2014.1.11

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「わたしの愛する子、心に適う者」

秋葉 正二

イザヤ書42,1-4マタイによる福音書3,13-17

 イエスさまはガリラヤのナザレという町でお育ちになられたのですが、ガリラヤ湖を中心としたガリラヤの町々村々は都であるエルサレムよりはずっと強く外国の影響を受けていたと言われます。ローマ軍の駐屯地がありましたし、交通路から見ても東西のジャンクションの役割を担っていました。作家の遠藤周作はそのあたりのことに随分こだわっていまして、子どもの頃に育った環境が後の活動に大きな影響を与えていると指摘しています。エルサレムはローマ帝国支配下とは言え、一応王である領主もいますし、ダビデ,ソロモン以来の伝統を残していますからいろいろな意味でイスラエルという国を代表する特徴を備えています。もちろん伝統の第一は信仰に関わる領域で、律法を中心に据えた様々な神殿儀式を守り続けていました。ゼーロータイ(熱心党)のような政治集団の活動にしても、活動の中心はエルサレムに置いていましたが、ただいたずらにローマに楯突いていたわけではなく、そこには大神殿を象徴的に抱えて、自国の歴史や文化・宗教に対する確固たる誇りがありました。つまりそういった保守的なナショナリズムのような感覚はエルサレムが最も強かったわけです。もちろん生活レベルもそれなりに高かったでしょうし、それに比べれば、ガリラヤなどは過去に外国の入植政策なども受けており、無防備にギリシャ・ローマ文化の影響を受けやすかったわけで、エルサレムに生まれ育った人に比べれば、貧しいながらも思想的にはガリラヤ人の方がずっとリベラルだったと思います。

 イエスさまもガリラヤ育ちですから、当然そうしたリベラルな空気に触れていたはずで、その影響は無視できません。ですからイエスさまが自国の宗教・文化・政治をご覧になる視点は、エルサレムの住民たちよりはずっとリベラルで、彼らよりははるかに厳しいものだったと思うのです。宗教という点では、エルサレムには大神殿がありましたから、本来ならばそれにふさわしい高い倫理性を保った信仰を保持していなければいけなかったのですが、事実は正反対だったようです。だからこそ洗礼者ヨハネなどはそうした点を厳しく突いたわけで、エルサレム宗教の持つ信仰的矛盾点を厳しく指摘したのです。洗礼者ヨハネは中心点として激しく悔い改めを説いたのですが、そうした主張に賛同されたからこそ、イエスさまもヨハネ集団に加わっていたのだと思います。

 さて、きょうのテキストは、そのヨハネからイエスさまが洗礼を受けられた場面です。よく指摘されることですが、罪のないイエスさまがなぜ人間ヨハネから洗礼を受ける必要があったのでしょうか。神学的な説明もいろいろありますが、私は単純にヨハネの信仰者として生きる姿勢に賛同したからだと考えています。洗礼は悔い改めの象徴ですが、私たち人間が洗礼を論じるとすれば、それこそ百家争鳴の意見が飛び交うことになりますが、良い意味で論争を続けていくことには意味があります。しかしやっぱりある程度の基準は必要になるでしょう。

 以前鹿児島で牧会していた時代、隣町に高齢のアメリカ人女性宣教師が住み着いておられました。もう亡くなりましたが、スージーさんとおっしゃって、戦後すぐに「この地が私の伝道地だ」とのみ声を聴いたので住み着いた方です。高齢でご不自由されていたので、私もいろいろお手伝いしましたが、困らされたこともたびたびでした。生活上の事柄は困らされても笑って済ませられるのですが、この宣教師は誰にでもすぐに洗礼を授けてしまうので閉口しました。数え切れないほどの人たちに洗礼を授けて来られたのです。何しろ初対面でもちょっと話して、相手が話を聞いてくれたと思えばすぐ授洗です。ですから彼女からかつて洗礼を受けた人たちは鹿児島県内にかなり散在しています。しかし教会につながっている人がいないのです。かつて近所に住んでいた人たちはさすがに彼女の小さな伝道所で礼拝生活を守っていたらしいのですが、やがて引っ越されると教会には結びつかないのです。県内各地でふとしたことで彼女から受洗したという人に何人か会いましたが、皆さん、彼女と初めて会った時にキリスト教の話を聞いて、その場ですぐ洗礼を施されたというのです。誰にでも洗礼を施しますから、私たちの教会のように受洗者の記録もなければ、教会員名簿もありません。もちろんスージー宣教師は洗礼を授けた人の名前を覚えていません。「イエスさまは人を差別されません。誰でもすぐイエスさまにつながることができます」というのが当のスージー宣教師の口ぐせでした。確かにそれはそうなのですが、洗礼を受ける人の名前も問わず、最初の出会いですぐ授洗というやり方には困りました。

 テキストの話に戻りますが、私はイエスさまがヨハネから洗礼を受けたのは、先ほども申し上げたように、ヨハネの信仰姿勢に同調されたからだと思っています。ヨハネの信仰者としての本当に真面目な生き方に自然に同調されて彼の前に進み出たのではないでしょうか。イエスさまはメシアとしての自分とヨハネを比較して受洗されたわけではありません。素直にヨハネの主張に賛同されたのです。そしてその時に神と人とを隔てる中垣が取り除かれたのです。ですからイエスさまの受洗は神さまの人に対する愛の表現だと思います。17節にはその時神の霊が鳩のようにイエスさまの上に降って、天から『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と声が聞こえたとありますが、これは神さまの「これでよし」という声でもあるでしょう。

 この声とは、旧約聖書の「詩編」と「イザヤ書」からの引用ですが、詩編2編は王の即位式の歌でして、そこに謳われているのは、全世界を治められる真実の王の誕生と即位です。詩編の表現では『お前はわたしの子、きょうわたしはお前を生んだ』です。この世を真に治める王に、創造主なる神が愛情をもって語りかけている場面です。「イザヤ書」の方は、有名な「第二イザヤ」の〈苦難の僕〉の召命記事ですが、「イザヤ書」の方にはこうあります。『見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。』 〈苦難の僕〉という表現は、贖罪に関する思想から出た言い方で、最初は民族的な発想から始まって、徐々に人格的な色彩を帯びて、終わりには一人の人物、メシアとして描かれて行きます。イエス・キリストという、神さまが自ら犠牲になって人々を救い出す贖罪が謳われています。そしてこの言葉は同じマタイ福音書の17章でも引用されるのです。例のイエスさまが三人の弟子を連れて高い山に登られた記事です。イエスさまの姿が輝き出し、モーセとエリヤが登場して三人になると、ペテロは思わず“主よ、仮小屋を三つ建てましょう”なんて言い出すのですが、その時雲の中から聞こえてきた声が“これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者”なのです。これはきっとマタイが、この言葉の中に、メシアの歩まれる道を信仰的に読み取ったということではないでしょうか。

 メシアの歩まれる道とは贖罪の道です。神の愛された独り子は、世界の王であると同時に、人間の苦しみを担われて十字架にかけられた僕です。ですから、イエス・キリストの全生涯は王としての顔と、僕としての顔の両方を持たれた生涯でしたが、自分の中にメシア性を自覚し始めてからは、「わたしの思いではなく、神の御心がなるように」と祈りつつ歩まれたのです。そうした生涯が私たちに教えてくれることは、神さまは徹底して私たち人間を愛し、人間のために歩まれているということです。私たちはそういう内容を持った信仰を与えられています。ですから私たちも神さまがそうされたように、人を愛して生きるべきです。キリスト者は意地悪人間になってはいけないのです。くれぐれも、泣く人を見てあざ笑うような者になってはなりません。イエスさまの受洗は、私たちがキリスト者として生きる最初の方向性を示してくれる重要な出来事であることを今更ながら思わされます。ご一緒に祈りましょう。


 
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