イエスさまはこのテキストで第一の掟、第二の掟という言い方をされています。「掟」と訳されているのはノモスという語で、旧約のトーラーにあたります。ですから普通なら「律法」と訳されるでしょう。日本語で「掟」と訳したのは訳者の意図があったのでしょう。掟という日本語は「教え示す」というよりは、「命令」のニュアンスが前面に出ると思うのです。当時のユダヤ人社会では命令的な強い意味合いだった、ということでしょうか。現に新改訳聖書ではストレートに「命令」と訳しています。これは律法をどのように受けとめるかというコンセプトの問題ですが、本来生き生きとした神さまと人間の関係を表現した律法が長い間に固定化して、日常生活の仔細な部分まで支配するようになってしまっことをより強調するために「掟」「命令」としたのでしょう。口語訳の「いましめ」はニュアンスとしては「訓戒」でしょうか。
とにかくイエス時代の律法は細かい規定が600以上あったと言いますから、それは社会全体が律法によってがんじがらめになっていた状態です。そうした状況下で「これが一番大事だ」と、自由に判断することなど許されることではなかったでしょう。ところがテキストに登場する律法学者は「どれが一番大事か」と尋ねました。イエスさまを困らせてやろうといった意地悪な空気は感じられませんので、こう尋ねた律法学者自身は割合自由な精神の持ち主だったかもしれません。律法規定が細分化してしまえば、本来律法に脈々と流れていた神と人との生き生きした関係は薄まって、本質は見失われがちになったことでしょう。これはユダヤ人のみならず人間の限界です。現代の私たちにしたって、情報が溢れれば、一体どれが自分にとって重要なのか判断することは非常に困難です。普段から自分の中に規準を確立しておかないと、私たちは情報に振り回されることになります。
東日本大震災に伴う原発事故からもう3年半以上が経ちましたが、この間ずっと考えてきたことがあります。一つは、原発事故が津波に誘発された人災だったということです。人災だったという点をはっきり認識するためには多少なりとも原発に関する科学知識が必要です。私の場合、九州時代にお寺の住職たちと基礎的な勉強会を続けていたので、それが随分役に立ちました。もう一つは、宗教的な側面と言いますか、大災害に遭遇して、ものの見方とか考え方をどう整理したらいいのかという問題でした。これは別な言い方をしますと、人生においてしなければならないことが沢山ある中で、何が一番大切なのかを問い続ける姿勢です。律法学者の「どれが一番か?」という質問は、このことに関わります。ですからこの律法学者はとても意味のある質問をイエスさまにぶつけたのです。
イエスさまは旧約から二つの戒めを取り出されました。それが神さまを愛することと、自分を愛するように隣人を愛することでした。自由な精神で質問した律法学者に、イエスさまも自由な精神で応えられたのです。イエスさまがまず引用されたのは、申命記6章4-5節でした。『聞け、イスラエルよ』で始まる箇所です。ユダヤ人は子どもの時から朝夕唱えさせられて暗記していた戒めでしょう。ユダヤ人が子どもにそうした教育を徹底したのは、人生の根本に関わる問いに対する答は、本を読んだり自分なりに考えたりしただけで与えられるものではない、という信仰上の信念によるものです。彼らは何よりもまず聖書を通して神さまの言葉を聞くことからすべてが始まる、と確信していました。人間の思想や教えからではなく、まず神さまの言葉を聞くことから始めるという態度は、私たちにも大きなヒントを与えてくれます。現代人の私たちがまず愛するのは家族でしょうか仕事でしょうか。まァ、多くの財産でもあればそれも愛する対象かもしれません。何を愛するかというのは、私たちが自分の人生の拠り所を何に置くかということにつながっています。生きる拠り所ですから、私たちは何としてもそれを手に入れたり守ったりしようと努力します。これは別に悪いことではありません。イエスさまが提示してくださったことは、私たちにとっての生きる拠り所、それら諸々を神さま以上に愛するか、ということではないでしょうか。これは生きる目的に関わるのです。
ご承知のように聖書を貫く思想は、神さまが人を創造されたということです。この土台に立つと、私たちの生活のあらゆる領域において、人が神さまを愛し、そのみ心に従うのは自然なことです。しかし人はその土台に立っていることをしばしば忘れます。私たちはイエスさまを信じる信仰を与えられていますから、誰かから「あなたの人生の目的は何ですか?」と尋ねられたら、神さまを崇め、神さまと親しく楽しく交わって生きることだ、と答えるべきでしょう。日曜日ごとに礼拝を大切に守るのは、このことを実践するためです。礼拝を捧げることを通して、自分の生活の在り方を整え、神さまに造られ生かされている自分を確認することは、キリスト者の大切な歩み方です。もう一つイエスさまは重要なことを示されました。それはレビ記19章18節からの引用です。これは第一の掟と切り離して示されたわけではないでしょう。ヨハネ書簡に『神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である』とあります(ヨハネ一4,20-21)。自分を愛することはたやすく出来ますが、他人となるとそう簡単ではありません。しかし神さまは、自分を愛することと他人を愛することを切り離されないのです。その理由は十字架です。
イエス・キリストの前に私たちは実に愚かな存在ですが、その私たちをかけがいのない尊い存在として生かすために、イエスさまはご自分の命を十字架に捧げられました。このことに倣いなさい、とイエスさまはおっしゃっているのです。十字架の意味がよく分かれば、私たちはどんな時でも、自分の弱さや醜さに失望しません。イエスさまが弱くて醜い私たちを生かしてくださっていることが分かっているからです。またそれ故に、私たちは自分を大切にこそすれ、粗末に扱うことはありません。イエス・キリストの愛によって人間が生かされるということは凄いことなのです。ですから当然隣り人とは自分のお気に入りの家族や友人たちだけではありません。私たちが出会うすべての人が愛する対象です。ユダヤ人はイスラエルという民族枠を設け、律法を金科玉条としましたが、イエスさまはその律法によって民族枠そのものを粉砕されてしまったのです。
イエスさまの前で、人種や国籍、敵味方といった選り分けは通用しません。「よきサマリア人の譬え」が端的にこのことを表わしているでしょう。私たちは生まれたままだとしたら、間違いなく差別をしながら、或いはお互いに敵対しながら生き続ける存在になるはずです。けれどもイエスさまは、神さまの愛によって、人間が越えることのできない壁を軽々と越えてしまわれるのです。科学技術を発展させ、食糧や資源を際限なく追い求める現代ですが、そういうことの前に、神に創造された存在として、人間に本当に必要なものは何なのかをもっと深く追求すべきなのです。人災である原発事故は、現代人が神さまに喜ばれるように生きて行くための備えを怠ったままで、科学を魔法の杖のように信奉してしまった結果です。人間が作り出したもので人間が厄災を負う……、これは科学技術が万能ではないということです。社会的には、政治と経済と文化のバランスをしっかり意識して生きて行くということですが、どういう工夫をするにしても、人間にとって一番大切なことはまず神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛することです。周辺のみならず地球上には苦しんでいる人たちが沢山いるでしょう。その人たちに私たちがどう向き合うかということでもあります。東日本大震災の折、混乱した私たちの国に手を差し伸べてくれた国々がたくさんあったことを思い出します。
ドイツの支援も物心共に大きなものでした。正直ドイツのキリスト教は黄昏だと思っていた私は本当に自分を恥じました。ドイツの教会は自分を愛するように、隣人の日本を愛してくれたのです。私たちもイエスさまが示してくださった一番重要な掟に、いま一度しっかり耳を傾けて、隣人を愛する方向に向けて一歩を進めてまいりましょう。祈ります。