2015.4.12

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「聖霊を受けなさい」

秋葉 正二

創世記2,7; ヨハネによる福音書20,19-23

 昨年も同じ題で説教しました。 ローズンゲンが同じテキストを呈示してくれたということもあるのですが、イエスさまの“聖霊を受けなさい”という言葉の響きがとても好きなのです。 復活の希望をそのままプレゼントされたようで、今回もゆっくりとテキストを読んでみました。 この言葉はテキストによりますと、ユダヤ人を恐れて不安におののく弟子たちに復活されたイエスさまが語られた言葉です。 それは、その時の弟子たちにとって何よりも大切なことが聖霊を受けることであったということでしょう。

 使徒言行録1章の記事によりますと、弟子たちが『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた際、「神が定められた時や時期は、あなたがたの知るところではない」と、言われた後、更にこう付け加えられています。 『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける』。 これは信仰というものが言葉ではなく、力であることを言い表されたものでしょう。 弟子たちにとって、それまで日々親しく生活を共にしたイエスさまに大変なことが起きてしまった……自分たちとイエスさまはこのままどうなるのか?……そうした状況での出来事であったろうと思われます。 しかもこれは「週の初めの日の夕方」とありますから、マグダラのマリアが復活の主に出会ったその日の出来事です。 弟子たちはまだマリアの証しを聞いていないかのように、家の戸に鍵をかけてひっそりしていました。 ローマ当局の弾圧と迫害が既に脳裏をかすめていたとも思われます。

 そういう状況の場所にイエスさまが現れて、弟子たちに声をかけられたのです。 その言葉こそが『聖霊を受けなさい』でした。 イエスさまはそれまでも何度か繰り返して真理の御霊(助け主)が来ることを約束しておられるのですが、今この時、その約束が実現したということです。 ですから主イエスの復活という出来事を基準にして新しい歴史が始まったと見ることができます。 それは後の歴史で確かめられるように、教会の歴史のスタートでした。 世には「立派なクリスチャン」というような言い方もありますが、キリスト者とは、自分の力を練り磨く者ではありません。 聖霊を受けることによって、神さまの力に生かされる存在です。 私たちキリスト者には尊敬すべき多くの先輩たちがいますが、私たちはその先輩を尊敬しこそすれ、本来の意味での模範にはしません。 模範にすべきは主イエス唯ひとり、ということをわきまえているからです。

 教会はイエスさまの最初の弟子たちに聖霊が降ったときに誕生したと言えます。 教会は人の集まりですが、単なる政治や社交や娯楽のグループではありません。 その一番の理由は、聖霊を受けた人たちの集まりだという点です。 ですからもし聖霊が失われれば、教会はすぐに単なるグループやクラブになってしまいます。

 復活されたイエスさまの体はどんなものだったのだろう、と思われる方がおられるかも知れません。 ルカ福音書によりますと、弟子たちは『亡霊を見ているのだと思った』とありますし、エマオに向かう二人の弟子に道々同伴された時には、『弟子たちの目は遮られていて、分からなかった』ともあります。 要するに私たちに特定できるお姿ではないのです。 変幻自在と申しますか、イエスさまの方からご自分を現わそうとされるときのみ、復活されたその体は私たちの目に映る、としか言いようがありません。

 使徒パウロはコリント前書の15章35節以下で、やはりこの特別な体のことに言及しています。 パウロはキリストの復活について述べた後、死者の復活について論じています。 そしてそれをまとめるように、復活の体について語っています。 とにかく、マルコ福音書にあるように、イエスさまは「別の姿」でご自身を弟子たちに現わされています。 イエスさまの復活の体は、受難以前のものとは違って、前には所有しておられなかった力を備えておられたと言えるでしょう。 パウロはこのことのなった体、即ち復活体のことを「霊の体」と呼んでいるのですが、私たちもまた復活の時には、そのような体を与えられるという意味だと思います。 現在私たちキリスト者は、救われた霊魂を滅びゆく肉体に宿しているという、言わば矛盾の中に生きているのですが、やがては私たちも復活の時には、そのような体を与えられるのです。 救われた霊魂にふさわしい体が復活の時に与えられる、そういうことでしょう。 その「霊の体」は死後ただちに与えられながら、さらに、神の国が成就する時に完成される体です。

 いろいろ申し上げましたが、それでも復活のことは分からないとおっしゃる方がおられるでしょう。 ある意味でそれは当然です。 復活に関することは考えても分からないのです。 私たちは心を頑なにしないで、神さまのこと、自分の罪のことを真剣に考え続けていけば、もっともふさわしいと神さまが判断された時に、復活のイエスさまがその真理を理解させてくださるはずです。 昨日藤沢の墓地で和田妙子さんの納骨式を行ったのですが、納骨式をした後、私はそんなふうに復活のことを思っていました。 キリスト者の葬儀も納骨式もいいですね。 そこには希望と平安が溢れています。

 葬儀でも納骨式でも、お祝いの祝祷ができるのはキリスト教だけでしょう。 ともあれ、イエスさまはそうした復活の体でふさぎ込んでいた弟子たちの真ん中に立たれました。 手とわき腹をお見せになりながら、『あなたがたに平和があるように』と繰り返して言われたのです。 『平和があるように』、この一言は他に選択の余地がない一言です。 「平和」これはもちろんヘブル語の「シャローム」です。 ギリシャ語では「エイレーネー」。 現代ではシャロームは挨拶の言葉としてとても軽い意味になってしまいましたが、平和という意味の言葉が日常的に使われていることには意味があるかも知れません。

 テキストでのこの言葉は、イエスさまのこの世における遺言と見なしてもよいのではないでしょうか。 それは現代の私たちに向けても投げかけられた言葉です。 今日の世界が直面している問題を顧みますと、その傷口はとても深いと言わざるを得ません。 表面的な平和と繁栄はあります。 しかしその底に、深い傷口と不安がのぞいています。 戦争と定義できるかどうか分かりませんが、武力衝突による破壊の悲惨と野蛮が世界各地にあります。 核軍縮の話し合いがなされたと思いきや、ちょっとした小さなキッカケで核軍拡の方向に舵が切られます。 日本では、安全神話に乗せられて50基を越える原子炉を稼働させた結果がフクシマの事故でした。 しかしそれでもなお原発を推進しようという勢力が大手を振って闊歩しています。 世界は、またこの国は、本当の平和に到達できるのか、と不安に苛まれます。 私たちはイエスさまがお言葉をくださった平和を、どこに見出したらよいのでしょうか。

 いろいろ考えるのですが、確実な方法は何一つないように思えます。 明日の運命は誰にも分かりません。 まさに一寸先は闇です。 そこに不安があります。 不安は思い煩いになりますし、取り越し苦労になります。 そして更に不安は増幅します。 そういう私たちにイエスさまは『あなたがたに平和があるように』とおっしゃるのです。 この平和は神さまから贈られる恵みとしての平和です。 それは私たちの分裂状態の世の中から、私たちを解放してくれるものです。 人間を真に癒す力といってもよいでしょう。 私たちはそれを自分の力によって手に入れることはできません。

 神さまの前に心から静まり、謙虚に、祈ることからしか与えられないものです。 『聖霊を受けなさい』。 そうイエスさまは、今も私たちに向かって語られておられます。 聖霊こそ今日の時代に、私たちを主イエス・キリストの証人として立たせる力です。 今の時代がどんなに暗かろうと、いかに堕落していようと、そんなことが問題なのではありません。 神さまに出来ないことはないのです。 私たちがちゃんと聖霊を受けているかどうかこそが問題です。 聖霊はイエスさまの約束です。 私たちも聖書の時代の弟子たちのように、約束の霊が豊かに注がれるように祈り求めましょう。 復活のイエスさまの吹きかけられる息を感じることができるように、祈り求めましょう。


 
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