2014.11.9

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「希望に生きる信徒たち」

陶山 義雄

詩編139,1-24ローマの信徒への手紙8,18-25

 代々木上原教会は1997年7月13日にこの会堂で最初の礼拝を捧げてから、17年(1997年定礎)を迎えました。更に遡って上原教会から数えれば80年(1934年)、みくに伝道所が開かれてから45年(1969年鈴木正久牧師召天から数えて)、私たちは、本日の週報裏にあるように、多くの信仰の先達者を天国にお送り致しました。こうした方々を記念して私たちは、召天者記念の礼拝を毎年、11月に、関係するご遺族の方々とご一緒に捧げて参りました。親しい身内を亡くすことほど、悲しいことはありません。不幸と思える出来事の頂点に死があり、愛する者との離別があるのですが、愛する人を見送るばかりでなく、やがては、見送られる側に置かれることを私たちは覚悟しなければなりません。パウロは本日のテキストでこのことを「被造物の縄目」と呼んでいます。

 「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものである」とローマ書8章20節で述べています。しかし、同時に、力強く救いをも語っています。「私たちは同時に、希望をも持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」

 人が神と出会うその出会い方には色々な道があり、色々な機会が備えられていると思います。しかし、宗教的体験の原点とも言える神、絶対者、超越者、全能者と呼ばれている存在との出会いに共通しているところは、自我が打ち砕かれ、裸の身で曝されている状態、胎児のように自分では何も出来ないような状態に置かれた所で、人は神と出会うのです。ドイツの宗教学者、ルードルフ・オットーは1917年に『聖なる者』と云う本を著わしました。その中で絶対者との出会いを体験した者が共通して抱く思いを、「被造物感情」と言う言葉で言い表しています。親しい身内を亡くした時、私たちは深い悲しみに襲われます。自分では何も出来ない無力な自分を見出します。恐れとおののきをもって只、死の現実に立たされます。しかし、一方では、このような無慈悲とも思える力を押し付けて来る存在に、怖さの恐れに包まれていながらも、他方では威力の執行者に対して跪くことしか出来ない自分に気付きます。Fear という「恐れ」と同時にawe 「畏れ、畏敬」の念が生まれます。これをオットーは『被造物感情』と呼びました。不幸のどん底で救われ難い悲しみに置かれながらも、人は彼方から同時に、慰めと救いの声を聞き取ります。そのことを或る思想家はこう述べています。

「不幸の何であるかを知ったものは、決定的に神の不在を口にせざるをえない。にもかかわらず、その不幸の中においてのみ、神が向こう側から訪れて来、その不幸の中においてのみ、神の愛を知ることができる。」

 また、或る作家も、愛する夫を亡くした後で、これに似たような心境を次のように語っています。

「死の重さを自分一人で抱え持ち、人間の口から出されるあらゆる言葉は、この死の重さに何の効き目もなく、他人の言葉も、自分の言葉も全て無効だと感じ、そうして、一人で座り込んで死の重さを抱えている私は、もしかしたら、神のようなものだけを信じているのかも知れない。」

 私は毎年、召天者記念礼拝で配られる週報裏の「召天者名簿」を見る度にこの『被造物感情』と呼ばれる心情がこみあげてくるのを感じます。名簿の2番目に載っている、陶山伎世子は私が10歳の時に死に別れた妹です。戦後の食糧難の中、栄養失調がもとで亡くしました。離別の悲しみに加えて、同じ食卓を囲んで生きてきた私が生き残ったことに深い罪責感を抱き、これが求道から牧師になろうとする希望を10歳にして抱くことになりました。何度も初心を裏切るような自分でありましたが、そこから逃げようとしても逃げ切れない自分に追い込まれて、白幡を挙げるような仕方で神学校に入った訳ですが、これは先ほどお読みした詩編139編の歌人と同じ体験であったように思います。歌人は7節以下でこう述べています。 「どこへ行けばあなたの霊から離れることが出来よう。どこに逃れれば、御顔を避けることが出来よう。 わたしは言う。『闇の中でもあなたはわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』」

 そこから139編の歌人は創造主に対面してこう述べています。

「主よ、あなたはわたしを究め、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていて下さる。その驚くべき知識は私を超え、あまりにも高くて到達できない。」

 もし私たちがこの歌に共感できるとすれば、それは同じような体験を何処かでして来たからであると思います。「押し出され、生かされて今ここで生きている、と告白出来るような体験です。私達は、そのような体験をどのようにして身につけて来たのでしょうか。教会の交わりを通して、牧師先生の説教とご指導を通して、聖書の学びと祈りの輪を通して。そうした事は全て当てはまると信じます。でも、極まる所、自分が圧倒的な力にうちくだかれ、どうして良いか分からなくなっている所で、人は、その威力の所有者と出会うのです。愛する人との死別の苦しみ、それは、無慈悲という他はない、理不尽で受け入れがたい出来事です。私たちに命を与えて下さった方は、その命を召し上げる方でもあることをわきまえた時、そこに被造物感情が生まれます。」

13節以下)「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝を捧げる。私は恐ろしい方によって驚くべきものに作り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、私の魂は良く知っている。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織り成された。あなたは私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたは目で見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだ、その1日も造られないうちから。」

 17節は被造物感情に満たされた詩人が、その心の内を告白する言葉として聞くことが出来るでしょう。

「あなたの御計らいは私にとって如何に尊いことか。神よ、如何にそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても,私はなおあなたの中にいる。」

 教会に連なる私達は神についてキリスト教の教義や聖書の教えを通して学び知る道もありますが、同時に体験としてあの「向こう側から訪れてくる神」に裏打ちされていないと、危険な落とし穴に落ちこんでしまいます。それは原理主義という落とし穴です。自分の宗教が絶対的であり、他宗教、他宗派は邪宗であるとするような戦闘的な宗教に変身するのです。これが今世界をどれだけ苦しめているか、私達は知っておかなければなりません。139編の歌人も一旦はそのような思いあがり、神の身代わりになって、悪を滅ぼす戦士になろうとしています。19節から22節がそれにあたります。

「どうか神よ、逆らう者を討ち滅ぼして下さい。・・・主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み、あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らを私の敵とします。」

 私達の自我が打ち砕かれ、造られたものとして、謙虚に創造主のまえに跪く宗教的体験、神との出会いの体験、それは嵐のような不幸のなかにも安らぎを与えてくれる世界です。これが、「生かされ今ここにある」ことを受容できる人に与えられる平安です。そこには憎しみはありません。憐れみに与る人々の連帯に包まれています。139編の歌人も自分の思いあがりを気付いたからでしょうか、23節と24節はこの世にはない平安の道を祈り求めて歌を閉じるのです。

「神よ、私を究め、私の心を知って下さい。私を試し、悩みを知って下さい。ご覧下さい。私の内に迷いの道があるかどうかを。どうか、私をとこしえの道に導いて下さい。」

 愛する人と離別の辛さを体験した時、私たちは死を前にして何も出来ず、一切が無力である自分が取り残されて、孤独を味わいます。パウロが本日のテキストで被造物の縄目と読んでいる、空しさ、虚無の深渕に立たされます。もし、彼方からの救いがなかったら、到底一人では耐えられない苦しみです。不幸と呼ばれている離別の苦しみのなかで、私たちは彼方から、御声を聞くのです。パウロが「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と本日のテキスト冒頭で述べている通り、「将来、わたしたちに現されるはずの栄光」への招きが聞こえて来るのです。それは、命を地上の限られた広がりで捕えていた者に対して、地上の命よりももっと良い、永遠の住家への招きが聞こえてくるのです。これを拒んで地上の住家だけをもって故人との生活を回想している限り、私たちは空しさの深淵から立ち上がることは出来ません。離別の悲しみと同時に、命と死を備えておられる方を前にして、希望への招きが聞こえて来ます。命を与えて下さった方が死をもって、愛する人を身元に召しておられることを承認すると、空しさや不幸は贖われて希望の道へと私たちは招かれます。そのことが20節以下で語られている内容です:

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思によるものであり、同時に(そこから)希望も湧いてきます。つまり、被造物である私も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。霊の初穂を戴いている私たちキリスト者も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われるのです。」

 教会生活を共にして来られた同労者が天に召されたあと、毎年11月のこの時節に召天者記念礼拝を持つことは、故人を介してご遺族にも、地上での命を営みながら、故人が離別の空しさを乗り越えて生きる希望を持ち続けてくださったように、同じ勤めを交わりの中で新たに始めながら、空しさを乗り越えて、感謝と喜びを分かち合う機会として、共に過ごして参りたく思うからであります。こうした生き方が故人を回想するのに最も相応しい在り方であると信じます。私たちもまた、故人に倣って、希望に生きる信徒でありたいと願っています。

 希望に生きた信徒として、重度の障害者で瞬きの詩人として知られた水野源三(1937年1月〜1984年2月)さんの歌を幾つか紹介させて頂きます。

「神経が麻痺しているので/息を大きくして と言われても/息を大きく吸うことができない
息を止めて と言われても/息を止めることができない
息を吐いて と言われても/息を吐くことができない
神さまの御心のままに/息をして/生かされている」
「不思議です/不思議です/今なお生かされていることが
悲しみや 苦しみを耐えてこられたことが/主の信仰をたもちこられたことが
天のお父様に/ただ感謝するのみです」
「悲しみよ悲しみよ/本当にありがとう/お前が来なかったら/つよくなかったなら/私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ/お前が私を/この世にはない大きな喜びが/かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」
「白い雲は/母の顔/笑った顔が泣いた顔に変わり/雨となる
雨の音は/私のために/祈り続けてくれた/母の声
雨上がりの空は/私の重荷を/になってくれた/母の愛」
「歩けない私は/父に抱かれて/見上げた
雪晴れ空には/神様の奇しき御業なる/冬の星座が美しく輝いていた
13年前に/父は逝ったけれど/今夜も冬の星座が/美しく輝いている」
「口も手足もきかなくなった私を/28年間も世話をしてくれた/母
良い詩をつくれるようにと/四季の花を/咲かせてくれた/母
まばたきでつづった/詩をひとつ残らず/ノートに書いておいてくれた/母
詩を書いてやれないのが/悲しいと言って/天国に召されていった/母
今も夢の中で老眼鏡をかけ/詩を書き続けていてくれる/母」

水野源三さんの歌にある通り、召天者名簿に記されている、愛する方々は、今もなお、私たちの心の中に生きておられます。そのことを覚え、感謝し、やがては御国で再会できる喜びを思いながら「希望に生きる信徒」でありたいと祈ります。

讃美歌390番(旧191番)4節
「世に残る民、去りし民と 共に交わり 神を仰ぎ 永久の安きを待ち望みて
 君の来ますを せつに祈る」

 また、先ほどご一緒に読み合いました交読文・コリント前書13章では、その結びのところで、私たちに人生で最も大切なものを3つ上げています。それは「信ずること、望みをもつこと、愛すること」です。その中で最も大いなるものは「愛」、言い換えれば、愛すること、愛されること」であります。「この最も大いなるもの」「最高の価値」をケルト語では「ウェルト・スキッペー」、それは英語のWorship と言う言葉に受け継がれています。これは「礼拝」と訳されています。本日の召天者記念礼拝で、私たちはこの最高の価値に与っていることを感謝したいと思います。


 

祈祷:
 主イエス・キリストの父なる神様
人の望みの消えるような所にあって、あなたはなお共におられ私達を支え生かしてくださることを、聖書をとおし、信仰者の証をとおして触れる事ができ、有難く感謝いたします。どうか、あなたによって生かされている恵みを思い、それに応えて感謝と喜びをもって日々生きるものとならせて下さい。既にあなたの御元に召された私たちの愛する先達者に倣い、地上に残されてある今を精一杯生き抜き、信仰の証しを立てることができますように、また、愛する故人と御国にあって再会できる希望と喜びを持ち続けることができますように。  主の御名によって祈ります。


 
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