確かにどんな時代でも貧しい人々はたくさんいます。 旧約時代のイスラエルもそうでした。 一例を挙げますと、「申命記」15章にはこう記されています。 負債の免除について述べられている箇所です。 『この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい』。 それゆえ旧約の世界では、貧しい人々への配慮は、ユダヤ人各人の一生を通して、いつでもなさなければならないことでした。 「落穂拾い」とか「借金を棒引きする」とか、旧約の世界には現代の私たちの心にも響いてくる話が沢山あります。
そういう意味ではマリアを非難した何人かの主張は名目上は一応正しいのです。 しかし愛とか奉仕とかいうものは、本来利害や打算とは無関係で、常識をも超えたものでしょう。 いわば全人格をかけてなされる行為なはずです。 そこには人間の計算や優先順位などが入り込む余地はありません。 マリアをとがめた何人かというのは、イエスさま時代の何人かということではなく、この物語を読んでいる私たちのことではないかという気がしてきました。 私たちは貧しい人たちを助けなければならないことを知っていますが、私たちの助ける行為にはちゃんと計算が働いています。 自分のふところが痛まない程度に私たちは施しをするのです。 とてもとても全人格をかけた行為などではありません。 それは愛とか呼ぶにはほど遠い行為に違いありません。 長く教会にいると献金もだんだんと義務的になっていきます。 牧師でも信徒でもみな例外ではありません。 しかしそうした日常に埋もれてしまったら、愛とか信仰という世界は、永遠に見失われてしまうでしょう。 そこで、イエスさまはそうしたことをすべて承知された上で、私たちの信仰の上でもっとも重要な一点について語られたのです。
マリアが香油を注いだその時は、彼女の一生のうちで、それこそその機会を失えば取り返しのつかない大切な時であることをイエスさまは明らかにされたのです。 その鍵は先ほど触れた7節の言葉にありました。 『わたしはいつも一緒にいるわけではない』 がそれです。 この一言が、マリアの壺を壊した行為とつながっています。 イエスさまは彼女の行為を、8節にあるように、やがて来るべき十字架の死に対し、『埋葬の準備をしてくれた』 と言われています。 神さまに対して信頼をもってなす行為は、たとえ人の目には愚かに見え無意味だと思われても、イエス・キリストによって大きな意味が与えられます。 もしかするとこの時のマリアは、直感的にイエスさまが殺されるかも知れないということを感じていたのかも知れません。
イエス・キリストを信じる信仰において実を結ばないことは何一つないということを信じたいと思います。 イエスさまは最後に言われました。 9節です。 『はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』。 私たちにも、それぞれの一生涯で、マリアのように壺を壊す時があるだろうと思います。 その時私たちは、主なる神さまの永遠性を全身全霊で感じることでしょう。 私たちはイエスさまから大きな恵みを頂いていますが、私たちの側からは何をささげようとしているのでしょうか。 信仰生活はこのことを考えながら日一日と進んで行く生活です。
お祈りします。