2015.5.10

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「喜びの別れ」

秋葉 正二

列王記下2,1-15ルカによる福音書24,50-53

 今週の木曜日14日は「昇天日」です。 イースターから40日目の木曜日にあたります。 復活したイエスさまが弟子たちの目の前で天に昇ったことを記念する教会暦上の祭日です。 教団の多くの教会では取り分けてお祝いすることもないのですが、ローマ・カトリックやオーソドックス、ロシア正教、聖公会、ルター派それにプロテスタントの一部教派では重要な祭日として守られていますので、イエスさまの昇天に大きな意味が置かれていることが分かります。 昇天日は、フランスやドイツでは法定休日でもあります。 昇天の記事はきょうのテキストの他にマルコ福音書の終わりの部分にもありますが、いずれも短い記述ですから、前の文章との文脈に留意しながら読む必要があります。

 昇天の記事で最もよく知られているのは「使徒言行録」1章でしょう。 そこには復活されたイエスさまが使徒たちに聖霊による洗礼の約束をされた後、天に上げられた様子が詳しく描かれています。 昇天が可視的な描写として描かれているわけです。 昇天の記事で重要な点は、きょうのテキストの前の部分にも書かれていますが、復活されたイエスさまは「弟子たちに聖霊の約束を与え、祝福された」という点です。 昇天そのものは「別れ」という意味でしょう。 その別れの内容は、弟子たちがこれまでイエスさまと一緒に過ごしたこの世の関係が今ここで一旦終わって、今後イエスさまは人間には見えない神さまの領域に入られ、そこからやはり見えない神的な力によって私たち人間に関わってくださるということです。

 「別れ」ですから本来悲しみがつきものなのですが、昇天という別れには悲しみというイメージはあまりあてはまりません。 人間同士の「別れ」では、どういう別れであれ、当事者にとってそれは一つの大きな事件とも言えます。 不可抗力である死別がありますし、恋人同士の別れもあり、夫婦別れもあります。 そうした別れには人間の機微が複雑に絡んでいて、多くの場合何らかの悲しみが付いて回るのが普通です。 ですから人間同士の別れは数多くの小説の題材になってきました。 たとえば、私の場合なら「別れ」と言えば、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」という探偵小説がすぐ思い浮かびます。 私にとって、ハード・ボイルドが決定的に大きな意味を持つようになった作品です。 そこには単なる探偵小説という括りでは収まり切らない人間の感情の複雑さが描かれていました。

 これに比べると、イエスさまの昇天は確かに「別れ」には違いないのですが、そうした人間同士の別れとは根本的に異なる要素があります。 その別れには、根底として神の領域が関わってくるのです。 人間同士の「別れ」ならば、別れた後でその内容をいろいろな角度から分析することができるでしょう。 情の深さとか後悔とか反省とか…………、多種多様な「別れ」の要素や側面を明らかにすることも可能だろうと思うのです。 しかし、「別れ」に神さまの領域が絡むとなれば、そこには私たちが立ち入ることのできない部分がどうしても出てきます。 そこで、イエスさまの昇天において、立ち入ることのできない部分に関しては、それを素直に受けとめることが必要になってきます。 そして、それを可能にするのは、私たちに与えられた信仰ということになります。

 復活のイエスさまが弟子たちに現れた記事は同じ24章にある「エマオの途上」の記事や、36節以下に記されているイエスさまが弟子たちの真ん中に立たれた記事などで読むことができますが、そこにはイエスさまが弟子たちに最後の重要事として伝えた幾つかの事柄が見出されます。 第一はイエスさまが受難以前とはちがった姿でご自身を現されていることです。 キリストの復活の体は受難以前のものとは異なり、前には所有していなかった力を備えておりました。 この復活体のことをパウロなどは「霊の体」と呼ぶわけです。

 弟子たちはおそらく復活体のイエスさまにお会いしてもなお、どこか確信が持てないでいたようです。 その様子がテキストの前の部分、37節などにある『恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った』というような表現になったのでしょう。 イエスさまが手や足を見なさいと言われても、なお弟子たちは不思議がっていたことが書かれています。 その様子を想像してみますと、これは弟子たちだけに起こった問題ではなく、私たちの問題でもあると思えてきます。

 なぜかと言えば、昇天の記事においても、ポイントになっているのは復活なのです。 弟子たちも私たちも復活の出来事にどこか戸惑っているのです。 私たちは一所懸命考えて復活のことを分かろうと努めますが、これはどんなに考えても分かるものではないでしょう。 イエスさまが弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行ったと50節にはありますが、これも弟子たちにご自分に所縁の最後の場所を辿って、天に上げられるとはどういうことなのかを復活に絡めて諭されたことだと思うのです。 イエスさまは弟子たちにそのようにいろいろとお示しになられた後、弟子たちを祝福されています。 これは復活の力に触れた者に対する祝福なのです。

 別な言い方をすれば、いまわしい現実の死の世界で不安に生きる私たちに、解決と希望を与えてくれるイエス・キリストのサインなのではないでしょうか。 私たちは愛する者の死に会うことがありますが、そこに「あきらめ」や「ついおく」しか残らなかったとすれば、もう絶望しかありません。 イエスさまが祝福しながら弟子たちを離れ、天に上げられたということは、私たち人間に「待ち望む」信仰を与えてくださったということでもあります。 復活のイエス・キリストは、人間に、愛する者と天国において再会できる希望を与えてくれる力なのです。 人間を絶望のどん底に落とす死別の悲しみも、復活のイエスさまから祝福を受けるとき、慰めが生まれ、それはやがて希望となります。 しかもそれは個人的なことだけではないのです。 言わば、全宇宙の救いと完成がキリストの復活によって成し遂げられるということでもあります。 私たちキリスト者はその壮大な業の証人とされています。

 弟子たちは天に上げられるイエスさまを見て、初めて復活の真理が実感として身になったと言えます。 彼らはイエスさまを伏し拝んで喜びに満たされてエルサレムに帰って行きました。 彼らに聖霊降臨として与えられた信仰のエネルギーはエルサレムから始まって、地の果てまで伝えられました。 それはキリスト者が主イエス・キリストの復活の証人として生きているからです。 教会もまたその使命に生きる群れです。 キリスト者は、時代がどんなに混乱しても目をしっかり神さまに向け、決してあせらず、不安を持つことなく日々歩むことが大切です。 天に上げられるイエスさまの力を頂いて、私たちは、神さまの定める最善の時を信じてこれからも歩んで行きたいものです。 ご一緒に祈りましょう。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる