来週はいよいよアドヴェントに入ります。 アドヴェントはローマ・カトリックとプロテスタントにとっては一年の暦のスタートであり、クリスマスを迎えるための備えのシーズンですが、そこにはやがて訪れるであろう救い主の誕生に「希望をつないで待つ」という意味が込められています。 教会色は普通紫を使います。 紫には悔い改めや慎みの意味がありますが、希望を抱いて待ち望むという意味も含まれています。 そこできょうはその「待つ」という点に焦点を当ててみます。 私たちキリスト者が来たるべき人を迎えようとして時を過ごす、準備して迎えるという意味で、「待つ」ことについて考えてみたいのです。
アドヴェントにおける「待つ」は「希望を抱く」と置き換えてもよいのではないかと思います。 希望とは、ある事を成就させようと願い求めることですし、将来に良いことを期待することだからです。 希望を持つことは人が生きるための必須条件ですから、もし私たちから希望が失われたら、死なないまでも人間性の多くは失われるでしょう。 しかし私たちキリスト者が救い主の降誕に希望をつないだとしても、世間一般の人たちには理解してもらえそうにありません。 世間で希望といえば、何か自分が欲しいものを手に入れるといった、むしろ欲望に近いものだろうと思うからです。 何に希望を置くかは、それこそ一人ひとりの自由なのですが、私たちとしては、消費欲とか名誉欲とかが満たされることにつなげたくはありません。 私たちの希望は、生きる上での目指すべき崇高な目標を仰ぐものであって欲しいと願うからです。
イエスさまがその降誕の出来事によって人間にもたらしてくれる希望は、例えば「愚かな金持ちの譬え」の中で語られているように、“持ち物にはよらない”ということはハッキリしています。 神さまの御心に適う生き方が“持ち物にはよらない”ことはよく分かっているのですが、現代のような大量生産・大量消費の世に生きておりますと、余程注意していないと溢れる物の渦に巻き込まれてしまいます。 もっとも物がすべて悪いわけではありません。 物の中には生活必需品も多くありますから、これに私たちは云わば助けられて生きていることを否定するわけには行かないのです。 私たち現代人は、キリスト教徒であろうとなかろうと、溢れる物に囲まれて生きていますから、何が自分にとって良い物なのかを判断しなければなりません。
さて、花婿を待つ十人のおとめたちにとって重要なものは油でした。 オリーブ油だと思われますが、これはたいまつであるともし火の必需品です。 当時のともし火は布にオリーブ油を滲み込ませてそれを棒に巻き付けるわけですから15分もすれば火は消えてしまいます。 燃やし続けるには油は不可欠でした。 十人のうち五人、なんと半数のおとめたちが、花婿がやって来た時にともし火を灯し続けるために必要な油を用意していなかったと言うのです。 花婿がいつ来てもよいように、十分な備えをするかどうかが賢さと愚かさの分かれ目です。 そもそもこの譬え話は終末論に関わるものでした。 紀元一世紀の教会が、ローマ帝国の迫害の中で、イエスさまの再臨を待ち望む姿に重ねられています。 イエスさまがいつ来てくださるのか分からないのですから、信徒たちは不安だったでしょう。
言わば、その状況が花婿を待つ十人のおとめたちの置かれた位置なのです。 現代の私たちはクリスマスの日付が決められていますから、それに合わせてイエスさまの誕生をお祝いすればよいのですが、いつ生まれるか分からなかったらどのように準備態勢を整えるでしょうか。 しかも一世紀の信徒たちは、ローマ帝国という強大な権力によって迫害下に晒されていたのですから、命がけでした。 この点は現代の私たちと決定的に違うところです。 ですから、現代の私たちに突きつけられている課題は、クリスマスを待ち望む切実さということになるのではないでしょうか。 教会学校スタッフのメールのやり取りを拝見していますと、皆さん本当にクリスマスによく備えておられると思います。 希望をクリスマスにつなげるかどうかは、受身ではなく、まだ生まれていないお方のためにいつでも準備を整えて備えているかどうかにかかっています。
賢いか愚かかと問われれば、私たちは知能の高い低いを連想しがちですが、そうではありません。 信仰心を持って、来たるべき神の子の誕生を祝えるよう、しっかり目を開けておくということです。 漫然と生きてはいないという生き方が私たちに問われています。 十人のおとめたちは賢い者と愚かな者がちょうど半々で、イエスさまの譬え話は絶妙だと思います。 私たちは意識しなければどちらに転ぶか分からないのです。 花婿を待っているのですから、ちゃんと迎えて、楽しく踊って祝宴に臨みたいものです。 私たちはたまたまアドヴェントを前にこのテキストをローズンゲンに導かれて読んでいるわけですが、今ここでは、キリスト降誕から二千年も経ってしまった現代で、イエス・キリストの到来を待つということが一体何を意味しているのが問われているのです。
私は今年受洗50周年を迎えたのですが、信仰生活も受洗して何年か経つ頃から所謂マンネリが顔をもたげて来ます。 信徒の皆さんは私のことを、牧師でもあるし、50年も信仰を保って来たのだからさぞや充実した人生なのだろうと見られるかも知れませんが、とんでもありません。 本当のことを申しますと、毎週の説教準備が苦痛になって、準備に手を抜いたりすることだってあるのです。 信仰生活も、いつしか神さまが自分を導いてくれるのは当たり前、イエスさまが誕生するのも当たり前、ということになりかねません。 真夜中にいつ来るか分からない花婿を待つのは大変です。 必ず眠くなりますから私たちは寝込むのです。 けれどもいざ『花婿だ、迎えに出なさい』という叫び声が聞こえた時に、言わば信仰の勝負は決するのです。
譬え話のキーワードは補給用の油ですが、私たちの信仰生活では何でしょうか。 日々み言葉に接しているかどうかかも知れませんし、祈りの真剣さかも知れません。 それは信仰生活を送る私たちが自分自身で考えなければならないことです。 何が足りないか、何処を正すべきかを一番よく知っているのは自分だからです。 ですから私が信仰的な一般論を指摘することは出来るかも知れませんが、それはあくまでも一般論に過ぎません。 皆さんがご自分でしっかり追求すべきことです。 愚かな五人のおとめは、結局戸を閉められて、婚宴の席に入ることが出来ませんでした。 これは厳しい拒絶です。 これがもし神さまの審判だったらと思うと、背筋が寒くなります。 でも私たちは信仰生活において、『わたしは、お前たちを知らない』という神様の厳しい拒絶の言葉を念頭に置いておくべきでしょう。 私たちは、生活・存在の一切をイエスさまの導きに委ね切ることが出来るという、神さまの大きな包容力という恵みと、厳しい拒絶の言葉の間を生きているのではないかと思います。 その切実さこそ、紀元一世紀の信徒たちの抱えていた再臨待望という信仰上のジレンマに通じるのではないでしょうか。さあ、来週、心を備えてアドヴェントを迎えましょう。