2015.3.15

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「わたしの希望は揺るがない」

秋葉 正二

コリント二 1,3-7

 第二コリント書はパウロ書簡の中でも最も難解であることを幾つかの注解書は指摘しています。それはおそらく思想やそれを表現する文脈が平坦ではないからです。第一の手紙では教会に不可欠な教えなどをよく整理された表現で読み取ることができますが、第二の手紙はもっと個人的な色彩が濃くて、言わばパウロの赤裸々な自己描写の書と言えます。 パウロは喜んだり、悲しんだり、悲嘆に暮れたりするかと思えば、一転して歓喜する、というようなところがあります。すごく個人的な匂いがします。多分、パウロの人間臭さ、風貌とか年恰好とか交友関係とか、そういうことを探るには第一書簡よりこの第二書簡の方が向いているかも知れません。

 さて、きょうのテキストですが、3節ではまず神様への賛美が述べられます。これはコリントの教会が以前に比べて成長発展し、信徒たちの活動も順調だから感謝したり賛美する、ということではありません。パウロ自身が様々な苦難の修羅場をくぐり抜け、今なお苦難の中にいる、という状況の中で神様が賛美されるのです。先ず読者はこの点について驚きます。「慈愛に満ちた父」という表現がありますが、「慈愛に満ちた」というのは、遠くから慈愛の心で見守るということではなく、側に来て、その人の苦しみを一緒に苦しむという意味です。それに続くのは「慰めを豊かにくださる神」ですが、原文は「すべての慰めの神」という表現です。つまり、ありとあらゆる慰めの源泉としての神様が表現されているのです。もしその神様がいなかったら、一体この世のどこに慰めなんてことがあるのだろうか、そういう神様の表現なのです。そのように祝してくださる神様、とパウロは呼びかけます。

 そして次へ読み進めていくとすぐ気付くことは、「苦難」と「慰め」という言葉が続けて何度も出てくることです。「苦難」という語はの方は、「苦しめる」「悩ます」という動詞から出た言葉です。なんと6回も出てきます。これにワンセットで結びつけられて出てくるのが「慰め」という語です。これは有名なパラクレートスという語で、そもそもの意味は「弁護者」です。裁判で弁護する人です。「助け主」という表現をご記憶だと思いますが、その意味で用いられる時は「聖霊」と訳されます。この語もとても興味しろいのです。動詞形はパラクレオーと言いますが、パラという接頭辞は「〜の側へ」という意味ですので、これが「呼ぶ」という意味のカレオーとくっついて出来た語なのです。ですから「そばへ呼びよせる」意味なのです。そばへ呼び寄せられるのですから、呼び寄せられた人は「元気づけられ、励まされ、慰められるのです。

 この「慰め」という語も十回程出てきているでしょう。要するに、「苦難」と「慰め」の二つの言葉が結びついて用いられている点に、この手紙において一貫して示されるキリスト者の姿があるように思います。キリスト者というのは、いつも苦難から上手に逃避するので平和で幸せ、というのではなく、避けたいとは願っても寄せ来る苦難に悩む者なのだ、というパウロの一つのキリスト者像が描かれているのです。キリスト者には必ずや「苦難」がやって来る、それは一見マイナスに見えるけれども、実はマイナスではないのだ、ということを数々の苦難を背負ってきたパウロは証しします。

 そもそも神様とは一体何者なのか? ギリシャ語のセオス、英語のゴッドを明治時代に「神」と訳したのですが、日本語の「神」は、古代神道の用語でした。本来は雷あるいは虎とかヘビとか狼とか、恐ろしい動物を指す言葉であったそうです。人間にとって恐ろしい存在が日本語の「神」なのですから、そういう神に取り囲まれてきた日本人に「慰めの神」と言っても理解しにくいでしょう。初めて聖書を読まれた方は、「神」と言われても、どこか空しさを感じるかもしれません。もっともコリントがあるギリシャだって同じかも知れません。地中海の船乗りに最も恐れられたのは「海の神ポセイドン」で、その神は海を荒れさせ、船を呑み込んでしまう神でした。今でもイスタンブールにはポセイドン像があります。つまりパウロは、そういう神しか知らない人々の世界に、「慈愛に満ちた父」であり、「慰めを豊かにくださる神」を宣べ伝えているのです。

 4節、『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます』。 お分かりでしょうか。私たちは苦難が無くなって初めて慰められるというのではなく、苦難の真っ最中に、その時に慰めてくださる神様をパウロから紹介されているのです。パラとカレオーの組み合わせで、「そばに呼び寄せる」意味だと先ほど言いましたが、呼び寄せるだけではなく、「受け入れ」「慰めて」くださるのがパウロの証しする神様です。

 6節にはこうあります。『わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです』。 ここでは「慰め」が「救い」と並んでいます。その意味は、神様の「慰め」は「救いの力」なのだということでしょう。ですから、「慰められる」ことは「救いの力」の経験でもあります。そして、その慰めの力は他者へも及んでいくのだということが4節の後半に書かれてあったのです。

『わたしたちも神からいただく、この苦しみによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができるのです』。

 私たちは常に何か願い事を抱いていると思いますが、一所懸命祈っても祈っても願い事が叶わないと捨鉢になることがあります。祈るのも聖書を読むのも止めちまえ、と自暴自棄になったりします。でもパウロはそうではありません。神様は何でも出来るお方だ、と言うのです。アブラハムは、死人を生かし、無から有を生み出す神を信じた、(ローマ4:17)とありますが、そういうことを言っているのではないかと思います。私はときどき星野富弘さんの本を見ます。星野さんの絵にはたいてい言葉が少し添えてありまして、それが珠玉の輝きを放っています。彼は紛れもなく詩人です。そこには神様に向かって、身体が不自由で信仰のない私を助けてください、という実に素直な告白を聞くことができます。自由に身体を動かすことができる私たちはなかなか神様に向かって素直に弱さや苦しみをさらけ出すことができないのです。星野さんは身体は不自由になったけれども、引き換えに特別な恵みを頂いて、実に素直に「慰め主なる神様」に向き合われていると思います。

 同じことを神学生時代にも経験しました。当時、私は夜間の神学校に通いながら、昼間月刊雑誌の編集の仕事をしていたのですが、毎月編集部にある一人の人から決まって詩が投稿されて来ました。何とも素直な、幼子のような詩に驚いていたのですが、それは有名になる前の水野源三さんでした。彼もまた首から下の自由を奪われた方でした。きょうのテキストの終りの部分には、「慰めを共にする」ということが述べられています。パウロの脳裏にはその時、十字架のキリストの姿があったのではないでしょうか。イエス・キリストは十字架上で最大の苦難を味わわれました。そのキリストだからこそ、自分の苦難がすべて包み込まれ、そこには神様の慰めが溢れている、そのことにパウロは気づいたのです。欠点が多くて失敗者である自分を、同じように究極の挫折である十字架を背負って苦しまれたキリストが受け止めてくださる、受け入れてくださる、そこに神様がおられるのだ、そこに慰めが溢れているのだ、とパウロは告白しているのではないでしょうか。

 この信仰に、身体の不自由な星野さんや水野さんは実に素直に気づいたのです。そしてご自分を素直に預けておられます。健常者と呼ばれる私たちはだいぶ遅れているようです。さて、5節の「満ち溢れている」というのは、境界線を超えて溢れ出て行くことです。6節7節では「あなたがた」が何度も繰り返され、パウロたちが与えられた神様からの慰めは「あなたがた」にこそ満ち溢れて、あなた方の救いと忍耐と希望となることが述べられます。  私たちも慰めの共同体を形成できたらどんなに喜びに沸き上がることだろうかと思います。代々木上原教会がそのような共同体に成長していったらいいですね。祈りましょう。


 
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