ヘブライ書から学びます。「ヘブライ人への手紙」と表題がついていますが、新約中の他の書簡とはいささか趣を異とします。本書の中心はキリスト論ですが、大祭司キリスト論と呼ばれる独特の思想が展開されています。大祭司という名称から、その思想のよりどころは旧約聖書ということになります。さらにメルキゼデクというちょっとわけのわからない人物が本書には何度も登場しますので、読む者は少し戸惑います。メルキゼデクという名が新約聖書に登場するのは勿論ヘブライ書だけですし、旧約聖書でも創世記14章と詩編110編の2回しか出てきません。詩編の方には『あなたはとこしえの祭司メルキゼデク』とあるだけですから、「ああ祭司なのか」という以外、どんな人物か皆目見当もつきません。
創世記の14章にしても人物像はそんなに明瞭ではなく、アブラハム(当時はアブラム)がエラム王に連れ去られた甥のロトや親族の人々を救出し、その財産も取り返してソドムに帰って来た時、戦勝を祝ってソドム王が出迎える際、突然「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクがパンとぶどう酒を携えやって来て、祝福の言葉を述べるのです。曰く、『天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように』。サレムというのはヘブライ書では「平和」と説明が出てくるのですが、創世記においてはエルサレムを指しているのでしょう。創世記の場面については、ヘブライ書の著者も7章でメルキゼデクを引用しながら述べています。しかし創世記にはメルキゼデクがサレムの王であったとあるだけで、アブラハムとの関係や、なぜその場面に登場したのかという理由が分かりません。
それに比べると、本書の著者はその7章で、アブラハムでさえメルキゼデクにすべての戦利品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなに偉大であるか考えてみなさい、などと踏み込んだ言い方をしています。おまけにメルキゼデクには『父もなく母もなく、系図もなく、また生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠の祭司です』などとも述べるのです。これはおそらく、メルキゼデク伝承みたいなものがあって、それに本書の著者が自らのメシア像を被せているのです。そういう形で、本書の著者は自らの思索野中で、祭司職の歴史を織り交ぜながら新しいメシア論を展開したと思われます。もちろんそのメシアが意味するところはイエス・キリストです。まあ、メルキゼデクについてはある意味きりがありませんから、別な機会に学ぶことにして、ここまでにしておきます。
7節を見てみます。7節を読んだ時、私がすぐイメージしたのはイエスさまのゲッセマネの園での姿でした。本書の著者がゲッセマネをイメージしていたかどうかは定かではありませんが、少なくとも福音書のゲッセマネのシーンは読んでいたろうと思います。『肉において生きておられた時』というのは、イエスさまが地上におられた期間でしょう。いわゆる受肉の状態です。福音書によりますと、ゲッセマネの園でのイエスさまは、悲しみにもだえられたのですから、いわば気絶しそうになるほど苦しまれたわけです。ですから、『激しい叫び声をあげ、涙を流しながら』祈られたという姿は確かにゲッセマネの場面を彷彿させます。
本書ではキリストが祈られた対象は『御自分を死から救う力のある方』でした。この表現は著者の中にはっきりと、イエスさまの地上の生活の総仕上げとも言うべき位置に「復活」が指し示されていたことを表していると思います。イエス・キリストの生涯のハイライトはやはり復活なのです。神の子イエスの中にも、ハッキリと「自分を死から救うお方」が見えておられた、そのことがここに言われています。本書の著者は死を前にしてもだえておられるキリストを想起しているのです。今は受難節ですから、私たちも特別に、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈られたお方の存在に注目すべきでしょう。あの受難のイエスさまの中にも恐ろしい「死」の影は忍び寄っていました。福音書によれば、イエスさまの祈りは迫り来る死から免れることであったようですが、多くの受難の果てにイエスさまに襲いかかったのはあの十字架でした。ですからその意味ではイエスさまは十字架上の死から逃れることは出来なかったのです。しかし、本書の著者は『その畏れ敬う態度のゆえに』祈りは聞き入れられた、と記しています。
この表現には実は訳文の問題があります。伝統的には「畏れ敬う態度のゆえに」つまり「敬虔」のゆえに祈りは聞き入れられた、と解釈されてきたのですが、カルヴァンが「死の恐怖から聞き入れられた」と解釈して以来、どちらが聞き入れられる根拠になるのか聖書学者は論争をしてきました。しかし聖書学者でない私たちはそのような作為的な論争に振り回される必要はないでしょう。エレミアスという学者はこんな風に説明しています。即ち、「死から救う」という句は旧約では二種類の意味がある。その一つは、「近づきつつある死を免れさせる」という意味で、もう一つは、先ほど読んだホセア書13章14節のように、「すでに起こっている死の状態から救う」という意味です。前者は目前に迫った死を伴う何かの事件を思い浮かべている状態です。十字架につけるのだけはやめてくれ、といった意味です。対して後者は、一つの死という事件ではなく、罪ある人間が死に定められたというような意味の死からの解放です。ですから悪魔にすっかり魂を抜かれた人が、正義を取り戻して正常な状態に回復するといったような場合です。
このテキストでは、後者、つまりホセア書のような意味で死から免れることが語られていると思います。イエスさまは罪にまみれて死んだような人間が救われるように祈られたのです。このイエスさまの祈りは、復活という死からのよみがえりによって実現しました。だから主なる神さまに祈りは聞き入れられたのです。8節のみ言葉は、イエスさまの生き様を見れば分かります。福音書で私たちは何度となく神の子であるご自身の使命を自覚するにつれ、その使命感に従順に生き抜かれたイエスさまの姿に出会います。イエスさまは神の子であることを鼻にかけるような生き方は一度もなさいませんでした。それどころか、メシアであることを秘密にされています。9節には『すべての人々に対して、永遠の源となり』という表現がありますが、それはイエスさまがすべての人間のために、まったく私たちと同じように低みに降りられ、多くの苦難を通られたということでしょう。
主なる神さまはイエスさまに、三日目に死を克服するよみがえりをお与えになりました。ヘブライ書の著者の脳裏にはこのイエス・キリストの復活の出来事が何よりも大きなこととして意識されていると思います。この著者はメルキゼデクという新しい祭司像をイエス・キリストにおいて結実させたかったのです。旧約聖書にはいろいろな祭司のルーツ(系譜)が示されていますが、本書の著者はそうした祭司職を新しい形で、イエス・キリストという明確な存在で表したのだと思います。メルキゼデクはそれを完璧に示す大祭司像なのです。私たちはこの表象に、ヘブライ書の著者が抱いていた復活信仰を見ることができるのではないでしょうか。
先週の19日、本日の週報に記載したように東海林路得子さんの葬儀に行ってきました。夫である東海林勤先生はNCC総幹事として大きな働きをしてこられた方ですが、路得子さんもこれまた女性や子供の人権擁護のために大きな活躍をされた方です。皆さんは婦人矯風会のヘルプやステップハウスのことをご存知でしょうか。その働きは行政もできないようなことを見事に補うものです。喪主として高齢の勤先生が、どんなにやつれておいでだろうかと心配しながら葬儀に出たのですが、先生は笑みさえ浮かべて、「路得子の葬儀はやはりcelebrationだ」とおっしゃいました。葬儀が祝賀会だと言われたのです。私はこの葬儀から復活という希望を、人間を死から救うお方の力を頂いたような気がしました。
おそらくヘブライ書の著者も、そのように人を死から生かす復活を自分が身をもって経験しているのではないでしょうか。そしてその信仰的経験が、教会というイエス・キリストを信じる群れにとって隅の親石のような役割を果たしており、これからも果たして行くに違いない、と確信していたのだと思います。それを彼はメルキゼデクという名を用いながら、大祭司キリスト論という形で表したのではないでしょうか。イエスさまの祈りは、死人の中からの復活という形で主なる神さまに聞き入れられました。私たち教会に集う人間は、そのとき以来、その恵み中を歩み続けているのです。受難節はその恵みを確認するよい機会でもあります。来週はいよいよ「棕櫚の主日」を迎えます。一層イエスさまの受難を想起して、その先にある希望を仰ぎたいと願っています。祈りましょう。