2014.11.30

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「不安に揺れる町」

秋葉 正二

ゼカリヤ9,9-10マタイによる福音書21,1-9

 

 アドヴェントを迎えました。ローズンゲンに従ってイエスさまの「エルサレム入城」記事を読みます。エルサレム入城は、福音書においてとりわけ重要な位置を占める受難物語の導入部分にあたります。7節まではエルサレム入城に至る前段部分で、ここではイエスさまはどういう事情でロバに乗って入城されるようになったかの経緯が述べられます。ロバと子ロバという表現に関する問題がいろいろあるのですが、きょうは触れません。まず8節9節の入城シーンに注目です。大勢の群集の興奮ぶりが印象的です。イエスさまを迎えるのに、エルサレムの群衆は自分の服を道に敷いたり、木の枝を切ってそれを敷いたりしました。ヨハネ福音書によれば、その植物はナツメヤシだとあるので、受難節入りの主日を棕櫚主日と呼んで、棕櫚の葉を飾ったりすることは御馴染みです。

 さて、エルサレムの住民のイエスさまに抱いた期待は異常です。ガリラヤにおける奇跡など、数々の活動の噂が伝わっていたからでしょう。噂が噂を呼んで、当時のエルサレムの人々の心はナザレの一青年に引き付けられていました。群衆の興奮の裏側には、奇跡などへの期待がふくらんでいたことが考えられます。期待だけでなく、貧しい民衆にとってみれば、いろいろな不満や絶望も渦巻いていたはずですから、キッカケさえあれば、いつでも鬱憤を晴らしてやろうという動きがあったことも考えられます。ガリラヤでの活動に尾ひれがついて話がふくらみ、それがエルサレムの人々にも伝わっていたはずですから、ロバに座ってとことことやって来られたメシアの姿には面喰ったことでしょう。見栄えのよい馬にまたがったメシア然としたイエス像ではなく、ロバに乗ってゆっくりと入って来られた田舎者の青年イエス像の落差には戸惑ったはずです。少なくとも群衆の期待に見合うような登場の仕方ではないことは確かです。

 と言うのも、私が小学生の頃、月光仮面というヒーローがいて、テレビで大人気でした。月光仮面は誰かが危機に陥ったりすると、白いオートバイに乗って颯爽と現れて弱きを助け強きをくじいてくれたのです。大体ヒーローの登場はそのように格好良くなければ喝采を博すことはありません。そこでふと思ったのですが、群衆の興奮ぶりに対して、当のイエスさまのロバでのろのろと入城されて来る、まったくヒーローらしからぬアンバランスは一体何なのかということです。もっともヒーローの中にはフーテンの寅さんのように、柴又の寅屋に帰って来ても、すぐには家に入れず、店の前を通り過ぎたりするような人物もいます。フーテンなのでちょっとばかり申し訳なくて、気恥ずかしくて入りにくいという気持ちがよく表れています。けれどもそういう登場の仕方で寅さんは観客の気持ちをしっかり掴んでいるわけです。本当のヒーローとは何なのか、これを観客に問うているようで、山田洋次監督は流石です。

 イエスさまの入城も、どちらかと言えば月光仮面型ではなくてフーテンの寅さん型でしょう。四福音書共入城シーンはロバに乗っての登場ですから、聖書はヒーローらしからぬイエス像を描いていると言えます。マタイは特に「子ロバ」に乗ってというゼカリヤ書の一節を引用していますから、イエスさまが乗られたのが子ロバの方だとするともっと恰好が悪いことになります。馬と比べれば、ロバに乗るだけでも恰好悪いのに、子ロバではもっとさえないということになります。とにかくイエスさまがロバに乗って入城されたことに対して、ダビデをイメージするようなメシア像が期待されていただけに、群衆の中にはガッカリした人もあったでしょう。

 古代イスラエルでメシア像と言えば、ダビデに象徴されるように、周囲の世界を制圧して睥睨するような力強い存在です。ところがここで強調されているメシアは貧相で冴えないメシアなのです。ロバに乗るという姿で、旧約時代からのヒーローであったダビデ的なイメージの正反対を福音書は描いています。そこにはローマ帝国という目の前の強大な力の前に、やがては処刑されてゆくメシア像が既に浮かび上がっているようでもあります。イエス時代、ローマ帝国は鋼のような力で、人々を簡単に蹴散らし、人の上に君臨できる存在でした。そうした世の力に対して、聖書はそれとは正反対のメシア像をぶつけているのです。そこには、イエスという名のメシアがロバのように人目を惹かない姿であっても、あくまでも柔和に、弱い立場の人々に寄り添って彼らを助ける存在なのだ、という主張が込められています。ロバに乗ったイエス像がくっきりとローマ帝国という権力の実態を映し出す役目をしています。

 話は飛びますが、第一次安倍政権の時、閣僚の中に人権をバターに譬えた人がいました。人権というバターは栄養があるが、食べ過ぎると人権メタボリックになると言ったのです。同時に権利には必ず義務がセットになっていることを強調していました。しかし民衆に権利があるとするならば、その権利が守られるように、義務を果たすのが国家や政府の責任でしょう。民衆の権利、人権が保障されるように国家や政府は義務を果たさなければならない、というのが国連規約に見出されるように、国際的な人権基準の基本的な考え方です。だからもし首相や大臣が、権利を守るために義務遂行の必要があると強調して、責任を個々人になすりつけてしまったりすれば、それは政治の怠慢であって、責任を個人に押しつけるのはお門違いでしょう。

 イエスさまがロバに乗って入城するという、一見さりげない行動が、人権といったところにまで考えの幅を広げていくことが分かります。このロバに乗ったイエスさまが示す真実のメシアの世界を、私たちはこのエルサレム入城記事から発見する必要があります。それはまた、アドヴェントを迎えて、救い主の降誕を待ち望むことと繋がるのです。救い主はダビデのように権力者ではありません。人目を避けるように、糞尿の臭いが立ち込める馬小屋に生まれるのです。そういう救い主に私たちはすべてを賭けて待ち望もうというのがアドヴェントです。ここから私たちキリスト者の一年の歩みがスタートします。

 今、日本社会は超高齢化社会へ突入していますが、高齢者の年金問題が深刻です。消費税10%への引き上げが先送りされ、財源がないとの理由で無年金など「年金弱者」の救済策も延期ですし、年金生活者を取り巻く状況も今後厳しさを増すことが確実です。保険料を納める働く世代が減り、平均寿命が延びて年金の支払いが増えれば、それに合わせて給付が抑えられるでしょうし、所得の低い高齢者の暮らしをどう支え、年金の役割をどう考えるのか、将来の不安にこたえる具体的な処方箋(しょほうせん)を求めるのは至難の業です。古代のエルサレムの民衆は現代とは比較にならない程貧しかったはずです。エルサレムの群集が興奮したのは、彼らの日々の生活に巣食う不安の現れであったような気もします。イスラエルの中心の町と言えば聞こえはいいのですが、そこに暮らす民衆の実態は貧しさに喘ぎ、不安に苛まれる日々だったでしょう。イエス・キリストの入城は、神に期待した卑しい人たち、貧しい人たちにとっての約束されたメシアの来訪でした。私たちも多くの現実生活の不安を抱えながら救い主の降誕を待ち望んでいます。心してアドヴェントの歩みを進めてまいりましょう。きっと喜びや希望も見えてくるはずです。2014年のクリスマスはどんなクリスマスになるでしょうか。皆さまの信仰生活が祝されるように、心からお祈りしています。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる