2014.11.16

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「ギリシア人への答え」

廣石 望

コヘレトの言葉11,1-8ヨハネによる福音書12,20-26

I

 キリスト教は、古代地中海世界の東端に位置するパレスティナ地方のユダヤ教から誕生し、やがて周辺世界に広がりました。それぞれの地域には古来、多様な民族が固有の文化と言語および宗教をもって暮らしていました。もちろん広域を支配する世界帝国はありました。とりわけ紀元前3世紀初頭のアレクサンドロスの東征以降、東地中海地域の諸民族の支配層ではギリシア文化が共有されました。現代社会で、諸地域の教養層が英語を話すのに似ています。

 原始キリスト教が誕生したころの世界帝国はローマです。その安定支配の下で陸海の交通網が発達し、商業と文化交流が促進されました。「すべての道はローマに通ず」とあるとおりです、それに乗って、多くの宗教が大都市やその他の地域に伝搬しました。キリスト教はその一つです。

 イエス時代のパレスティナではアラム語が話されましたが、新約聖書に収められた諸文書はすべてギリシア語で書かれています。東地中海世界が意識されていたことの証拠です。こうして最初期のキリスト教は広域に通用する共通語を使用しつつ、異文化との接触の中で自己形成を遂げました。本日のテキストはその痕跡を留めています。

II

 まず物語の枠を見てみましょう。

 数人の「ギリシア人」がエルサレムでイエスに面会を求めたというエピソードから、話は始まります。「ギリシア人」とは、おそらく〈ギリシア語が第一言語である非ユダヤ人〉というほどの意味です。いずれにせよ異文化出身の異民族です。

 彼らは「祭りのとき礼拝するため」にエルサレムに上京していました。「礼拝する」と訳された元の言葉は「跪拝する」ですから、この人たちはユダヤ教への改宗者だろうとする説もあります。しかし〈参詣する〉というていどの意味であるなら、観光客に近いかも知れません。じっさいエルサレム神殿の「異邦人の庭」までは、異教徒の立ち入りが認められていました。

 他方で、ヨハネ福音書の文脈は受難直前です。死者ラザロを蘇生させたイエスは、やがてエルサレムに入城します。しかし神殿指導者たちはイエスをラザロもろとも亡き者にしようと企て(11,47以下12,9以下)、招集された最高法院で大祭司は「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむ方が…好都合だ」と言います(11,50)。

 果たせるかな、私たちのユニットでイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言します(23節)。ご存知のように、〈自分が十字架刑に処せられる時が来た〉という意味です。続く文脈でイエスは、「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言います(32節)。――こうしてヨハネ福音書がイエスの十字架と復活昇天を重ね合わせ、その両方をさして「あげられる」という表現を用いていることが分かります。

 十字架はローマ帝国の反逆者に対する拷問と虐殺の処刑法でした。傍目から見れば苦痛と恥辱の死でしかないできごとが、同時に神による復活と昇天という輝かしいできごととして二重写しに描かれています。

 さて、「ギリシア人たち」はまず弟子フィリポに尋ね、フィリポはアンデレに伝言し、フィリポとアンデレが連れだってイエスのもとに行きます。彼らはイエスに面会できたのでしょうか? 一見すると弟子たちだけが、イエスと問答しているように見えます。しかし弟子たちが彼らをイエスのもとに連れて来たと想定すれば、イエスの発言はそのままギリシア人への答えであり、弟子たちがいっしょに聞いていることになります。

 私たちの物語は、エルサレム滞在中のギリシア人との出会いというエピソードを手かかりに、ギリシア文化世界に向かって、イエスの十字架と復活の真の意味を説明しようとしているのです。いったい復活について、どのような異文化コミュニケーションが可能なのでしょうか?

III

種は先ず蒔かれて地の中に隠され、腐敗することで、種を覆い隠した地に自らの力を伝えなければならない、小麦あるいは大麦の一粒から大量のものが生じるために。

 本物のギリシア人、プルタルコス(紀元1/2世紀)の言葉です。そのギリシアに、麦粒をシンボルに用いる有名な宗教がありました。都市アテネから西に20kmほどのところにあった聖所の地名にちなんで、「エレウシスの祭儀」と呼ばれる古式ゆかしい祭儀です。

それを見てから、窪んだ地の下に行く者は幸いなるかな。その者は生の終わりを知っているが、〔死が〕まさに神の賜る始まり〔であること〕を知っている。

 ギリシアの詩人ピンダロス(紀元前5/4世紀)の言葉です。――「それを見てから」とは〈エレウシス祭儀への入信を果たしてから〉という意味です。この祭儀は、死後の命を約束するものでした。「キリストを主と告白してから」と読み換えれば、現代キリスト教会の葬儀でもそのまま言えそうな気がします。

 この祭儀には独自の神話があり、その主人公は穀物の豊穣を司る地母神デーメーテールとその娘神ペルセポネーです。少女ペルセポネーは冥界の神ハデースによって拉致されて妻にされますが、母デーメーテールの捜索によって発見され、ゼウス神による仲裁を経て、春になればペルセポネーが冥界から上界に帰還し、穀物は再び芽吹いて実りをもたらします。つまり植生祭儀です。

 秋の大祭では、3000人ほど収容できる大聖堂で、夜半に祭儀が執り行われました。その頂点は、漆黒の闇に沈む聖堂の中心にある炉から大きな炎が噴き出し、その光に照らされて、導師が「刈り取られた麦穂」を入信者たちに示すという行為でした。儀式の内容について口外することは禁じられていたのですが、後にキリスト教に改宗した人々のおかげで、およそのことが分かります(ヒッポリュトス『全異端駁論』より)。

神認識に達した完全な人間は「緑の刈り取られた麦穂」とも呼ばれた。アテナイ人もエレウシスの密儀を祝うさい、観る者たちに、大いなる驚くべきそして最も完全な、沈黙のうちに観るべき当地の秘義、すなわち刈り取られた麦穂を示す。…導師自らは…エレウシス祭の夜、大いなる火の下で、語るべからざる大いなる秘義を祝いつつ呼ばわり、その声を響かせて言う、「聖なる息子を女主人さまが生んだ、ブリーモがブリーモを」、すなわち強き者が強き者を。

入信者に示された「刈り取られた麦穂」は、冥界の支配者ペルセポネーとの出会いを約束するものだったでしょう。死んで冥界に下っても、そこで新しい生命に再生できるという意味です。

IV

 ヨハネ福音書のイエスは言います。

アーメン、アーメン、君たちに言う。もし麦の粒が地に落ちて死ぬのでなければ、それが単独で残るだけだ。しかし死ぬなら、多くの実りをもたらす。(24節参照)

 ギリシア人には、とてもよく分かる言葉だったに違いありません。イエスもまた麦粒として、死後の幸福を約束する神として死んでゆき、その死が多くの信仰者たちに命を与える。麦粒の比喩を用いて、十字架と復活の意味が説明されています。

 しかし植物の死と再生は毎年繰り返される一方で、この世の終わりと最後の審判は一回切りです。反復される再生でもって一回的な復活を説明して、本当によかったのでしょうか? これで復活は、ちゃんと伝わったことになるのでしょうか?

V

 麦粒の言葉に続く、「魂」についてのイエスの発言をお聞きください。

自分の魂を愛する者は、それを失う。そしてこの世で自分の魂を憎むならば、それを永遠の命へと守るだろう。(25節参照)

 これは他の福音書にも伝えられた、イエスの古い言葉をヨハネが言い換えたものです(マルコ8,35その他を参照)。その特徴は二つあります。

 ひとつは「自分の魂を永遠の命へと守る」という表現です。「魂」は通常「命」と訳されますが、「永遠の命」というときの「命」とは別の単語です。この表現は〈現在ある魂の中に永遠の命というクオリティーを発見する〉という意味だと思います。山浦玄嗣『ガリラヤのイェシュー』の次のような訳文が、このことをみごとに捉えています。

命にしがみつく者は
かえって命を落とすのだ。
この世で命を棄てさる者は
いつでも明るく活き活きと
生きる力をその身に受ける。

 この世の命にしがみつくことを止める者が、その命の中に隠されている「いつでも明るく活き活きと生きる力」を見出す!――イエスが約束する復活の命は、たんに将来死んだ後に再生を遂げる命のことではなく、今を生きる姿勢に関わります。これは復活信仰の再解釈ですね。

 どうすればそれは手に入るのでしょう? 「自分の魂を憎む」という独特の表現――これが第二の特徴です――は何のことでしょう? 次の二つの、ヨハネ福音書のイエスの発言をお聞きください。

良い羊飼いは、羊たちのために自分の魂を置く。(ヨハネ10,11参照)
互いに愛し合いなさい。人がその友らのために自分の魂を置くこと、これより大きな愛はない。(15,13参照)。

 通常「魂を置く」は「命を捨てる」と訳されます。「自分の魂を憎む」とは、誰かのために「自分の魂を置く」ことです。自分の魂(命)を世界で一番大切なものと考えることを止めて隣人への愛に生きるとき、復活の命が永遠の輝きとして現れ出る。――こうしてヨハネ福音書は、ギリシア人に親しい死後の再生への信仰を基盤に、復活信仰を隣人愛のうちに〈今に生きる姿勢〉として再解釈していることが分かります。

VI

 日本人がイエスに面会していたなら、彼は何と答えたでしょうか?――〈しょせんキリスト教は、日本文化には馴染まない〉などと偉そうなことを言わず、福音書記者ヨハネに倣って、私たちもまたそのことを考えてみるべきでしょう。

 以前にもご紹介しましたが、至道無難禅師(17世紀)の素晴らしい言葉があります。

ことことく死人(しびと)となりてなりはてて
おもひのままにするわざぞよき

 自分の魂を後生大事にすることに死に果てた後、〈思いのままにする善きわざ〉とは、いったい隣人愛以外の何でありうるでしょうか。


 
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