受難節に入りました。昨年も同じテキストから学んでいますが、今年もローズンゲンに基づいてマタイ福音書の「悪魔の誘惑」の記事から学びます。何度も読み返してきたお馴染みのテキストですが、今年もここから今日的な意義を取り出してまいりましょう。テーマは「誘惑」です。このテーマは旧約にも共通にありまして、例えば創世記の冒頭部分から最初の人間であるアダムとエバが蛇の誘惑に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、罪を犯したことが記されています。対して、きょうのテキストでは、イエスさまは悪魔に試みられましたが、旧約聖書の言葉によってそれを見事に退けたことが記されています。この旧約と新約の二つの記事を対照してみると興味しろいことが浮かび上がってきます。アダムとエバは善悪の知識の木の実を取って、つまり神さまのようになろうとして本来人間があるべきところから堕落してしまったのに対して、イエスさまは神さまを試みることを拒否されて、ひたすら神さまにのみ仕えることを明確にして、人間の真にあるべき姿を示されておられるのです。
マルコとルカにも並行記事がありますが、マタイ福音書は悪魔によって三つの試みがなされたことを記しています。すなわち3節の「石をパンに変えよ」という誘惑が第一。次は5,6節の「神の力を試す」誘惑。三つ目は8,9節の「悪魔と手を組んで、この世の栄華を物にするように」という誘惑です。誘惑の最大の特徴は魅力的ということでしょう。私たちはこの魅力的にとても弱いのです。私は自分にあてはめて考えてみました。魅力的なお金の力、魅力的な女性、魅力的な音楽や美術、魅力的な本の世界などなど、数え上げて行くとキリがありません。対象は違うかも知れませんが、皆さんの周りにも魅力的なものはたくさんあるでしょうから、多分私と同じでしょう。魅力的なものは、あたかもそこに新しい世界が開けてくるかのような錯覚を抱かせるのです。イエスさまを誘惑した悪魔の武器は、魅力的な言葉の巧みさでした。
しかしイエスさまは、最初の誘惑に対して「人はパンだけで生きるのではなく、神の言によって生きるべきこと」を明確に宣言されています。それは申命記8章3節のみ言葉でした。二番目の誘惑に対しては、「神である主を試みることを否定」されました。申命記6章16節のみ言葉です。そして最後に「ひらすら神である主を拝み、主にのみ仕えよ」と命じられるのです。これは申命記6章13節のみ言葉でした。誘惑に弱い私たちと決定的に違う点は、これらのことを一点のあいまいさを交えずに言い切っておられることです。これはもう神の子と認めるしかありません。この姿勢あらばこそ、後の受難という最大の苦しみにも耐え得たのだと思います。
さて、今誘惑についてあれこれ考えているのですが、私が今一番気になっているのは、日本社会の雰囲気です。とんでもない人たちに政権を委ねてしまったために、日本社会全体が彼らの吐き散らす毒気にあてられているように感じます。その第一は平和憲法をないがしろにしつつある動向です。閣議決定で自分たちの思いを実現しようと舵を切って以来、やりたい放題という気がします。先週はとうとう自衛隊活動を大幅に拡大しようとする政府案を示しました。周辺事態法では地理的な制約も撤廃してしまおうという方針だそうです。そうなれば自衛隊の活動に歯止めはかけられなくなるでしょう。なぜこんなことになりつつあるのか? それは権力を握る人たちが、世界の不安定な状況を目にした時に悪魔の誘惑に乗ってしまっているからです。ご当人たちはそんなことを勿論認めないと思いますが、私はきょうのテキストを読みつつ日本社会全体が「いざという時、武力行使出来るようにしておかないと大変なことになるよ」という悪魔の巧妙なささやきに耳を傾けつつあると思っています。こういう時こそイエスさまのような毅然とした対応が求められるのです。
そんなことを考えながらもう一点気付かされたことは、1節にある『悪魔から誘惑をうけるため、“霊”にかれて荒れ野に行かれた。』という言葉の重要性です。「“霊”に導かれて」というのは、イエスさまご自身の計画によったのではないということです。表面的には何の変哲もなく荒れ野に行かれたように見えても、内面的・精神的には、目に見えない力によって荒れ野目指して進まざるを得なくさせられています。私たちが「自分の意思で」と言う時には、常に自分だけを喜ばせようという力が働いてしまうのですが、イエスさまのように、100パーセント神さまに従う人にとっては、自分の意思ではなく、そうせざるを得ない思いにかられて行動することが起こり得るのです。
荒れ野には通常野獣がいて、これは怖い存在ですが、実は悪魔というもっと怖い存在がいたわけです。私たちはこのテキストを読んでいると見るからに恐ろしい存在として悪魔の姿を想像しがちですが、実は悪魔とは見えざる力と言った方がよいと思います。目で確かめることができれば、さほど怖いことはないのです。悪魔の誘惑が怖いのは、私たちの心の中に一見物静かにささやき始めるからです。「信仰などと言ったところで、現実的には意味がないよ、もっと具体的に軍事的必要性を考えた方がいいよ」なんていうささやきは、その最たるものでしょう。信仰生活に入ると何だか力強い安心できる世界に入るようにも感じますが、人が信仰をもって歩もうとした時にだけ覚える誘惑だってあるのです。ですから信仰生活に完成はありません。信仰者は漫然と惰眠を貪ることは許されないのです。そういう意味で人間に一番大切なものは神さまの言葉です。私たちには聖書から神さまの意志を伺い、それを重んじることが求められています。イエスさまはそれが何よりも必要であることを悪魔と向き合うことでお示しになりました。私たちは今、イエスさまから人間の生き方の根本原理を学んでいます。「神さまを知ることは、すべての人の本分である」、これこそがイエスさまの示された人生の原理です。神さまに従って生きる人生には、行き詰まりはありません。