今日のテキストは「マリアの賛歌」(The Magnificat)と呼ばれる箇所です。マリアという女性は実に不思議な存在です。プロテスタントでは特別視せず、クリスマスにイエスさま降誕に絡んで集中的に登場する程度ですが、カトリックでは普段から聖母として頻繁に登場します。ヨーロッパの教会堂を見れば、あちこちマリア像だらけです。そこで、しばらく前の「祈り会」では数回にわたり、マリアについて勉強しました。マリア論の広さ深さについて改めて確認するよい機会となりました。プロテスタントの基本的な見方はあくまで聖書のマリアですが、その聖書のマリア像を探求することができる一つの手がかりが今日のテキストです。
ところで、キリスト教の大先輩たちは大体マリアについては賛辞を送っています。たとえばルターは受胎告知の場面を取り上げて、マリアの応答を「人間の無し得る最高の賛美の言葉である」と言っています。受胎告知と言えば、ルネッサンスの有名な画家たちがいろいろな構図の絵をたくさん描いていて、それらの絵に表現されているマリアは、大体驚きと恐れと戸惑いが混じりあったような表情や態度を見せています。受胎告知をするのは天使ですから、マリアも当然戸惑ったことでしょう。でも最終的には『お言葉通り、この身になりますように』と一切を神さまに委ねていますから、神さまに対して全幅の信頼を寄せた、ということです。
今日のテキストの「マリアの賛歌」はそれに続く部分に位置していますから、神さまへの信頼を告白するという土台の上にこの賛歌は乗っかっている、という形です。この賛歌でマリアが口にする一つひとつの言葉に向き合っていますと、神さまへの信頼がどういう心の状態から生まれてくるかということが分かる気がいたします。神さまへの賛歌は信仰に裏打ちされた心の深みからしか出て来ないのです。
テキストを順を追って見て行くことにしましょう。47節から50節までの賛美の調子は、通奏低音のように土台に「喜び」があるように思われます。神さまにまったく委ね切ると、そこから平安や安堵が徐々に喜びとして湧き上がって来るのです。人間の本性にはエゴがありますが、そのエゴに囚われている人間がすっかり変えられてしまい、神さまだけしか崇める対象がない、そういう状態に導かれています。
天使ガブリエルという存在は、聖霊の働きをマリアにもたらしたのです。マリアが『わたしの魂は主をあがめ』と言っています。この「あがめる」という言葉はギリシャ語のメガリューノーという語が使われていますが、本来は「大きくする」という意味です。「崇める」と言うのは比喩的な意味の用法です。原語は「大きい、広い」と言う意味の言葉で、接頭辞のメガは、メガヘルツとかメガトンとかと同じですから、広がる、大きくなるというイメージが含まれています。マリアが「主をあがめ」と口にしている時の彼女の気持ちをそのイメージで想像してみて頂きたいのです。主なる神さまの存在がどんどん大きく広くなっていって、対照的に自分の存在がどんどん小さくなっていく感覚です。この心持が48節の『身分の低い、この主のはしため』という表現につながって行きます。
「はしため」、今はこういう表現は差別に抵触するので、ほとんど使いません。この「はしため」は有名なドゥーロス、つまり奴隷と言う意味の語の女性形です。だから直訳すれば「女奴隷」です。そのように言わなければならないほどに、この時のマリアは自分の小ささが主なる神様の前に消え入りそうになっていることを自覚しています。そして主を崇める告白は49,50節へと続きます。最初にマリアは不思議な存在だ、と申しました。カトリック教会が二千年もの長きにわたってマリア信仰を保持してきたのには、このテキストに表わされているように、彼女が徹底的に神さまを信頼し切っている存在である、というのが一番の理由ではないでしょうか。
さて、テキストは51節からにわかにニュアンスが変化していきます。51節以下を読んでいると、なにやら革命家の言葉ではないだろうか、という気がしてくるのです。ひとことで言えば、「過激だなァ」と思います。『その腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らす』とか『権力ある者をその座から引き降ろす』とか、どう見ても激しい表現です。こうした言葉が彼女の口を衝いて出たのには、彼女の出自が関わっていたと私は見ています。彼女の生活の舞台はエルサレムではなく、周縁の地ガリラヤでした。
イエスさまが誕生した後には、大工の妻として子供たちを育てていますが、彼女はローマの役人とか王侯貴族の家柄ではなく、貧しい民衆の中に生活を送っていた女性なのです。当時の民衆はほとんどそうですが、彼女を包んでいた現実は「貧しさ」だったでしょう。そういう立場の人間として、いわば底辺から叫び声を挙げているのではないでしょうか。現代流に表現すれば、社会正義を訴えたのです。私などはこのマリアの言葉を聞いて、現代の天下りする官僚とか、変なナショナリズムを主張する政治家とかに、こういう言葉をぶつけてやりたくなります。
ですから、少なくともこの部分のマリアは、何でも受け身に相手の言うことに聞き従うといった控えめな女性ではなく、主なる神のみ心に基づいて正義を推し進める強い女性です。それは福音書記者ルカがそうした行動を希求して、マリアにその役割を負ってもらった、ということなのかも知れません。しかし何にせよ、メシア降臨という受胎告知を受けるマリアという女性の周辺には、主なる神の正義というオーラが満ち満ちていたのではないでしょうか。
48節に『目を留めてくださった』とありますが、ここには卑屈さも打算も感じられません。マリアはおそらく本能的に、主なる神の目は人間の側の条件には一切影響されずに、貧しい者や弱い者へ注がれる、と知っていたように思えます。それはもちろん彼女が信仰深かったからです。主イエス・キリストの生き方に重なるように、あらかじめ神さまはマリアを人間の救いのために、備えられた存在として用意された、と考えてもよいでしょう。
こうしたことをいろいろ考えて行くと、カトリック教会が長い年月にわたってマリア信仰を保持してきた理由を少し理解できる気がします。私たちはこのクリスマスに、このマリアの信仰告白とも言うべき「賛歌」を充分意識して受けとめなければならないのです。マリアは神さまの計画を慎んで受けとめ救い主を産みました。その救い主は、『飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い帰される』お方です。私たちはイエスさまを「人となりたまいし神の子」と簡単に表現しますが、クリスマスは「人となりたまいし神の子」をそんな簡単に受け留めてはいけない時だと思うのです。少なくとも、マリアが畏れかしこみつつ神さまの計画を受け入れたように、「神の子が人となられた」ことを信仰的実感として受け留める必要があります。
パウロはフィリピ書で『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。』と言いました。これはマリアの心に通じる言葉だと思います。クリスマスは「神が人となってくださった恵みの出来事」を受け留める時なのです。皆様はこの真実を実際にどのように深く感じ取られるのでしょうか。私の場合、明らかに聖霊に導かれて生きられたと思われるキリスト者の先輩たちの姿を思い浮かべます。今の時代ならばマザー・テレサがそうですし、ダミアン神父やボンヘッファーもそうです。彼らの生き様には人となりたまいし神の子の真実が宿っている、と私は信じています。
聖霊が働かなければそうした生き方はできない、そういうものが彼らの姿にはあります。もちろんマリアも救い主の姿を鮮やかに浮き上がらせてくれます。それは神様の人間に対する恵みでしょう。キリストを信じる者だけにはっきりと示される恵みだと私は思っています。主イエス・キリストの誕生、それは神さまが人となり、私たちと一緒に痛みや苦しみを担ってくださるという出来事です。人間は決して孤独ではありません。このクリスマスに、“あなたは独りではない"と声をかけてくださっている主イエス・キリストを少しでも多くの人たちに証しして行きたいものです。