この物語に描かれているような放蕩を地で行ったことのある人が、ここに表されている神さまのみ心を最も深く理解できるのだと思います。私もそうですし、皆さんのほとんども、こうした放蕩に身を持ち崩したことはないと思いますので、どの程度この物語の真意を理解できるのか心配になりますが、読者のほとんどはそうした人たちだと思いますので、著者ルカもそのつもりで書き記したと思います。
物語の発端は財産分与の話です。その話ならば「ああ、私も親から何某かの財産を貰えそうだ」、或いは「もう貰った」と頷ける人もかなりいらっしゃるでしょう。物語の背景は父系制社会ですから、嫡男が当然のように父親の財産を継承します。兄と弟ならば、兄が2/3、弟は1/3です(申命記21,15-17)。但し、親が生存中はその管理権は当然親にあります。
この物語では、弟が必死に自分にも生前贈与として分け前をくださいと主張して、それに与っています。ストーリーのほとんどは、この弟が財産を貰ってからの生活ぶりに割かれています。その実態が放蕩というわけで、かなり無茶苦茶な生活であることが窺えます。財産を分けて貰うと、この弟はまず親元を離れました。親の目は子にとってはある種の圧力ですから、そうしたしがらみのない世界へとこの弟は出て行ったのです。良く言えば自立、悪く言えば逃避です。
お金があって働かなくてもよい身分ならば、たいていの人は欲しいままに振る舞います。この弟もそうでした。13節には『放蕩の限りを尽くして』とありますから、酒色にふけるとか遊女に入れ込むことになったのです。後の方の30節に、兄が弟を非難する言葉が出てきます。そこには『娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして』とありますので、この弟もご多分に洩れず、その道を一直線に突っ走ったのでしょう。
14節以降は放蕩の結末です。父親から分けて貰った財産をすっかり使い果たしてしまった時、たまたまこの弟がいた地方にひどい飢饉が起こりました。人生良いことばかりではありません。泣きっ面に蜂といった場面です。こうなると人の境遇は、下り坂を転がるようにどん底に向かって落ちて行きます。飢饉ですから食物がありません。知人の所へ身を寄せたはよいものの、豚の世話をさせられます。
イスラエルでは豚は「汚れた動物」(レビ11,7)ですから、彼が過ごしていた土地は、エジプトとかバビロニアとかギリシャとか、文字通り「遠い国」であったことも分かります。16節には『豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった』とありますから、困窮の極みであることが強調されています。もっともイスラエルでも、極度に貧しい人たちはいなご豆を食べたようです。
そうして、どん底に置かれて初めて、この弟はハッと我に返ります。その様子が17節から19節に書かれています。信仰的に表現するならば、悔い改めるのです。本心に立ち返って罪を告白し、自分があの父親の子としていかに無資格であるかを自覚しています。『もう息子と呼ばれる資格はありません』という告白は、絶望の中から絞り出すように口から出てきた言葉でしょう。
こうしてこの弟は、父親の許へ帰って行きます。20節の後半からは父親の行動が中心に描かれて行きます。なんとこの父親は、遠くに息子の姿を見ると、自分の方から走り寄って行って首を抱き、接吻をしたというのです。自分の許を離れていった息子から納得いく説明を聞いて迎えたというのではありません。息子はすなおに 『もう息子と呼ばれる資格はありません』と父親におのが不明を恥じています。
22節によれば、父親はいちばん良い服を着せたり、手に指輪をはめてやったり、足には履物を履かせたりしました。指輪は権威のしるしですし、履き物は当時「自由人」のしるしです。なぜそんなことをしたかと言えば、その理由が24節に記されています。『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。父親にとって、この息子の悔い改めや帰還は、『死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった』ことだと言うのです。
さて、ここでこの譬え話が終わってしまえば、ハッピーエンドですべて完結ということになるのですが、イエスさまの話は終わりませんでした。終わらないどころか、続く25節以下で、読者にいろいろなことを考えさせるのです。25節から30節までの主人公はお兄さん、長男です。この人は父親に忠実に従い、毎日畑に出るような生活をこなして、放蕩に身を持ち崩すことなどとは無縁のように生きてきた様子が窺えます。
この兄が畑から戻り、父親が弟のために開いた宴会のざわめきを聞きます。そして怒るのです。そりゃそうでしょう。この兄にとってこの弟はろくでもない救いようのない愚か者です。彼はその怒りを父親にぶつけますが、29節の彼の言い分などを聞くと、もっともだと思えます。いわば彼の怒りの理由は、社会通念上当然という気がします。
30節を見ると、兄は弟のことを父親に向かって『あなたのあの息子が』と口にしていますから、既に弟への愛情などは失せていたのでしょう。この兄の態度を私たちはどう受けとめたらよいのでしょうか。私はごく普通の人間的態度であったと思います。あえて言えば、少し心が狭いかもしれません。そして32節まで読み終えた時、イエスさまの結論は、この兄に対する父親の言葉の中に込められているように感じました。
31節で父は兄に対して、『わたしのものは、全部お前のものだ』 と確認するように言ってから、『お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』と言ったのです。この譬え話は最初に1-3節を読んだように、ファリサイ人や律法学者たちに向けて話されたことを思い出してください。イエスさまはファリサイ人たちの敬虔さや礼拝への熱心さの故に、彼らが罪人や徴税人に比べて富んでいることを別に否定されません。しかし同時に彼らの限界性を指摘されておられるのです。
礼拝や敬虔さは目的ではありません、それは大切な信仰者の生活態度ではありますが、信仰で重要なことは、神さまと共にいるという実感なのです。イエスさまのこの譬えでは、おそらく弟は社会から馬鹿にされる徴税人や罪人に重ねられています。そうなりますと兄はファリサイ人であり律法学者なのです。お父さんは兄にとっても弟にとっても父親です。ですからイエスさまは、この兄にも神さまの愛が届くようにという願いを込められたのだと思います。
兄には弟への憎悪さえ感じます。兄というよりは、人間はそういう存在だということでしょう。一旦憎悪に染まった者が元に戻ることは至難です。しかしイエスさまはその兄に、父の言葉をもって語りかけます。ファリサイ人や律法学者やこの兄は、そう簡単に変われるとは思えません。しかし神さまの愛は弟だけでなく、この人たちにも届くのです。
この福音書の著者ルカは異邦人です。彼が過ごした教会はユダヤ人と異邦人からなる民族混合教会でした。ルカは自分が生きる現場から、この福音書を編集したと思います。神さまの愛は、理性の論理を超えたところにあります。イエスさまが罪人たちや徴税人にどう接せられたか、またファリサイ人たちにどう話をされたか、私たちはあらためて、じっくり味わいながら、これからもこの譬え話を読んでいきたいと思うものです。そういう気持ちで、きょう一緒に読んだ旧約のテキストも読んでみてください。きっと、神さまの愛の寛大さに触れることができると思います。お祈りします。