2014.12.21

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「神によって生まれた」

 廣石 望

ヨハネによる福音書1,1-13より

I

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。

 日本では、クリスマスにサンタクロースが子どもたちのところに来て、プレゼントをくれます。親でも祖父母でも親戚でもなく、まったくの見ず知らずの人が私を愛し、私の成長をかげで見守り、こうして毎年ちゃんと贈り物を届けてくれる。この経験が、成長してゆく子どもたちにとってどれほど大切なことか、私たちは知っています。

 大人になってゆく若者たちは、しばしば「私は何になればいいのか?」と自問します。姉妹や兄弟あるいは友人、ましてや親と比較されると、たいてい情けなくなります。私のしたいこと・私だけにできることは何なのでしょう? 手相でも占ってもらおうかしら…。

 大人になっても、人生は思いどおりに行きません。病気になったり事故に遭ったり、仕事の上で思わぬ失敗があったり、あるいは家庭の事情で何かを諦めたりすることあります。社会があまりに貧困であったり、紛争や戦争に巻き込まれる人々も、この世界には今もたくさんおられます。自分の子どもが期待通りに育たないとき、それは親にとっても、また子どもにとっても苦しいことです。大人に思いつくのはせいぜいお金を貯めることくらい…。

 人間はちゃんと生きていくためには、不安や苦しみがあっても持ちこたえてゆくための助けや守りが、つまり自分を超える力への信頼が必要なのです。伝統的な宗教があまりに古臭くて頼りにならず、また新しめの宗教が胡散臭く見える現代日本にあっても同じことです。お金や権力、名誉への欲望の背後にも、自分の外側に救いを求める姿が透けて見えます。

 古代ギリシアの悲劇詩人ソポクレスに、次のような一節があります。

不思議なるものあまたある中に、
人間にまさって不思議なるものたえてなし。(柳沼重剛訳)

 「不思議なるもの」の原語「デイナ」は「素晴らしい」「神々しい」「恐ろしい」というほどの意味です。人間は偉大なことを成し遂げたり、あるいは信じられないほど非道なこともしてのける生き物であると同時に、運命に翻弄されながら、人を超えるものを内側から求めている。一言でいえば〈神に向き合っている〉という意味だと思います。

 クリスマスのできごとは、そうした私たちに、どのようなメッセージを届けているでしょうか?

II

 この夜の聖書テキストの、最初の二つの段落で「言葉」と言われているのはイエス・キリストのことです。

初めに言葉があった、
言葉は神に向いていた、
神であった、その言葉は。
この者は、初めに、神に向いていた、
万物は彼を介して成った、
成ったもので、彼なしに成ったものはひとつもない。

 キリストは「世の成らぬさきに」神に向き合った神的な存在であり、そのキリストを通して、万物は生成した。神が万物を創造したとき、キリストはその媒介者であった。だからこの世界に、キリストの痕跡を残していないものは何一つない。

 これはもちろん神話です。でも、神話は嘘八百の戯言という意味ではありません。この世界の根源を問い、その存在意義を言い表すために人類が共通して用いる言語形式です。

III

 続く二つの段落で「言葉」は「命」とか「光」とかの単語に言い換えられ、人間との関係が歌われます。

彼のうちに命があった、
命は人々の光であった、
光は闇の中に(今も)輝き、闇は光を捉えなかった。
その光は真であった。
それは万人を照らしている、
世に来る者(一人ひとり)を。

 キリストのうちに「命」があり、それが人にとっての「光」であり、その「真」の光が、この世界に生まれ来る一人ひとりの人間をいまも照らしている。

 おそらく日々新たに私たちを照らす太陽の光に、この世界が創られたとき神の創造行為を仲立ちしたキリストの働きが、そのまま表れているという意味です。だから、この世界は神の光にいつも照らされ、神の働きに溢れている。

IV

 しかし続く二つの段落では不思議なことが言われます。

言葉は世にあった。
世はそれを介して成った。
そして世は彼を知らなかった。
言葉は自分のものへと到来した。
彼の者たちは彼を受け入れなかった。

 「世は彼を知らなかった」「彼の者たちは彼を受け入れなかった」。毎朝、陽の光に照らされているのに、この世界つまり人間はその根源が何であるかを忘却しているようです。

 一つ前の段落に、「闇」という言葉が出たのは、そのことと関係があるのでしょう。「光は闇の中に(今も)輝き、闇は光を捉えなかった」。闇はどこから来るのでしょうか? それが人間の側の忘却から来るとしたら、どうでしょうか。周囲の人たちから受けた愛や、人間を超える力への恐れを忘却していることが「闇」を生み出しているとしたら、まことに人間とは恐ろしい、恩知らずな存在であると思います。

V

 最期の二段落をご覧ください。「しかし」という接続詞が初めて現れる段落です。

しかし、彼を受けとった者すべて、
その人々に彼は、神の子らになる権能を与えた、
その名を信じる者たちに。
この人々は血によらず、肉の意思によらず、男の意思によらず、
神によって生まれた。

 世界の創造に参与した「言葉」、人間にとって「光」である「命」を宿す存在、この世界が「知らない」「受け入れない」というキリストをそれでも受けとる者たち、つまり忘却から目覚め始めた人たちの身分について、この人たちにキリストは「神の子らになる権能」を授けたとあります。

 古代世界にあって「神の子ら」と呼ばれるのは「王たち」でした。ファラオもカエサルもそう呼ばれました。新約聖書は「イエス・キリスト」を指して神の子と呼びます。しかしこの箇所の特徴は、ただの人間たちがキリストの「名を信じる」ことで、神の子らという身分を受けとるという点にあります。

 そのような人々は、「血によらず、肉の意思によらず、男の意思によらず、神によって生まれた」。この尊厳は生まれ育った家系の貴さ・賤しさに関係なく、本人の才能や努力に関係なく、社会でどのくらいの決定権を持っているかとか、どのくらいたくさん子孫を残したかとかにまったく関係なく、ただ「神によって」、この世界を超越する存在に由来する者として新しく生まれる。

VI

 礼拝の冒頭で歌った賛美歌「世の成らぬさきに」では、先在のキリストが人間として生まれたという神秘を称えて、こうあります。

世の成らぬさきに 既にいまして、
神の愛により 生まれしみ子は

 私たちの聖書箇所にちなんだ詩です。キリストの誕生、私たちを存在の忘却から呼び覚ますクリスマスのできごとは「神の愛」から生じた。そして、そのことを受け入れて称える者たちもまた「神によって生まれた」。

 望まれて生まれた人もそうでない人も、才能に恵まれた人もそうでない人も、幸運のうちにある人も不運のうちにある人も――キリストの誕生は、私と私でない人々の尊厳の発見、新しいプライドの誕生を告げています。

 ソポクレスは「人間にまさって不思議なるものたえてなし」と言いました。ヨハネによる福音書に照らせば、この言葉の真意を〈どんな人も神によって生まれた〉という意味に理解することができるでしょう。ならば私たちは神の前にへりくだり、しかし高い気位をもって、互いに愛し合いつつ歩みたいと願います。

 皆さんお一人おひとりに、メリークリスマス!


 
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