2015.4.5

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「わたしたちは、このことの証人です」

秋葉 正二

イザヤ書55,8-13; マルコによる福音書16,1-8

 イエスさまの復活の記事から学びます。イエスさまが十字架刑により殺された後、アリマタヤのヨセフという身分の高い議員が総督ピラトに許可をもらい、イエスさまの遺体を引き取り、亜麻布で巻いて岩穴の墓に納めた、とすぐ前の15章に記されています。その際、墓の入り口には石を転がしておいたとあり、それをマグダラのマリアとヨセの母マリアが見つめていたというのです。そのことがきょうのテキストの冒頭部分3節の記述につながって行きます。即ち、『彼女たちは、“だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか"』と、イエスさまの遺体に油を塗りにいくため墓に向かいながら心配しているのです。

 安息日には何も出来ませんから、それが明けた週の最初の日、つまり日曜日の早朝に女性三人がそうした行動を起こしました。金曜の午後葬られて、日曜の朝までですから一日半の時間が経過しています。香料を塗ることがどれほどの効果があるのか分かりませんが、女性たちにしてみれば愛するイエスさまの遺体をそのまま葬りっぱなしというのは耐えられなかったのでしょう。墓を見に行った女性のリストは福音書により異なるのですが、どの福音書にも共通しているのは、女性達だけであったことです。イエスさまには12弟子という男性陣がいるわけですが、復活の出来事が起こったお墓に駆けつけたのが女性だけであったということは何を意味しているのでしょうか。

 中心的にイエスさまの活動を支えていたのは福音書を読んでいく限り12弟子だと思うのですが、彼らの姿が復活の出来事が起こった現場にないというのは、ちょっと不思議です。女性たちの方が心からイエスさまを慕っていたとか、男性陣はいざとなるとだらしないものだとか、いろいろ考えてみたのですが、これはやはり出来事を伝える役割の相違ということではないかと思います。復活の最初の告知を女性達が担い、それを受けて、その後の復活の出来事の証人として12弟子たち男性が動きだす……そんな展開をそれぞれが担ったということなのでしょう。

 とにかく、三人の女性たちは岩穴のお墓をふさいでいる大石をどうしようかと心配しながら、お墓に向かっています。しかし行ってみると、4節にある通り、『石は既にわきへ転がしてあった』のです。信仰生活を送っておりますと、日頃苦にしている問題が、ある時ふっと解決しているということがあります。それは私たちが知らないところで、神さまが解決してくださったわけですが、そうしたことが信仰生活には時々起こるのです。この三人の女性たちにも起ったのです。彼女たちがお墓の中へ入ると、『白い長い衣を着た若者が右手に座って』いました。女性達が驚いていると、彼はこう言ったのです。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である』。

 「白い長い衣を着た若者が右手に座っていた」というのは妙に描写が具体的な印象を受けますが、これはどういうことなのでしょうか。これは、神さまのみ心が告げられた事実をどう表すか、という際の、福音書記者マルコの表現方法なのだと思います。既にあった復活伝承を福音書として記述するには、記すにあたっていろいろな表現が必要になってくるはずです。ですから、この若者の記事は、天使が何かを告げたというのと基本的は同じものだと思います。

 しかし、それにしてもリアルな描写です。『ご覧なさい。お納めした場所である』なんていう表現も、遺体が安置されていた場所を示しているのですが、女性たちの眼の前でその場所が示されているわけです。カタコンベなどを思い出してください。私はアッピア街道沿いに残されている地下のカタコンベを歩いて回ったことがありますが、岩の壁にたくさんの遺体を並べて葬る場所が彫られていました。かつてはそこに本物の遺体がたくさん並んでいたとの説明をしてもらった記憶があります。場所によってはしみみたいなものが見えるのですが、その場所に手を触れていると、かつて置かれていた遺体から死の現実を告げられているような気持ちになったことを覚えています。

 マグダラのマリアたちも若者の声を聞きながら、今までそこに横たえられていたイエスさまの死の現実に、まず恐怖に襲われたのではないでしょうか。8節には『女性たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた』とあります。彼女たちは思いがけない出来事を示され、驚き、恐れて慌てふためいています。それはそうでしょう。私たちは信仰を与えられていますから、復活を受けとめられますが、キリスト教のことなど知らない現代人がもしイエスさまの復活のことを初めて耳にしたら、テキストに示された女性たちと同じように、それをどう受けとめてよいのか戸惑うだろうと思うのです。

 さて、牧師をしておりますと求道者の方々からいろいろな質問を受けますが、復活に関しては、かつて私は鹿児島時代に親しく交わっていた真宗大谷派の僧侶から質問というか、意見を伺った経験があります。錦江湾を渡るフェリーの中で歓談していたのですが、彼が突然こう言ったのです。「私はキリスト教に敬意を表するけれども、人間が完全に死んで再び蘇生することはあり得ない原則だと思う。しかもそれを裏付ける厳密な証拠をキリスト教は持っていない。やっぱり復活は非科学的だと思う」。

 それに対して私もいろいろ応じたのですが、私たちはまず「科学的」という言葉について理解しておかなければならないと思います。科学的な結論というのは、昨年のスタップ細胞事件を思い出して頂くと分かり易いと思いますが、まず仮説を立てて、あることを観察し、実験し、それを根気よく繰り返して一つの法則を見出して結論とします。スタップ細胞の場合、実験に使用する細胞が間違っていたということでした。とにかくそういうふうに、仮説を確定するために根気よく実験を繰り返します。これが科学的ということの意味です。復活が非科学的だという指摘は、そういう意味では科学の対象にはなり得なません。なぜなら、聖書は、それは過去において起こったたった一回限りの出来事だと言っているからです。

 一回だけの事件というのは、科学ではなく、歴史学の問題だと思います。自然科学の研究には実験が不可欠ですが、歴史の研究に不可欠なのは、その事件に関する証言でしょう。ですから、歴史家たちは証人たちに言わば反対尋問をして、証言を批判した上で結論を出さなければなりません。聖書研究に科学的な態度が導入されたというならば、聖書学においてそれがなされなければならないということです。ですから、私たちはまず「科学的」という言葉に惑わされないことが第一です。もう一度言いますと、歴史上に起こった一回限りの出来事を自然科学の方法で見ることはできません。さらに付け加えるなら、自然科学の立場から奇跡などは絶対にないとも断言できないのです。それが証拠に、この世には人間の知識をもってしても説明できないことがあまりにも多いからです。聖書の記述に従って、私たちはいろんなことを考えていいと思います。

 テキストの三人の女性たちは一定時間気絶でもしていたのではないだろうか、とか、この女性たちの精神には異常があったのでは、とか、彼女たちは故意に嘘をついているのではないか、とかいろいろ自由に考えてみることも決して無駄ではないと思います。問題はマルコ福音書だけでなく、福音書が復活の出来事を記した後、どういう展開があったかという点です。聖書は復活されたイエスさまがたびたび弟子たちに現れたので、弟子たちは復活の証人として立ち上がっていることを示します。たとえば筆頭弟子のペテロ、彼の使徒言行録3章の大説教を読んでください。イエスさまの裁判の時、三度までも「イエスなど知らない」と否定した彼がこう言うのです。『神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です』。

 ペテロの生涯を思い返してみてください。彼は最後までこのことを証ししながら殉教していきました。パウロはどうでしょうか。彼は12弟子ではありませんが、特異な形で復活のイエスさまと出会った人です。有名なコリント前書の15章3節以下にこうあります。『最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました』。

 パウロがこの書簡を書いたのは聖書学者によれば、紀元55年の春頃です。十字架から20数年後ということになります。おそらくイエスさまの処刑後十年以内に伝承が出来上がっていたと考えてよいでしょう。ということは、パウロのこの証言を否定することのできた時代の人々がまだ生存している時に、この証言がなされているのです。私は聖書の証言の真実さをそこに見ることができると思います。それに新約聖書そのものがイエスさまが復活したからこそ出来上がったものですし、それ以後キリスト教会が二千年も存在し続けていて、イエスさまの復活を記念する日曜日に礼拝が守られていることを考えれば、わたしは彼らの証言にしっかり拠って立ちたいと思います。

 パウロは「罪の支払う報酬は死である」とロマ書で言っていますが、私たちが自分の罪のために支払わねばならなかった値は死だったのです。それをイエスさまは私たちの代わりに支払ってくださり、死を滅ぼしてくださいました。イエスさまの十字架は、わたしたち人間の罪を思い出させてくれます。そして復活は、その罪人である私たちの罪が赦された証拠を示してくれるのです。イエスさまは復活されて死を滅ぼし、私たちに永遠の生命を約束してくださっています。きょうはその感謝と喜びのイースター礼拝を守っているわけですが、こんなに嬉しい礼拝があるでしょうか。先に召された兄弟姉妹も、これから召される私たちも、共に神さまのもとにあって復活の出来事によってしっかり結ばれています。わたしはやっぱり復活こそがキリスト教信仰の中核だと信じます。私たちの命は、神にあって一つに結ばれています。お祈りしましょう。


 
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