2014.11.2

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「一つの世界を目指して」

秋葉 正二

民数記20,6-8コリントの信徒への手紙一10,14-17

 きょうは「世界聖餐日・世界宣教の日」を覚えて礼拝を守っています。私たちの小さな集まりでも、世界教会につながっている一つの肢として、「主の晩餐」に預かることの大切さをみ言葉から学び、もう一度その意義を確認できたらと願っています。テキストはパウロがコリント教会の人たちへ「偶像礼拝」を避けるように勧めている箇所です。14節に「こういうわけですから」とあるのは、すぐ前の箇所でイスラエルの先祖たちが出会った荒野における出来事を例に挙げて論じていることを指しています。その偶像礼拝の中身とは「悪霊の食卓に与ること」で、そういうものを避けなさいと勧めているわけです。16,17節は聖餐式の際に司式者が必ず読む部分ですから、アーあの言葉か、と誰でも気づくと思いますが、その主の聖餐に与る恵みが、文脈である「偶像礼を避けなさい」ということに対比されて述べられています。

 私たちのプロテスタント教会は、宗教改革以来、洗礼と聖餐を聖礼典として守り受け継いでいますが、その受け継ぎ方、守り方は千差万別です。まず第一に気がつくことは聖餐の餐という字が表現しているように、食事の場面に深く関係していることです。食事は「食べること」と「飲むこと」ですが、私たちの日常生活の中で、命を支える一番基本的な場所でしょう。初代教会の「主の晩餐」も実際の共同の食事という枠の中で、そこで出されていたパンと葡萄酒を用いて、それを切り離さずに守り引き継いでいきました。サクラメントはカトリック教会では「秘蹟」とされ、プロテスタント教会では「聖礼典」と訳されますが、そこにはいろいろ問題があります。聖という字を頭に加えることで、実際の食事の場面との関わりはかなり薄められて、聖なる厳かな儀式という側面のみが強調されるようになってしまったのです。カトリック教会の秘跡を否定した時に、秘跡ではないけれども大切なものだということを表現するために苦心したのでしょう。

 とにかく聖性を強調すればするほど、聖餐式は形式化して、食べ、飲むという現実感が乏しいものになってしまったと思うのです。これは日本の教会だけのことではないようで、「主の晩餐がキリストの死を記念する悲しみに支配された記念礼拝のようになって、もはや共同の食事ではなくなっていることは残念だ」と指摘する神学者もいます。共観福音書によると「最後の晩餐」はユダヤの過越しの祝いの食事ですが、イスラエルの民はその祝いの食事を通してエジプトの奴隷からの解放をもたらしてくれた神さまの救いと解放の業を覚えて祝いの食事を一緒にしたわけです。過越祭での主役は神さまとモーセですが、「最後の晩餐」の主役はもちろんイエス・キリストです。新しく誕生した教会は、イエスさまを囲んだ「最後の晩餐」に与ることによって、出エジプトにはるかにまさる広く深いキリストの救いの業を祝い、感謝したのです。

 聖餐という言葉は、英語のHolyCommunionやEucharistの訳語ですが、Eucharistはギリシャ語の「感謝」という意味のeucharistiaから来た言葉ですから、本来は主の死を悲しんで涙にくれるしめやかな葬式みたいなものではなくて、主イエス・キリストが我々の救いと解放のために神の小羊として十字架につけられたことを感謝し、祝う福音の宣言として、もっと力強く表していいと私などは考えます。16節には「神を賛美する賛美の杯」また「私たちが裂くパン」という表現が出てきます。ここではやはり聖餐式で用いられる「パン」と「ぶどう酒」に注目せざるを得ません。私たちが聖餐式においてパンとぶどう酒に与るとは何を意味しているのでしょうか? 聖餐、主の晩餐は古くからコミューニオンと表記されてきました。これは「一つのものに共に与る」という交わり、共同性を表わす言葉です。ですからパンと葡萄酒をいただくということは、一人の主イエス・キリストと私たちとの深い結びつきを表現するものです。

 だからこそパウロは14節で「偶像礼拝を避けなさい」と勧め、すぐ後の21節で「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできない」と述べるわけです。食事を共にするということは、私たちの日常生活においてがそうであるように、それ自体が交わりの意思表示です。食卓を共に囲むことによって、お互いの間に親しい関係が生み出され、仲間としての一体性が確認できます。ところが現実の人間関係にはその食事を共にすることを阻む要素が沢山あります。パウロが生きた時代にはユダヤ人と異邦人の壁がありましたし、ユダヤ人は取税人や罪びと、重い皮膚病にかかった人たちとは食卓を共にすることを避けました。これらは現実世界の交わりを断絶する深い溝です。

 イエスさまのすごいところはこうした溝を次から次へと埋めていったことです。誰とでも、いつでも、喜んで食事をされています。もちろん取税人や罪びとたちともです。ファリサイ人がそうした情景を見て、激しく非難したことがマルコ福音書(2:16)やマタイ福音書(11:19etc)に書いてあります。先生であるイエスさまが非難されたということは、付き従っている弟子たちも同じように非難されたということでしょう。イエスさまの行動に従ったがために自分たちも非難されたということは、弟子たちには非常に辛い、印象深い経験として心に残ったと思います。このイエスさまの振る舞いが、初代教会が「主の晩餐」を守るようになっていく中で、その精神を生かすべく反映されたであろうことは確実だと思います。

 「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。この17節の一節の中に、「一つ」という言葉が3回も繰り返し使われています。きょうはご一緒に聖餐をいただきますけれども、私たちの前に置かれている一つのパン(昔は文字通り一つのパンをちぎって分かち合いました)、このパンは一人のキリストを象徴しているだけではなく、一人のキリストにつながるキリストの体である一つの教会をも表しています。聖餐のコミューニオンでは、一人の主イエス・キリストと弟子たちの結びつきだけではなく、同じ一つのパンに与る弟子たち相互間にある一つの交わりが示唆されています。ですから、私たちは聖餐に与る際に、世にあるこの教会が一つの主の体となるように、という願いを切なる祈りとしてささげなければいけないのではないでしょうか。古代、中世、近世と代々の教会は、この一つのパンが象徴している一人の主、一つの教会ということを正しく覚えて、それにふさわしく聖餐を執り行ってきたか、また執り行っているか、を絶えず反省しなくてはならないでしょう。

 教会がキリストの一つの体と言われているにも拘わらず、分裂に分裂を重ねて来て、一つの聖餐を共に守ることができないようになっている現実は本当に悲しいことです。東西両教会間で、カトリックとプロテスタント間で、またプロテスタントの教派間で、果ては同一教派や同一教会内で、聖餐を表す言葉の解釈をめぐって論争と分裂を重ねてきたのがキリスト教会のまぎれもない歴史の一面です。私たちはそうした現実の中にいます。だからこそ、今私たちは一つのパンから一人の主、そして一つの教会を表している「主の晩餐」が意味するものをもう一度捉え直して考えるべき時に来ているとも言えます。誠実に牧会にあたってきた牧師を、配餐方式を理由に教師籍をはく奪するような、いわば宗教的迫害、教会分裂の時代を何としても終わらせたいものです。WCCやNCCなどのエキュメニカル運動はそこに大きな意味を持っています。

 私たちは聖餐において与えられる一つのパン、一つの杯が、一つの教会を指し示していることを学んでいますが、このことに関して最後にもう一点、私が考えていることを申し上げます。一つのパンが一つの教会を表すしるしであることは、教会が一つの世界を生み出す原動力であることを表していると思うのです。パウロの時代の目に見える一つの世界はローマ帝国でした。すべての道がローマに通じていたと言われた、そのローマ帝国です。その一つの世界は強大な軍事力を誇りましたが、ギボンがその著「ローマ帝国滅亡史」で明らかにしたように、その歴史は跡形もなく消え去りました。しかし、パウロには目に見えなくとも、信仰によって示された壮大な一つの世界がありました。パウロは、キリストの体なる一つの教会の基礎の上に、ローマ帝国に代わる一つの壮大な世界を仰ぎ見ていたと私は信じています。

 21世紀の現在、国も教会も民族も分裂して多くの世界に別れてしまっています。パウロの時代に異邦人の隔ての中垣があったように、今私たちの前には政治の壁、イデオロギーの壁、民族の壁がそびえ立っています。しかし、これまでは理念上でしか存在しないと見られてきた一つの世界が少しずつ姿を現しつつあるのではないでしょうか。地球温暖化も国際金融マーケットもとっくに国境などという隔ての中垣を越えてしまっています。様々な困難があるにも拘わらず世界は様々な面で一つになることを求めているように感じるのです。イエス・キリストにあって創造された神の一つの世界、それを現実的に噛みしめたいものです。


 
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