2015.4.26

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「とこしえに星と輝く」

秋葉 正二

ダニエル書12-,1-4ヨハネの手紙 一 5,1-4

 本日のテキストを読んでおりますと、キリスト教はきわめて単純だと思います。 イエス・キリストを信じる者は、皆神さまから生まれた者で、その神さまを愛する者は、仲間のキリスト者を愛するものだ、と著者は言います。 というのも、すぐ前の4章で著者は愛について論じていますので、それを受けて5章では信仰の問題を取り上げるのです。 その理由は、愛の内実は信仰がなければ確かめられない、と著者が考えたからでしょう。

 言うなれば、イエス・キリストを信じる信仰から真実の愛が生まれて来るということです。 私たちはマタイ福音書に記されているイエスさまと使徒ペテロとのやりとりを思い出します。 マタイ16章にはペテロが信仰を言い表す記事がありますが、15節以下にはこうあります。

『イエスが言われた。“それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか”。シモン・ペトロが、“あなたはメシア、生ける神の子です”と答えた。するとイエスはお答えになった。“シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ”』。…………

 先ほどダニエル書を読みましたが、ダニエルは捕囚民という厳しい現実の中で、神を信じる者の復活の幻を見ています。 ここから分かることは、旧約聖書がやがて来たるメシアについて語っているとすれば、新約聖書は既に来られたキリストについて記録しているのだと言うことです。 旧約聖書をしっかり読んだ者は新約聖書のイエス・キリストについてよく理解するはずであり、信じることも容易になるのです。

 きょうのテキストの1,2節は、そのイエス・キリストを信じる者が新生した神の子だ、と述べているのですが、しかしそのことを実際の生活に当てはめてみるとどうなのかを著者は語り始めるのです。 というのも、私たちは確かにイエスさまは神の子だと信じているのですが、実生活では絶えず悪魔の誘惑に惑わされて堕落し、偶像に迷い、この世の悪に染まって心が暗黒に覆われることもしばしばだからです。 場合によっては善と悪との区別もつかなくなり、肉欲の奴隷にさえ落ちてしまいます。 こういう私たちが信仰生活を保っていくには、かなりの訓練が必要だということを著者はよく理解しているようです。 私たちが神の子であるためには、聖書をよく読み、礼拝生活をしっかり送って、確かな信仰に導かれなくてはなりません。

 最初にキリスト教信仰はきわめて単純だと申し上げましたが、その通り、本来信仰とはすごく単純なはずなのです。 第一、神さまから生まれた私たちが神さまに頼るのはとても自然なことでしょう。 ところが私たちはこの世の様々なものに心を奪われて信仰心まで失いかけます。 しかし聖書をしっかり読んで、心からの礼拝を誠実にささげる生活を続けているならば、私たちは自分の不信仰に気づかされのです。 これは例えて言えば、信頼して飛行機に乗るようなものでしょう。 私は国外に出るため飛行機に乗る際、時々変なことを考えます。 今自分が乗ろうとしている飛行機は本当に目的地まで行くのだろうか? と思ったりするのです。 飛行機は一度飛び立ってしまえば、乗客である私たちはどこをどう飛んでいるか分かりません。 座席のスクリーンにはルート表示が出ますが、それはあくまで与えられる情報であって、実はその真実性を自分では確かめることができません。 その情報を信じるしか他に方法がないから私たちは信じているに過ぎないのです。 でも実際は、私たちに飛行機に関する知識が全くなくても、料金さえ払えばちゃんと目的地に着きます。 私は何十回も飛行機に乗ってきましたが、目的地以外に運ばれたことは一度もありません。 ですから、私たちは信頼して飛行機に乗ることができます。 信仰生活とはそんなものではないかと思うのです。 イエスさまという飛行機にすべて委ねる。 命も行く先もすっかり任せて歩むのが信仰生活ではないでしょうか。

 さて次に著者は、人を愛することが必要だと言います。 イエスさまも最も重要な掟だとして引用されましたが、旧約聖書の戒めである『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉を私たちは繰り返し聞いてきました。 著者が人を愛しなさいと語るのは、それが人間生活の根本だからでしょう。 旧約聖書だけでなく新約聖書を与えられている私たちは、きょうのテキストで、信徒同士が互いに愛することを求められています。 私たちはイエス・キリストを信じて生まれ変わったのですから、新しい意味において、愛の生活を送らなければなりません。 では、この著者が勧めることを実際に実行していくにはどうしたらよいのでしょうか? 各々が自分で見出さなくてはなりません。 私の場合、最初に思い浮かべるのは「山上の説教」でしょうか。 これを何度も読み返し、分かったと思うことから実行に移していく、そういう努力をしてきました。 別に「山上の説教」でなくても構いません。 パウロの書簡でも何でも、皆さんがご自分で思い浮かべることのできるテキストを頼りにして、実行に移す努力をしていけばよいのです。

 さて、3節以下には「神の掟」という言葉が出てきます。 キリスト者であることはなかなか大変なことだとも思うのですが、考えてみれば、それは当然です。 私たちは病気であれば十分に働くことなどできません。 信仰を与えられキリスト者になったということは、私たちが神さまの前で生まれ変わって新しい人間になったということですから、私たちが病気であるならば、それを早く治して元気に働けるようにする必要があります。 もし健康に戻れたなら、私たちは元気を与えられて、休んでなどいられなくなるでしょう。 イエスさまは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃいましたが、私たちは良い行いを重ねて救われるのではなく、救われたからこそ良い行いをするのです。

 神さまの掟を守ることが苦にならないのは、世に対してキリスト者が勝利するからです。 ですから、4節には『世に打ち勝つ勝利』という言葉が出て来ます。 ではなぜ世に負けることがあるのかと言えば、もちろん私たちが弱いからでしょう。 私たちはそのままでは弱いけれども、イエス・キリストを信じて、神さまの生命と力をいただけるならば強くなれるのです。 世にはよくない習慣が溢れていますから、それに染まれば私たちは世に負けます。 これが信仰を得ることによって、いろいろな罪に負けていた者がそれらに打ち勝つようになる、これが「世に勝つ」という意味でしょう。 信仰はキリスト者をイエス・キリストに結びつけ、イエスさまから勝利する力を受け取るのです。 「世に打ち勝つ勝利」という表現は、もう少し丁寧に訳すと「世に打ち勝った勝利」です。 「打ち勝った」という表現は、ギリシャ語特有の不定過去アオリストという時制で表されています。 不定過去というのは、過去の明確な行為や事実を表します。 未来の可能性を意味するのではなくて、既に実現した勝利なのです。 おそらく著者の脳裏にはイエスさまが十字架と復活によって勝利しているということが強く働いていたのでしょう。

 私たちが生きるこの世には、様々な勢力があります。 神さまのみ旨に適うよき力ならよいのですが、この世の勢力の大半は悪魔の働きと言っても過言ではありません。 その勢力はあらゆる角度からキリスト者を攻撃してきます。 今私たちの国ではまるで戦争に備えるかのような次々と新しい軍事法制が決められようとしています。 これなどは典型的この世の勢力の一つでしょう。 私たちは『平和をつくり出す者は幸いである』とイエスさまから教えられているのですから、しっかりこの世の勢力にノーを言い続けようと思います。 神の勝利を信じ続けるのが信仰者というものです。 イエス・キリストを神の子と信じ、神さまと兄弟姉妹を愛し、また神さまに創られたこの世の人々を愛するキリスト者として、その掟を守りながら歩んでまいりましょう。 信仰と希望と服従は一つです。 祈ります。


 
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