以前、エルサレム神殿の大きな模型を見たことがあります。それまで本の中の図では確かめたことがあったのですが、立体の模型を見るとリアルに神殿全体の姿が頭に入りました。エルサレム神殿の外庭、大庭とも呼ばれますが、その東側に屋根のついた回廊があります。「異邦人の庭」と呼ばれた一画で、ダビデ・ソロモンの建立以来2度の大破壊に遭遇しています。イエス時代の神殿はヘロデ王による再建ですが、一説によれば柱廊の部分だけはソロモン王建立のものがそのまま残っていたので、「ソロモンの回廊」と呼ばれていたそうです。おそらく土台の石か何かが残っていたのでしょう。
23節の記述はそういう場所を指しています。両替商が商売をしたり、犠牲の動物が売られたりしたのは、その回廊であったろうと言われます。使徒言行録の記述から推測すると、初代キリスト教徒の集会の場所にもなったようです。きょうのテキストにある事件は、このソロモンの回廊で起こりました。そこを歩いておられたイエスさまを、ユダヤ人たち、ファリサイ派の指導者たちが、取り囲んだのです。イエスさまの活動というものが、普段から多くの論敵に囲まれて、不信と敵意の中に置かれていたことがよく分かります。そういう厳しい状況の中で、福音の真理が宣言されたのかと思うと、ちょっと身の引き締まる思いが致します。
ユダヤ人たちの詰問は24節にあります。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』。イエスさまが本当にキリストなのかどうか、という問い質しです。考えてみれば、この問いを発したのはファリサイ派の人たちだけではありませんでした。洗礼者ヨハネは獄中から弟子を遣わして、『来たるべき方はあなたですか。それとも他に誰か待つべきでしょうか』と尋ねている記事を思い出します。
「気をもむ」という表現は、原文を直訳すると「心・魂を取り上げる」ということなのですが、辞典によりますと「心を宙に迷わせる」とありました。ですからこうした言い方自体に、ユダヤ人たちがすでに何か問題の種を投じて紛争を起こさせようと企図していたことが窺われます。『冬であった』というシンプルな表現も、今起ころうとしている事件の寒さ・厳しさを匂わせています。キリストかどうかという問いに対しては、イエスさまはそれまで何度もお答えになっています。
例えば、4章に出てくるサマリアの女性に対して、『それは、あなたと話をしているこのわたしである』と言われているのですが、「それ」というのは文脈からメシアを指していることは明らかです。またすぐ前の9章には「生まれつきの盲人」の記事がありますが、この癒された盲人にも『今あなたと話しているのが、その人だ』とおっしゃっています。それゆえ、テキストが表しているのは、イエスさまが「このわたしだ」と言ったところで、このユダヤ人たちはとうてい信じないだろうということです。
そのことをイエスさまは25,26節ではっきり指摘しておられます。この一連のシーンは何を語っているのでしょうか。おそらく信仰とはどういうものかをイエスさまは述べられたのです。ファリサイ人のように知識を十分に身に付けていても、それは必ずしもその人を信仰へ導くとは限らないということでしょう。この時のファリサイ人の心の状態というのは、イエスさまが示された新しい真理に対し、鼻から信じようとしない、というものです。
イエスさまの気持ちとしては、6章の「命のパン」の物語の中で、群衆に『あなたがたはわたしを見ているのに、信じない』と嘆かれた際と相通じるものがあったのではないでしょうか。人間というのは、この時のファリサイ人のように、一度自分が身に付けたと信じている信仰で武装していると、こうした一種の「つまずき」を持ちやすいのです。
ファリサイ人の場合なら、律法を核にして築き上げた信仰世界が自分の中で完結してしまっている状態です。しかし信仰を自己完結させてしまうと、新しい真理に耳を傾けることが出来なくなります。これは他人事ではありません。私たちにも起こり得ることです。人間は絶対の世界など持ち得ませんから、私たちが信仰を得ていると言っても、それは神さまの示される真理のほんの一端に過ぎないと自覚すべきです。ですから信仰生活を歩む際にも、真理に向けて一生求道者として歩んでいることを忘れてはなりません。このことがおろそかにされる時、信仰者は自分の信仰理解に合わない者を排除します。
ユダヤ人にとってイエスさまの示される真理は、それまでのユダヤ教の枠内にはない新しいものだったはずです。その新しい真理の前で彼らは神さまから試されているのです。そして悲しいことに、彼らはますます旧来の信仰に意固地になっていきました。こうしたことは現代の私たちにも起こり得ます。私たちはイエスさまのお言葉を他人事として聞いてはなりません。イエスさまはユダヤ人たちに厳しい指摘をされています。
26節、『あなたちは信じない。わたしの羊ではないからである』。羊と羊飼いについては以前の説教でも何度か触れていますので、思い出してください。イエスさまが自分の羊とそうでない羊を分けた理由は、イエスさまの声に従うかどうかの一点です。27節でイエスさまは、『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける』と言われています。信仰とはイエスさまのお言葉・声に対して、開かれた耳をもって聞き従うことでしょう。そしてそれはまた、神さまからの賜物だということです。
目を閉じて、しっかり耳を開くことが大切です。イエスさまの声は、ご自分の羊に対する羊飼いとしての呼びかけです。私たちを招いている声です。ところが私たちの周りにはいろいろな雑音が溢れていて、イエスさまの声は小さくかき消されようとされています。よほど注意していないとイエスさまの声を聞き取ることは出来ません。皆さん、「いのちの電話」の活動をご存知だと思います。ドイツ人女性宣教師の蒔いた電話線によるライフ・ラインの働きを、関西の牧師夫妻が上京して広げられました。中心的に関わって来られたのが教団の牧師や信徒たちであったことは嬉しいことです。テレビのように外見に惑わされずに、一本の電話を通して深い心の対話が可能だとしたら、これは素晴らしいことです。
私たちの国では、もう何年も3万人もの人たちが自らの命を絶ってきました。日本は先進国の中でも有数の自殺国です。そうした現実を抱える中で、「いのちの電話」の存在意義は大きいでしょう。私たちは羊飼いとしてのイエスさまの声を聞き分ける羊になりたいと願うものです。注意して、正しくその声を受けとめ従うのです。聞くだけでなく、従うということが重要だと思います。従うというのは、新しい一歩を踏み出すという意味でもあります。耳と心で受けとめたことが、その人の手足の行動となって機能し始める……これが主イエスを信じる信仰者の姿です。
聖書を読むことも、礼拝を守ることもそういう意味で理解されなければならないと思います。羊飼いはその羊を、平穏無事で居心地のよい場所だけでなく、時には敵や獣が潜む場所、危険や誘惑や死が渦巻く場所にも連れて行かなくてはなりません。実はそういう場所でこそ、「災いを恐れない」信仰が与えられるのだと思います。真の羊飼いがその羊の同伴者であるというのは、そういう意味でしょう。イエスさまはいつも論敵に囲まれていました。そうした厳しい対立の場所から、私たちに『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける』とおっしゃっています。私たちは主イエス・キリストとの間に、深い内面的な世界をしっかり築いて、そこからこの世への一歩を踏み出したいものです。そう導かれるよう祈りましょう。