2014.12.7

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「神の国の形」

秋葉 正二

ホセア書4,1-3ルカによる福音書21,25-33

 クリスマスが近づいている喜びとは裏腹に、相変わらず暗いニュースの多い昨今です。来週は総選挙が行われますが、新聞は国民の関心が薄いと報じています。大事な問題が沢山あるのに、どうしたことかといぶかしい気持ちです。政権与党は国民の関心の第一は経済にあると踏んで、アベノミクスという経済改革プログラムに争点を絞って選挙に臨んでいるそうです。

 アベノミクスが成功しているのかそうでないのか、経済評論家の意見も一致していない中、是非を問うと言われても、私たち経済の素人にはなかなか判断のしようがありません。円安で輸出を中心とする製造業は確かに儲かっているのでしょう。株価が上がってもうけた人もいるはずです。しかし、私たち庶民にはまったく実感がありません。日本国の借金は今や1269兆円ということですから、アベノミクスが失敗したとなれば、バブル化している日本の国債市場は壊滅的なまでに崩壊するのではないか、と恐ろしい気がします。日本は世界第三位の経済大国ですから、アベノミクス失敗ということになれば、日本を起点に世界金融危機が引き起こされるかも知れません。

 皆さまはいろんな考えをお持ちと思いますが、私は現政権に危惧を抱いています。憲法で禁止されているはずの集団的自衛権行使を強引に閣議決定で決め、特定秘密保護法も強行してしまいました。原発も順次再稼働していくとのことです。これまで平和憲法の下、戦争をしない国であり続けることを願い、20年以上脱原発運動をしてきた身としては、こういう重要なことを選挙の争点として取り上げないとしたら、政権を責任を持って担う資格はないだろう、と私などは考えます。ですから、社会をリードするはずの政治になかなか希望が見出せません。おまけに危険ドラッグなどによる不条理な殺人事件の報道なども頻繁ですから、この世は闇、といった感じです。

 さて、今私たちが置かれている社会の現状をずらずら語ってしまいましたが、世の中がこういう状態に陥るのは、問題そのものや社会システムこそ違え、基本的には古代でも共通していたと思うのです。こうした時、紀元前の旧約聖書の世界ならば、正義の預言者が登場して、徹底的な批判を語ったはずです。その場合、預言者は将来どうなるかというよりは、先ずそれまでの歴史に対して批判的な判断を下しただろうと思います。本日の旧約のテキストでは、呪い・偽証・殺人・盗み・姦淫といったあらゆる不正が現実に起こっていることに対して、もはや神はこれを見過ごしにはされない、と審判預言が下されます。言うなれば預言者の終末宣言で、その理由は、神に逆らって歩む人間の数々の不正行為というわけです。

 そこには黙示思想が絡んでいました。この世における善人と悪人の対立、あるいはこの世と来たるべき世の対立という二元論が根底にあります。分かり易い説得力のある考え方です。この世では神様の意思が正しく行われず、悪人が支配をし、善人は悪人によって苦しめられている……そこで神様はそのような状況を放置されずに、それに代わる新しい天地を出現させてくださる……、その際、善人は幸せに、悪人は永遠の罰を被る、という単純な構図です。預言者は大体熱血漢ですから、その言葉は激しけれは激しい程、人々の心に響いたでしょう。

 新約聖書の終末観も基本的にはユダヤ教の終末観を土台に成立していったわけですから、現世批判、歴史批判が根底にあります。洗礼者ヨハネなどにはそういう特徴が見られます。そのヨハネ集団に属していたイエスさまが現状批判のヨハネを乗り越えていく点にこそ、私たちの掴むべきポイントがあるのではないでしょうか。それこそがイエスさまの神の国宣言です。それまでの終末論を乗り越えるべく、神の国の到来を宣言されたという点がイエスさまの特徴です。イエスさまはご自分の活動の正しさが、やがて来たる「人の子」の来臨によって明らかになると確信しておられました。自分にはそれを告げる役割が与えられているという自覚です。終末における「人の子」の来臨と、それに続く神の国の始まりをイエスさまは大胆にも預言したのです。

 本日のルカのテキストはその神の国の始まりについて語っています。もちろんユダヤ教における終末待望とはだいぶ異なります。ユダヤ教における神の国は、終末待望に民族主義が結びついていましたが、イエスさまはそういう意味で神の国について発言されたのではありません。もっと壮大な、普遍的な真理宣言です。それは、神の国の到来を背景にして悔い改めを迫った洗礼者ヨハネを乗り越えて、今現在の生活の中に神の国を見い出すように、と語られたのです。同じルカ福音書の17章20,21節にこうあります。『神の国は、見える形では来ない。“ここにある"“あそこにある"と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』。

 ご存知のように、イエスさまは貧しい人たちに向かって「あなた方は幸いだ、神の国はあなたがたのものだ」と指摘されました。社会の底辺の人たちと一緒に食事をされ、病を癒されました。そうした場に居合わせた人たちは、イエスさまと出会って、“ああ、ここには神様が支配される空間がある"と感じたと思うのです。このお方がいる限り、神の国は自分たちの只中にある、と実感したのです。まさにその時に終末は未来のことではなく、現在の出来事になりました。信仰というのはそうした体験が重要なのです。終末は一般的には未来の出来事ですが、そこで永遠の命を頂くことが出来るか否かは、現在の決断にかかっています。この未来と現在のつながりがイエスさまの示される神の国理解のポイントです。

 最初に現在の日本社会の闇の状況や選挙について触れました。今は闇の中で何も見えないかも知れません。しかし絶望する必要はまったくないのです。政治状況についても、目先のこととしては希望が見出せないかも知れません。けれども落胆することはありません。私たちには信仰が与えられ、イエスさまから神の国は私たちの間にあるのだ、と教えて頂いているのですから、ジタバタしなくてもよいのです。もちろん現実の選挙や政治については、正しいと思った判断に従って一人ひとりが誠実に行動していけばよいのです。人間の小さなそうした行動一つひとつが神様の歴史支配の中にあるからです。

 そういう意味では、私たちにもっと要求されるのは、こうすれば現実を変えて行くことが出来るだろうという想像力でしょう。信仰生活というのは、この想像力を生み出す力とも言えます。私たちに想像力を与えてくれるのは聖霊です。人間的な能力とか熱意にも意味がありますが、つまるところはこの聖霊の働きに行き着きます。私たちは既存の秩序の中に巣食っている悪を批判するだけでなく、聖霊によって新しい現実を思い描くべきです。信仰の幻を仰ぐのです。これは聖霊によるしかありません。27節には『人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る』とありますが、この光景を私たちは信仰の目で見ることが出来るのです。

 改めて申し上げますが、私たちはこの世の闇の中に置かれています。あちこちにサタンの誘惑も満ちていることでしょう。しかし私たちは今はっきりと「神の子メシア、イエス・キリストを信じています」と告白したいと思います。この世の現実の状況をはるかに超えて、神の国は私たちの間にあります。もうすぐこの闇を切り開く救い主の誕生を祝う時がやって来ます。キリスト者の人生に絶望はありません。私たちは間違いなくイエス・キリストの神の国に生きています。

 祈りましょう。


 
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