2014.1.18

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「新しい“しるし”」

秋葉 正二

創世記1,31ヨハネによる福音書2,1-11

 本日のテキストは「カナの婚礼」」と呼ばれる有名な箇所です。1章には洗礼者ヨハネと最初の弟子たちの記事がありますから、このテキストはイエスさまのガリラヤにおける最初の活動記録の一つでしょう。舞台は婚礼の披露宴、ガリラヤのカナという場所です。イエスさまの母マリアは披露宴を取り仕切っている一人のようにも見えます。きっと親しい人の結婚だったのでしょう。弟子たちも招かれています。ユダヤの婚礼はとても派手だったようで、花婿が花嫁を迎えに行き、自分の家に連れてきます。そこで親類縁者や友人を招いての宴会となります。披露宴は興に乗ると一週間も続いたと言いますから、夜通し語り合い、歌ったり踊ったり、何とも大変な行事だったようです。主催者も招待客も疲れたことだろうと余計な心配をしてしまいますが、それはそれとして、そこには「ぶどう酒」が振舞われましたから、人々は心楽しく喜び祝うことでできたのでしょう。詩編に『葡萄酒は人の心を喜ばせ』という表現がある通りです。

 福音書記者ヨハネは随分考えた末に、この話を1章に続く最初の部分に持って来たのだろうと思います。と言いますのも、1章には最初に申し上げた通り、洗礼者ヨハネの記事がありました。彼は人々に悔い改めを強く迫った人物ですから、当然その周囲には信仰生活における厳しい空気がみなぎっていたはずです。そういう雰囲気を含む記事のすぐ後に、ヨハネは喜びや楽しさが一杯の婚宴の記事を配置したわけです。ですから1章から2章への移り変わりは厳しさから喜びへの移り変わりと言えるかも知れません。ヨハネ福音書は神秘主義を内包していると言われますが、こうした話の配置は神秘主義を表現していく際の工夫なのかも知れません。

 とにかく物語の中身を見て行きましょう。宴もたけなわになってぶどう酒が足りなくなってしまいました。3節です。集まった人たちの心をまろやかにする重要な道具がなくなってしまったという事態です。予想人数を越えていたので、用意していた分量が不足したということなのかも知れません。母マリアは「何とかして欲しい」という気持ちだったのでしょう。息子に声をかけます。『ぶどう酒がなくないました』。これは不足してしまったという事実の指摘だけですから、ストレートに「何とかして欲しい」という依頼を避けているような気もします。母マリア息子に対して何か只者ではない、というような直感を抱いたのでしょうか。この遠慮がちな物言いに対してイエスさまは答えます。4節、『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです』。何と素っ気ない冷たい言い方でしょうか。ギリシャ語本文もシンプルで、「 イエスは彼女に言う」というS+Vの後に、述語を省略した目的格があります。

 英語のWhatにあたる語と「私とあなたに」という語が並んでいます。これを『わたしとどんな関わりがあるか』と訳しているわけです。「わたしとどんな関わりがあるか……」、実に冷たい言葉です。しかしヨハネが伝えたかったことは、すぐ後に続く『わたしの時はまだ来ていません』という部分でしょう。細かいことは省きますが、7節以下には、イエスさまが召使いたちに甕一杯に水を汲ませ、それを宴会の世話役のところへ持って行かせると、水はぶどう酒に変わっていたという奇跡が記されています。この奇跡によりイエスさまは「栄光を現した」とヨハネは記しているのですが、これが「最初のしるし」だと言うのです。

 「最初の」とある通り、ヨハネ福音書ではこの後、イエスさまは人々が驚くような「しるし」をたくさん示されます。その結果、人々はイエスさまのことを「預言者」と見たり、「救世主」と見たり、いろいろな反応を示すのです。つまりヨハネは、この福音書でたくさんのイエスさまの奇跡を記すことによって、この世界はイエスさまが放つ「しるし」に満ち満ちていますよ、と宣言をしているかのようです。

 ご存知のように、ヨハネ福音書成立の背後には、彼を中心とした教会グループがありました。ヨハネ共同体などと呼んだりするのですが、その共同体の意識がこの福音書には反映しているのです。共同体に属する人たちの立ち位置から見ると、この世に向けたイエスさまの奇跡が次々と示された時に、それに遭遇した人たちに「しっかり“しるし”を見なさい。イエスさまというお方はこんなにも凄いお方なんですよ」とメッセージを送りながら、自分たち奇跡が示される舞台裏にいて、奇跡に出食わした人たちの反応を窺っている、そんな構図があるような気もいたします。それはおそらく当時の教会の一つの存在の仕方だったのでしょう。もっと言えば、教会の外の世界に向かって、自分たちは神さまに近い位置取りをしている自負のような感覚があったのかも知れません。無意識なのかも知れませんが、奇跡という神さまの「しるし」を使いながら、「皆さん、この凄いしるしの意味が分かりますか」と世間に問いかけているのかも知れません。

 だとすると、それは現代の私たちへの問いかけと理解してもいいでしょう。テキストの流れに戻りますが、イエスさまの返答の鍵は、やはり『わたしの時はまだ来ていません』にあると思います。この返答が母マリアとの間に交わされたものであることを思い返してみてください。マリアは息子が只者ではないと漠然と感じていたとしても、息子だから何とかしてくれるだろうとどこかで思いつつ、『ぶどう酒がなくなりました』と言っているのではないでしょうか。それに対してイエスさまは先ほど「素っ気ない、冷たい」と言いましたが、マリアとはまったく違う視点から返答されているのです。イエスさまはガリラヤ宣教を開始する時点で、既に父である神さまの意志を感じ始めておられたに違いありません。ですから、たとえ相手が母であっても、イエスさまにしてみれば、人間の意志を神の意志に優先させることは出来なかったのです。『わたしの時はまだ来ていません』、これは神の意志が人間に理解されるには、もう少し「時」が必要だという指摘です。

 この言葉には、人間の時間に対する認識を超えた、いわば神の時間が介在していると言えるでしょう。ですから、「わたしの時」という表現は、神の子として神の意志を実現する「時」を意味します。もっと具体的に言えば、「十字架と復活の時」ということになります。ヨハネにとってイエスさまがなされる「しるし」というのは、奇跡を行う能力としての「しるし」ではなく、まったく新しい恵みと真理を示す権威の「しるし」と言えます。おそらくヨハネは一人の信仰者として、そのことを後世の人々に伝えたかったのです。そして、このカナの婚礼の物語で、イエスさまが行われた「しるし」が宴席に集まったすべての人たちにではなく、一部の人たちにしか知らされなかったということが意味を持って来ることに気づきます。

 物語の形式としては「しるし」を表現している話なのですが、結局宴席に集まった人々の大半は「しるし」なんかに気づかずに、にわかにおいしくなったぶどう酒にもっといい気持ちになって、「乾杯っ!」なんてやっているわけです。それでいいのです。何と言いますか、ここで描かれている「しるし」は、ほとんどの客が知らなかった「しるし」で、言わば「しるし」になっていない「しるし」なのです。ヨハネにとっては、奇跡を行う能力がイエスさまという存在を重要にしているわけではないのです。多くの人が目にして驚くような奇跡よりもはるかに大きな栄光がイエスさまにはある、このことをヨハネは証ししたかったのではないでしょうか。

 だいぶ理屈っぽいことを申してしまいましたが、ヨハネ福音書はアレキサンドリアのクレメンスが2世紀に指摘したように、霊的な書物だとあらためて思います。ヨハネ福音書のイエスさまは、共観福音書に比べればかなり表現方法の異なるオリジナリティー豊かな神秘的精神を伝えるイエス・キリストなのです。奇跡を行って人々を驚かすことなどよりも、はるかに大きな栄光がイエスさまにはあり、主なる神さまから生まれた独り子としての栄光がある、そういうことをヨハネはこの福音書の結論として言いたかったのではないでしょうか。ヨハネは十字架と復活を信じる信仰者として、イエスさまと人格的に出会いたい、できればイエスさまと人格的合一を果たしたい、という願望があったに違いありません。

 この「カナの婚姻」の記事を読んでいて、私も信仰者としてそのくらいの神秘性を求めてみたいものだと思いました。皆さんも皆さんなりのイエスさまとの出会いを求めて頂いたらよいと思います。それを可能にしてくれるのは聖霊だけです。11節に『それで、弟子たちはイエスを信じた』とありますが、この時弟子たちは聖霊を受けたに違いありません。このイエスさまのガリラヤのカナにおける第一歩によって、新しい創造が開始されました。この記念すべき第一歩によって、ユダヤ教はイエスさまによって乗り越えられ、新しいキリスト教への歩みが始まりました。私たちはこのイエス・キリストの新しい創造の業に参与させていただいています。これは恵みであり、こんなに大きな喜びは他にはありません。祈りましょう。


 
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