2015.5.3

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「貧しい者、富める者」

秋葉 正二

創世記22,16-19ヤコブの手紙2,14-17

 きょうは「役に立つ信仰」について考えてみたいと思います。これはもちろんテキストの14節に『行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか』とあるからです。ヤコブ書の著者は、「誰かが自分は信仰を持っていると言っても、その人に行いが無ければ、何の益があろうか?」と問いかけているのです。実は皆さまもご存知だと思いますが、この表現をめぐってプロテスタントの世界では不毛な議論が行われてきました。キッカケはルターです。ルターはギリシャ語本文をドイツ語に訳す際、使徒的権威が疑わしい文書や教理的に重要でないと判断した文書を聖書の一番後に付けて、目次にも載せませんでした。それらの文書は「ユダ書」とか「黙示録」とかですが、きょうのテキストの「ヤコブ書」もその一つでした。福音的性格を持っていないという理由で「ワラの書簡」だとルターが断じたことは有名なエピソードです。

 「福音的でない」というのは、キリストの苦難が書かれていないとか、復活の記事がないという意味です。これは後に訂正されるのですが、ルターが「ワラの書簡」と呼んだ第一の理由は、「信仰による義よりも、行いによる義」つまり「行為義認」を主張していると見なしたからでしょう。確かに読み方によっては「行為義認」を取り出すことができるようにも思えます。それともう一つの理由がありました。ルターが批判していたカトリック教会が終油の秘蹟の根拠をヤコブ書に見出していたからです。プロテスタント教会は終油の秘蹟を認めなかったのですから、この理由も大きな意味を持っていたと思います。

 とにかく「行為義認」優先とも見られる表現が確かにきょうのテキストにも出てきています。17節まで読みましたが、続く26節まで読み進むともっとハッキリします。とりわけ24節などの表現を皆さんはどうお感じになられるでしょうか。24節にはこうあります。『人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません』。一面的に解釈すれば確かに「行為義認」とも取れる気がします。ルターは偉大な人物ですから、その一言の影響力は絶大だったわけですが、その後の歴史の歩みの中で、いろいろ検討された結果、「ヤコブ書」の正典性はちゃんと分析された結果認められています。著者は信仰を軽く見て行為を重要視したのではない、という点と、強調されているのは行為に結びつかない信仰への批判であることが理解されて、「ヤコブ書」はよみがえったというわけです。私たちもこの点をきちっとわきまえて、テキストを理解するようにしましょう。

 さて本日のテキストで著者が直接問題にしているのは、15節にあるように、「着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている兄弟姉妹」に関わることです。衣食住は人間生活の基本形態ですが、これに事欠いている状況は、当時の多くの人が抱えていた不安要素でした。衣食住のうちでも、衣食が備わっていないならば、生きていくこと自体がかなり困難になります。ですからそういう人がいたら、そこに生命の危機があると認識しなければなりません。これは現代にも通用する問題設定です。聖書はたびたび「貧」の問題に触れますので、聖書を読んでいる私たちには敏感に響いてくる問題には違いありません。そうしたこともあって、東京の山谷、横浜の寿、名古屋の笹島、大阪の釜ヶ崎などでは、多くのキリスト者が様々な奉仕活動を展開してきました。

 ところで、私が以前牧会しておりました砧教会の隣接地域の上用賀にはカトリックのフランシスコ会の修道院がありまして、そこでだいぶ前のことになりますが、フランシスコ会の管区長までされた本田哲郎神父が聖書研究会を開いておられました。本田先生はグレゴリアン大学で学ばれたラテン語やギリシャ語に精通された著名な学者です。私も何度かお目にかかったことがありますが、砧教会の婦人会のメンバーの中にその集まりに参加していた方がおられまして、とても豊かな楽しい集会であったと話してくれました。

 で、その本田神父ですが、ある時突然管区長を辞されて大阪の釜ケ崎にある粗末な家に移り住んでしまわれました。釜ケ崎をご存知でしょうか。東京の山谷のような所謂「寄せ場」です。最近は不景気の煽りを受けてだいぶ様子が変わりましたが、主に日雇いのおっちゃんたちが暮らす特殊な地域です。そこに住み込んで本田先生はおっちゃんたちとミサを守り、聖書を読み、彼らとの交流生活を続けておられます。本田先生はご自分で新約聖書を訳して出版されておられるのですが、その訳が凄いのです。きょうのテキストで言うならば、「着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている」人たちの視点で聖書を読ま込まれておられます。

 本田先生は翻訳にあたって、新しい訳語と言い回しを試みたと断わられていますが、その本田訳聖書でこんなことを宣言されています。「本書は日本カトリック司教団公認の朗読聖書ではなく、〈弾圧・行き詰まり・迫害・飢え・貧困・災害・刃物(死)に日々さらされている[世の小さくされた者たち]の側に、神は常に立たれる(8,35-36)〉という、聖書に一貫して流れるメッセージを視座とする新しい聖書翻訳の試みです」。………… 皆さんも一度機会があったらぜひ読んでみられることをお勧めします。とにかく驚くべき訳で、その訳文の背後には、「弱者優先の福音こそが解放をもたらす神の力なのだ」、という揺るぎない本田神父の確信が満ち満ちています。

 私は本田先生の生き様を見て、カトリックは心から凄いと脱帽しました。アッシジのフランシスに端を発するフランシスコ会という修道会の真髄を見せられた思いでした。プロテスタントの牧師にはなかなかそういう生き方の転換はできないのです。多くの場合家族を抱えていますし、教会組織から逸脱するような生き方をしたら教区や教団がまず黙っていないでしょう。その辺のことについては、代々木上原教会には、ルーツの一つに上原教会と赤岩先生の生き方があるのですから理解しやすいと思います。信仰理解が違うということで教団はいろいろな圧力を上原教会や赤岩牧師に加えました。でも当時の教団は、現在の教団よりはまだましです。少なくとも強制的に牧師を排斥したり、教会を潰すことはしなかったからです。今だったら、北村牧師の例を見ても明らかなように、牧師資格を剥奪して教団という組織から排除してしまうでしょう。そんなことを思いながら、私たちはできるだけ素直にきょうのテキストを読みたいと思うのです。

 信仰とは抽象的な思考ではなく、具体的な形で示されるべきだというヤコブ書著者の主張を受けとめたいと思います。着る物もなく、その日の食べ物にも事欠く人が目の前にいたら、私たちはその人の生命が守られるように、躊躇なく手元にあるものを与えなくてはなりません。もしそれをしないで、口先だけできれいごとを言っても、それは何の意味もないことがよく分かります。キリスト者はよく他者の痛みを自らの痛みとして負う、などと言いますが、もしそれが行いを伴わないものであったなら、そこに神さまの愛を証しするものは何もないと言わなければなりません。

 私たちがマザー・テレサの姿に感動するのは、彼女が行っていたからです。路頭に行き倒れた人を施設に運んで最後を看取ることも、誰も近寄らない浮浪のハンセン病者の手を握って助け出すことも、みな行いとしてなされたことです。私たちはマザーの修道会の女性たちの行動に感動しますが、その際彼女たちの信仰がどうだとか、聖書をどのように理解しているか、などと考えたりはしません。私たちは素直にその行いに感動するのです。ヤコブ書の著者はそういうことを主張しているのではないでしょうか。非常に理屈っぽいプロテスタント教会が反省すべき点が、そこにあるように思われます。

 それはまたプロテスタント教会に属する私たち一人ひとりに向けられたイエスさまからの問いでもあります。パウロもヤコブ書の著者も、信仰をテーマに取り上げたことは共通です。その際、パウロは行為の根底にある信仰とは何か、と問うたことに対し、ヤコブ書はあくまでも愛において働く信仰というものを問題にしたのでしょう。「役に立たない」「無駄な」信仰ではなく、生きた信仰を追求することが私たちに与えられた責任です。

 私の神学校時代の同級生のある牧師は、新宿にほど近い教会で牧会しているのですが、頻繁に訪れるホームレスの人たちを迎え入れることができるように教会にシャワー室まで作ったのですが、いろいろな問題が生じて、結果的に失敗しました。それでも私は、そうした教会としての努力は尊いものだと思いました。それはイエスさまに出会わなければ起こることのない業だと考えるからです。無駄な信仰ではなく、役に立つ生きた信仰を追い求めて、『行いを伴わない信仰は死んだものです』というみ言葉を受けとめて、信仰に生かされて歩み続けたいと願っています。祈りましょう。


 
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