2014.9.28

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「神さまの前では手ぶら」

秋葉 正二

創世記1,20-28マタイによる福音書6,25-34

 きょうのテキストは私たちが何度も何度も読んできた有名な箇所ですが、きょうは少し違った観点から読んでみたいと思います。カトリックもプロテスタントもほぼ共通に使っている「使徒信条」という古い基本信条があります。その解釈を巡っては現代的な理解の仕方からは問題も指摘されていまして、意識的に使っていない教会もあります。私が牧会していた九州の教会は戦前の日本基督教会でしたが、その伝統で礼拝プログラムの中に毎週「使徒信条」を組み入れていました。14年も毎週唱えていたので、私もすっかり諳んじています。イエス・キリストの生涯を短い言葉で表現していますが、その一節に「死にて葬られ」というくだりがあります。もちろんイエスさまが十字架にかけられ、「死にて葬られ」たという流れの中の一節です。私はいつの頃からか、その一節に触れる度に「ああ、自分の死もいつも目の前にあって、自分という存在はこの時‘死にて葬られた’お方とつながっているんだな」と思うようになりました。教会で逝去された方々を天にお送りしてきた際にも、この一節を思い出しました。

 今立松和平さんの書かれた「良寛」を読んでいます。小説風に書かれている作品ですが、常に強調されているのは「死」を諦念として受け留める主人公の姿勢です。立松さんは道元についての著作がありますし、ブッダについても書いていますから、仏教に傾倒していたのでしょう。彼の作品「良寛」は、「大法輪」という仏教系の雑誌に連載していた未完の絶筆です。良寛は禅宗の僧ですから、死についてもひたすら悟る心を追求したのだ、ということが立松流の解釈で描かれています。死からの救いの道筋として、どちらかと言えば論理的に追及するキリスト教信仰とは違うなァ、と思うのですが、私たち生きている者の前に「死」がいつもあるという点は共通です。要はその死をどのように捉えるか、どう見るか、ということなのでしょう。私は良寛関係の方をかなり読んでいる方だと思いますが、良寛は人間の死を、よく修行を積んだ結果、諦念として捉え得た人物だと見ています。

 私たちは家族の誰かを失えば、もちろん極度の寂しさや悲しみに襲われますから、キリスト者としてひたすらイエスさまの慰めを祈るしかないのですが、その時もう一つの側面として、自分の死をも見つめなければならないということがあると思うのです。他者の死は、この自分もやがて土に帰る、という現実を突きつけます。キリスト者として死に向き合うことはもちろん諦念ではありません。それは古い信条を残してくれた古代のキリスト者の声からも分かります。私たちキリスト者にとっては、家族でも自分でも死に直面した時には、十字架につけられ、「死にて葬られ」たイエスさまのことをひたすら見つめることが最大の慰めです。それとは対照的に、良寛さんが生きた禅宗世界では、一切死について考えることは無用なのです。諦念とは死を道理として悟ってしまうことですから。しかい曹洞宗でも臨済宗でも葬儀の形式はきちんと継承していますから、諦念として死を受けとめるとは言っても、「葬る」ことは大切にしているわけです。

 この「葬る」ことについて驚いた経験があります。野生の動物の中にも「葬る」ことを行うものがあるというテレビのドキュメンタリー番組を何年か前に見たのです。アフリカ象の小さな家族集団とも言うべき群れを追った番組でした。野生ですから傷ついたりすれば仲間と一緒に行動できなくなり野垂れ死にます。その番組で追っていた群れの一頭が死ぬということが起こりました。するとその死体の周りに家族の群れが輪を作るように集まって、死体に鼻をなすったりし始めたのです。そしてその場を離れる際、全頭が鼻を上に挙げて「プオーッ」と鳴いたのです。ナレーターはそのシーンを仲間の葬式をしているのだと語っていました。動物学的にどれだけ正確な解説をしているのかは分かりませんが、もしかすると野生動物の中には象の群れのように、「葬る」という行動をするものがいるかも知れません。

 イエスさまは、『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』 とおっしゃっていますから、キリスト教では葬ること、つまり葬儀そのものにはあまり強い関心は寄せてこなかったのかも知れませんが、イエスさまのその言葉は、弟子の一人が、『父を葬りに行かせてください』 と願い出た際に出たものでした。葬儀はドライに言えば、死んだ者と残された者との深い交情を物理的に断ち切ることによって、残された者の生活を保障する共同体の知恵です。日本の歴史では、葬式とは死者を公式に残された者たちの共同体から排除するセレモニーです。あえて排除することによって、死を乗り越えたのです。死者が残された者に死の恐怖という影響を与えないように押さえ込んだ儀式こそが葬式です。キリスト教ではしませんが、日本では野辺の送りの際に行き帰りの道を変えたり、お骨上げの時に二人箸をするなどというのも、死者の霊が戻ってしまうのを妨げる行動です。しかしキリスト教は違います。「死にて葬られ」という言葉の背景には、日本などの風習とは異なり、死んで葬られることになってもイエスさまはずっと共にいてくださる、という信仰告白が込められているのです。

 きょうのテキストを読み込むために、「死」についての少し長くあれこれ申し述べました。さて、25節で「命」と訳されている語は、元来は「魂」の意味です。テキストではこの言葉は「体」と対立関係に論じるのではなく、補い合う関係です。体と命とは創造主なる神様から与えられたものだというのが前提です。そして大きな事柄から小さな事柄を論じるという形で、創造主なる神様は必ず食物と衣服のことも心配してくださるというイエス様の確信が披歴されます。イエス様が「思い悩むな」とおっしゃる時、イエス様は創造主なる神様と一体です。そしてこのことを「空の鳥」と「野の花」という自然を題材にした比喩で述べられました。「空の鳥」はルカの並行記事では「からす」ですから、イエス様はユダヤ世界で不浄の代表であった「カラス」を思っておられたかも知れません。だとすると、人間世界で不浄とされるものにさえ、神様は配慮されていることになります。

 27節では食物と衣服というテーマの文脈が中断されます。この節は内容的に見ても信頼への呼びかけではなく、心配無用だよということでしょう。28節で文脈は元に戻ります。ルカ福音書ではこの移行が補強される形になっているのですが、マタイではルカとは異なり、男性の畑仕事と女性の家事とが並列になっています。その上で、そのどちらの仕事もしないのに、野の花はソロモンの豪華ささえ凌駕していると指摘するのです。そして段落全体の結論をマタイは34節にまとめるています。マタイの視点としては、信仰の目を通して見た生きる根拠という点に、強い関心が置かれているようです。つまり信仰の生というものは、人間が翌日のための心配から解放され、安心して今日というこの一日と向かい合って生きることを許されている、そういう形で現実化されるのだ、とマタイは考えていたのではないでしょうか。

 イエス様の生き様はまことにラディカルでしたが、それは私たち人間をとことん愛し抜かれ、何としても罪ある人間を神様が賜わった本来の命へと向かわせたい、という愛に裏打ちされた熱意です。この世は理不尽が支配しているように見えますが、イエスさまはそんな不条理にかき乱されなくてもいいよ、私はあなたの死の時まで傍らに立っているよ、と語りかけてくださっているように感じます。私たちは日々思い悩みます。でも本来はそんなものに支配されなくてもよいのだ、とイエス様は示されているのです。終わりに、きょうのテキストとは別な箇所ですが、ラザロの復活の記事にあるイエス様のお言葉を読んで結びとします。

『生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。このことを信じるか。』

 主イエス・キリストの死、即ちイエス・キリストの生に導かれて、日々思い煩うことなく、ありのままの自分を表現していけば、そこには既に死はその力を失っているということです。信仰の生活をまっとうしたいものです。


 
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