きょうのテキストには三人の人物が登場しています。名前などは出てきませんが、文脈から三人ともイエスさまへの弟子志願者と思われます。最初の人はイエス様に向かって『どこへでも従って参ります』と言いましたが、イエスさまは「はい、分かった」とはおっしゃらずに、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』と、取り合われませんでした。次の人にはイエス様の方が『わたしに従いなさい』と声をおかけになったのですが、この人は『まず、父を葬りに行かせてください』と願って、すぐには従いませんでした。これに対するイエスさまの言葉はかなり厳しいもので、『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』というものです。これは、ユダヤ教社会では父母の葬儀はその家族にとって何よりも重要であったことを十分わきまえた上で、そう返されたものです。ここから読み取れることは、イエスさまの弟子になって従うことは、社会的な義務を果たすことに優先するのだ、という言外の意味でしょう。そして三番目の人も似たようなことを願い出ています。『まず家族にいとまごいに行かせてください』。これに対するイエスさまの応答の言葉は、62節の『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』でした。はっきり書いてありませんが、どうやら結果的に三人は弟子として合格しなかったようです。12弟子もイエスさまのことをラビ(先生)と呼んで従ったわけですから、イエスさまと従う人の間には師匠と弟子の関係が見て取れます。
さて、この話の背景には旧約のエリヤとエリシャの物語があることが指摘されています。エリヤとエリシャは、北王国に持ち込まれた異教の信仰バアル崇拝に徹底的に対峙した前期預言者の双璧ですが、二人には明確な師弟関係がありました。先ほど読んだ旧約の列王記上のテキストがそれなのですが、エリヤがエリシャを弟子にする場面を下敷きにして、ルカはこの話を書き記したと見られているのです。すぐに弟子として採用しなかった点など、共通点がいくつもありますいが、決定的な違いもあります。イエスさまは登場した三人を結局弟子にはされなかったようですが、エリアははっきりとエリシャを後継者に据えました。そしてとても興味しろい場面描写だと思うのですが、エリヤがエリシャを弟子にする場面では、なんとエリシャは12軛の牛を前に行かせて畑を耕しているのです。もともとエリシャは農民だったのでしょう。ルカは伝承物語にこうした話を下敷きに加えながら、きょうのテキストを書き記したと思われます。
ところで、私にとって一番印象的だったのは、エリシャが牛を使って畑を耕しているシーンをイメージされながら、イエスさまは三番目の弟子志願者に言葉を返されたであろうと思われることです。曰く、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』。イエスさまが民衆の視点を持たれていたことは確かだと思いますが、ユダヤ人社会における「鋤」という農具が持ち出されたことに興味を覚えます。もっとも、鋤と言っても、中高生などの若い世代にはもう通じないかも知れません。鍬の先を櫛状にした道具などですが、ここでは牛や馬に引かせて土壌を耕す農業用具です。ギリシャ語本文はアポトロンという語ですが、「耕す」という動詞から来ている言葉です。辞書を引くと金偏に助けると書く「鋤」のことだと説明が載っていましたが、その「鋤」が手で使う鋤なのか、牛馬に引かせる鋤なのかの説明はありませんでした。イエスさまはもちろん牛や馬に引かせて土壌を耕す道具としての鋤を引用されたと思います。
まあ、どちらにしても、一旦鋤に手をかければ、しっかり前を見て畝が直線になっているかどうかを見ながら上手に鋤を操作しないと、畝は曲がってしまいます。九州時代、教会員に農を営む青年がいましたが、彼の話では鋤の使い方がしっかりしていないと、畑の畝造りという耕作仕事は台無しになってしまうということでした。とにかく、イエスさまの時代の労働でもっとも厳しかったのはやっぱり農耕だったでしょう。当時の仕事とは、兵士や金貸しなどいろいろあったはずですが、地味で目立たず、一日もおろそかに出来ないという点では、農耕が一番厳しかったのではないかと思います。聖書の中からその理由を探すとすれば、たとえば、「テモテ後書」2章4節以下に、兵役や競技者を引き合いに出した上で、『労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです』とあります。今でこそ農業は機械化されて、耕すことも苗を植えることも、あるいは収穫さえも場合によっては機械がやってくれますが、農に関する仕事というのは、イエスさまの時代はもちろん、日本でも外国でもほんのちょっと前まではほとんど直接的な人力で行われました。とにかくそれは大変な重労働です。現代人の私たちは、草むしり一つとってもフーフー言う始末ですが、人間が汗水垂らして農作業をやらなくなったことは、社会的に見て、人間世界を大きく変えてしまったのではないか、などと私などは考えてしまいます。イエスさまもご自分が労働者の一人であり、旅先では幾多の職に精を出す労働者を見ておられたはずですから、どんな仕事が一番きついのか、よくご存知だったはずです。ですから、この譬えでは、農耕がどれほど大変かを熟知された上で、農夫が鋤という農具を使って労働する姿をイメージされたのでしょう。
さてテキストの記述に戻りますが、ここでは鋤に手をかけながら後ろを振り返るという行動が、せっかくイエス・キリストに従おうとしているのに、『神の国にふさわしくない』行動になってしまう、と指摘されています。これは言うなれば、イエスさまが与えてくださる神の祝福を、と言うか「神様」そのものを逃してしまいますよ、という忠告です。もしそんな行動を取れば、もうすべてがどうにもならなくなりますよ、ということです。私は高校1年生の時に受洗して、大学を卒業する頃には伝道者になろうという志を懐くようになっていましたが、本当にそれでいいのか、しばらくの間迷いました。今でも思い出すのですが、あらためて新約聖書を読み直した時、このテキストにつき当たったのです。何かドキッとしたのを覚えています。もし伝道者の道に進まなければ、聖書を読まなくなるどころか、キリスト教からも離れてしまうような気がしました。多分それは当たっていたろうと思っています。ですから、後になって回顧すると、この62節は私にとってかなり大きな意味を持っていたと思います。
さて、私たちの人生はひとつひとつ異なり、同じものがありません。同じようなコースに進んだとしても、予想したように進路は開けてきませんし、途中で病気になったり、死ぬことさえもあります。だからこそ、この62節にあるようなイエスさまの言葉をしっかり受けとめて歩むことが大切だと思うのです。伝道者になってもならなくても、教会生活を送っていれば、ここにあるように、そのまま素通りできない言葉として、イエスさまから呼びかけられる「時」というものが巡って来るのではないでしょうか。キリスト者である以上、誰でも一旦はイエスさまに従う道を進もうと決心しているわけですが、この言葉に遭遇する度に、私などは後ろを振り返っている自分に気付かされます。私たちの日常生活の用事にはくだらないこともたくさんありますが、ほとんどは結構大事なものだと思うのです。家計のやりくりとか、子供たちの教育のこととか、およそ生活設計に関わることはみんな大切です。そこで繰り広げられることは、先ずこれを済ませてから、次にあれを済ませてから…………とやって行って、忙しい中で大抵後回しにされることの一つが聖書を読むことです。これは「聖書を御言葉として味わい、祈る」ということの省略に他なりません。イエスさまがせっかく与えてくださろうとしている祝福から自分で遠のくことになってしまうのです。後ろを顧みる、振り返るということはそういうことを指しているのではないでしょうか。
ところで、「後ろを振り返る」と言えば、創世記のロトの妻の話を思い出します。創世記19章のソドムの滅亡のシーンです。神様の導きでアブラハムの甥のロトが身内の者を連れてソドムの町を逃れる時、神様は“後ろを振り返ってはいけない" と言われました。けれどもロトの妻はそれを守らず、後ろを振り返ったので「塩の柱」になった、と書いてあります。イエスさまの厳しいお言葉は、もしかしたらエリシャだけでなく、創世記の故事をも念頭に置いて出たものであったかも知れません。とにかくあらためて思うことは、イエスさまの62節の言葉は、私たち人間に対する警告というだけではなく、私たちを救いと祝福に導こうとされる深い配慮ではないかとも思います。イエス・キリストに従うということは、誰でも自分に負わされた十字架を負いながら、イエスさまを見失わないように、心して歩むということでしょう。おそらく大抵の場合、人間にとってその道のりは、厳しく見えるはずです。しかし、隠れて見えないけれども、私たちは既に「神の国」の祝福に与りつつ歩んでいるのではないでしょうか。人生の他のことはちゃんと片付けることができてうまく行ったと思っても、肝心の神様からの祝福を失ってしまったら、何にもならなくなってしまいます。ですから、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない』というのは、お叱りの言葉であることに間違いはないと思いますが、同時に、神さまから離れてしまいそうな人間に対する、イエスさまの慈愛溢れた言葉でもあるのです。
こうしたお言葉がなければ、私たちは、全員神さまから離れてしまう結果になるのではないか、とさえ思います。たとえ情けなく見えるような信仰生活であっても、私たちはこれまで導かれて来た信仰生活を捨ててはなりません。我が家の居間には長い間、二人の弟子とエマオへ向かわれるイエスさまを描いた絵が飾ってありました。古くなって色あせてしまったのでもう始末したのですが、スイスの画家ロバート・ズントの作品です。いつもその絵を眺めていて思ったのですが、私たちの人生はどこかに不安を抱えていて、心細い想いで道をトボトボ辿っているようなものだな、と感じていました。これから先どうなることかよく分からないまま、トボトボ慣れない道を進んでいる…………、けれども気がついてみると、いつの間にか、イエスさまが一緒に歩いていてくださる、そんなものではないかと思います。人生の道というのは、どの時点で区切ってみても、そこから先は歩いたことのない道を行くということでもあります。その道が通ったことのない夜道みたいだったらどうしよう、などと心配になりますが、神さまの恵みというのは、ちょうと夜露みたいなもので、私たちが気がつくとしっとり濡れているのです。夜道を歩いている時は露に濡れることなどまったく予想していなくても、神さまは夜道を心細く歩む私たちの人生をちゃんと気にかけていてくださって、恵みの露で潤してくださっているのです。この世の生活がうまくいって順風万帆でも、うまく行かずに不安で仕方なくても、すべての人生は神さまのみ手の中にあります。今、もう一度、覚悟をもって、後ろを振り返るようなことをせずに、全人生を神さまに委ねて生きてまいりましょう。祈ります。